とあるエルフの少女は思い悩む
ああ、これは夢だ。いつもの悪夢。はやく目を覚まさなきゃ、と。私は思う。
私の視界に広がる、あかいせかい。この世界にある赤をすべて持ってきて、ここでぶちまけたのではないかと疑うほど鮮烈な色彩。そこには文字通り、極彩色の悪夢がある。「誰か助けて」と叫ぶが、私の声は、私にすら届かない。
いつだって叫ぶ声は私以外の、私の視界にいる人たちのものだった。
私の視界は赤く染まり、その中には私と同じエルフだけではなく、どうやら人間もいる。
場所は何処だか分からない。枯草に鉄錆を含んだような異臭の中、微かにだが、嗅ぎ慣れた森の匂いがする。だから、その場所がエルフの森の何処かだと、私は気付く。
エルフの森は深い。人間たちが迷いの森と呼ぶほどに深く、エルフの隠れ里を守るために、その枝葉を伸ばしているのだから。いくら私がエルフで森に詳しくても、分からない場所があるのは当然だった。
ぐちゃぐちゃ、と。私の耳元で聞こえてくる咀嚼音。まるで生肉を誤飲したような血の味。私は吐気を催すが、口内にいれたモノを出すことは、許されていないらしい。
いつからこの悪夢を見るようになったのか、憶えていない。いつから悪夢を見るようになったのかは憶えていないのに、口内にいれたモノを出すことを許されていないのは、最初からだったのを私は憶えている。
いつの間にか私は気が付いたら悪夢の中にいて、まるで悪夢を見るのが当然だと言わんばかりに、ほぼ毎日のように悪夢を見せられているのだ。
その内容に若干の差異はあれど、「何か」がエルフや人間を喰い殺す悪夢を。
私は「誰か助けて」と叫び、手を伸ばす。私の叫びは誰にも届かないし、伸ばした手も、やはり誰にも届かなかった。
「...............ゆ、め......」
ぼんやりと目を開ければ、視界には見慣れた自分の部屋の天井と、その天上に向かって伸ばされた自分の腕。
ああ、現実に戻ってきた。リザは思う。
「リザ姉ちゃん、ごはんだよ」
「ごはん、ごはん」
部屋の扉が勢いよく開け放たれ、元気な声と一緒に、年の離れた幼い弟たちが飛び込んでくる。そのままリザが寝ているベッドへと向かって、勢いを殺さずにダイブしてきた。それで私は「ああ、現実だ」と再認識する。
弟たちと一緒に食卓へと着くと、両親が今度は心配そうに私の顔を覗き込む。
「おはよう、リザ。どうやらまだ悪夢にうなされているようだね」
「あまり顔色がよくないわ」
優しい両親の声。また私は「こちらが現実だ」と再認識する。
「大丈夫だから。そんなに心配しないで」
私は努めて明るく、元気よく、両親に向かって言う。リザは何度も自分に言い聞かせるように「大丈夫」を繰り返す。悪夢により蝕まれていくリザの精神を気にかけ、両親だけでなく、友人たちにも、いつもの自分を必死に取り繕って「大丈夫」とリザは笑う。
自分でも気付かない内に、少しずつ、記憶のない時間が増えたとしても。リザの日常は変わらない。
そんな中でエルフの隠れ里を含め、周辺の村から人間が次々と行方不明になる事件が起きる。行方不明になるエルフや人間は、一人や二人ではない。少なくても十人以上は超えていた。
あの悪夢が始まってから、エルフや人間が行方不明になる。これは何かの前兆ではないのだろうか。もしかしたら、誰かが私に夢を見せることによって、事件を知らせてくれているのでは、と。自発的に思ったような気がしたけれど、いつの間にか自分がそう考えたことまでも、リザは忘れるようになっていく。
そうして、記憶のない時間も増える。忘れたことさえ、気が付かずに忘れていく。けれど、悪夢は繰り返す。
これではまるでエルフの森へと迷い込んだ人間のようだ。
エルフの隠れ里の外れにある丘で、ぼんやりと、そんなことをリザは思う。ここを訪れた記憶はない。訪れなかった記憶も、ない。
現実と夢の境界線は何処にもないのかも知れない。
***
そう現実と夢の境界線は何処にもない。この世界にあるモノは、もう悪夢の残滓しかないのだから。
私は実験を繰り返す。
どうせ後戻りはできないのだから、と。割り切った瞬間。私の世界は開かれ、私の中の認識が変化し、変質して変貌を遂げ、ある一点へと収束し、集束する。まるで天地創造の瞬間のようだと思った。
私はいまエルフの隠れ里の外れにある丘から、魔術塔を眺めている。
何だかんだで色々と思い入れのある魔術塔を一望できるこの場所は、私のお気に入りだ。
現在。このエルフの隠れ里を含め、周辺の村では、エルフや人間が行方不明になる事件が、相次いで起きている。行方不明になった者の数は、いまや数十人を超え、私も途中からは数えていない。
そもそも数える必要性がないのだから、数えなくても問題ないだろう。
「ねえ、あなたもそう思うでしょ」
私は背後にいるエルフの少女へと言う。当然ながら、応えはない。
エルフの少女には名前があったはずで、私と出会った時に彼女は名乗ったが、それすらも私は記憶に留めなかった。かつて私が拾った二人の弟子とは違い、エルフの少女の名前は憶えなくてもよい。
実験動物の名前を記憶することは、私にとっては無駄なのだ。どうでもよいことは忘れる。
でなければ、私は狂ってしまうから。
だから、忘れた。必要なこと以外は、すべて。
記憶があることで壊れてしまうぐらいであれば、いっそ、すべて忘れてしまえばよい。私は私なりの優しさで、この憐れなエルフの少女へと、ささやかな贈りものをしていた。私が彼女の精神に施した魔術は「忘却」である。
彼女への実験を行い、段階が先へと進むほど、それは彼女の精神を蝕む。
「あなたも災難ね」
もう誰の声も聞こえていないエルフの少女へと向け、私は話しかける。
「あなたに天使の《勇者》としての素質さえなければ、こうして私に目を付けられることも、私の実験に付き合わされることもなかったでしょうに」
彼女には私の理論が「本当に正しいのか」を証明するため、私の実験に協力してもらっているのだ。この実験を行うためには、どうしても「天使の《勇者》としての素質」を持つ者の協力が必要不可欠である。
かつて私が拾った二人の弟子のうち、どちらかに協力を依頼してもよかったのだが、いまの私は二人とは会えない。それにいくら私でも、自分の可愛い弟子たちを被験体にはしたくなかった。
私に残された欠片ほどの感情だからこそ、自分の気持ちは大切にしたい。
何はともあれ彼女に協力してもらえたお陰で、私の理論が「正しい」ことは無事証明された。だから、実験を次の段階へと進めることにする。
「これが私からあなたに贈る、最後のプレゼントよ」
焦点の合わない瞳で、ぼんやりとしたままのエルフの少女に私は告げた。
「あなたを悪夢から解放してあげる。
けれど、そこからはすべてが現実。何処まで目を逸らさずに受け止めることができるかしら。すべての真実を知ってなお、あなたは《あなた》を受け入れて、それでも壊れずにいられるのか。私に見せてくれる?」
私は独自に組み立てた精神操作系の術式を、直接、彼女の魂へと刻み込む。彼女の口から悲鳴がもれ、口の端からは涎がたれ流れる。偶然にも覗き込んだ彼女の瞳。深淵の闇が広がった世界に、あの頃と何一つ変わらない姿の私が映った。
ああ、これは夢だ。そう思いたい。あの頃と何一つ変わらない姿の私は、泣き叫んでる。
「誰か、助けて」
呟いた声は、誰にも届かない。私はあの頃の何も知らない《私》を呪う。
そこにいるのは叡智ではなく、忘却の魔女だった。
***
ここは何処だろう。ぼんやりとした寝起きの頭で、私は、いま自分が何処にいるのかを考えた。
ああ、ここはエルフの隠れ里の外れにある丘か。
違う。ここは私の自室だ、と。はっきりとした意識の中で気付く。
「あれ、私......」
いつの間に寝たのだろう、かと。寝ている間に何やら夢を見たような気がするが、それはここ最近、悩まされ続けた悪夢ではない。
「リザ姉ちゃん、ごはんだよ」
「ごはん、ごはん」
部屋の扉が勢いよく開け放たれ、元気な声と一緒に、年の離れた幼い弟たちが飛び込んでくる。そのままリザが寝ているベッドへと向かって、勢いを殺さずにダイブしてきた。反射的に二人の弟を受け止め、弟たちと一緒に両親のいる食卓へと行く。
「おはよう、リザ。どうやらよく眠れたようだね」
「すっかり顔色もよくなって。安心したわ」
優しい両親の声。いつも通りの日常が、そこにはあった。
「もう大丈夫だよ。心配かけて、ごめんね。パパ、ママ」
あの悪夢からは解放され、リザは元気を取り戻す。
けれど、エルフや人間が行方不明になる事件は、収束する気配を一向に見せない。相変わらず続く事件に、私は調査を始めようと考えた。本来であれば、単独で調査をすることは危険なため、止めるべきだろう。
もしも、長老や両親にバレたら、間違いなく怒られる。
だから、リザは自分の分かる範囲で行方不明になった者をリストアップし、まとめて見る。
行方不明になる者の共通点はないかと考え、多角的な視点を取り入れると気付くことがあった。どうやら共通点は行方不明になった場所らしい。リストアップした全員が例外なく、エルフの森の周辺で消息を絶っていた。
エルフの森は人間が誤って、この隠れ里に迷い込まないための役割をしており、その性質を考慮して「番人」がいる。エルフの森を抜けて隠れ里に入るためには、エルフの案内人が必要であり、人間を招き入れる時には長老の許可が必要なのだ。番人の役割は交代制であるため、戦える者は例外なく、数日に一度は番人になる。
リザが次の番人になる日は、ちょうど明日だった。明日はいつもより周辺への警戒を強め、事件を解決するための糸口がないか、手掛かりをつかみたい。リザは今日の内にできる準備を行い、明日に備える。
そうして、その結果。
「え、天使......?」
リザは天使に弓矢を向けてしまうことになるのだった。