ep. 1 欲しいものが、たまたま姉の隣にいただけ
全5話の短編です。
本日は第1話・第2話を同時投稿。まずは妹視点から。
姉の恋人を見た瞬間、ああ、これ欲しい、と思った。
べつに、お姉様のものだからではない。
欲しいものが、たまたまお姉様の隣に立っていただけだ。
そう思ったのは、春の終わりの午後だった。
我が家の応接室は南向きで、白いレース越しの陽がやわらかく差し込む。
磨かれたティーテーブルの上には、ちょうど銀のポットと花のような焼き菓子が並べられたところで、私はそこで、姉の戻りを待つ客人の相手をしていた。
相手をしていた、というと聞こえはいいけれど、実際は少し違う。
お姉様が「すぐ戻ります」と言って部屋を辞したので、部屋に残された私が、なんとなく向かいに座っているだけのことだ。
けれど、その少しの間で十分だった。
整った顔立ちの人だとは聞いていた。
公爵家の嫡男で、社交界でも評判の良い方だとも。
でも、実際に目の前にすると、そういう噂はあまり役に立たない。だって、綺麗な人が綺麗なのは見ればわかるし、噂どおりかどうかなんて、ほんの一瞬で知れてしまうもの。
問題は、その先だった。
「妹君まで付き合わせてしまって、申し訳ないね」
柔らかくそう言って笑った顔が、まず良かった。
声も良い。低すぎず、軽すぎず、相手が緊張しないように少しだけ和らげて話す癖のある声だ。
それに、公爵家の方にありがちな、自分が場の中心で当然だという押しの強さがない。
人当たりがいいというより、相手の呼吸に合わせるのが上手いのだと思う。
「いいえ。わたくし、お茶を飲んでいただけですもの」
「その言い方だと、僕が勝手にそこへ座っているみたいだ」
「違うんですの?」
「違うと言いたいところだけど、半分くらいはそうかもしれないな」
そこで少し肩をすくめるようにして笑う。
あら、と思った。
軽口に嫌味がない。
身分の高さを使って会話を支配しない。
私の拙いやり取りに、ちゃんと同じ高さで返してくる。
顔が良いだけじゃないんだ。
その事実が、思ったより強く胸に落ちた。
お姉様の恋人だという時点で、多少はちゃんとしているだろうとは思っていた。
お姉様は好みが分かりやすい。
きっちりしていて、将来が安定していて、家のことや領地のことを任せても問題のない相手。
そういう「ちゃんとした人」が好きなのだ。
だから正直、もっと堅い方かと思っていた。
話しにくくて、息苦しくて、隣に座っているだけで姿勢を正したくなるような人を想像していたのに、目の前の方は違った。
きちんとしているのに、窮屈じゃない。
上等な服を着ているのに、服だけが先に歩いている感じがしない。
人に気を遣わせるより先に、自分が少し砕けてみせる余裕がある。
なるほど、と私は思う。
これなら、お姉様が頑張るのも分かる。
「妹君は、夜会にはよく出るの?」
「必要な時だけですわ。母はもっと出なさいって言いますけれど」
「もったいないな。君がいたら場が華やぐのに」
「あら」
「本心だよ」
さらりと口にして、しかも軽薄に聞こえないのだからずるい。
こういうことを言われ慣れていないわけではない。褒め言葉なんて、社交の場にはいくらでも転がっている。
でも、同じ言葉でも、誰がどういう顔で言うかで価値が変わる。
目の前の人は、その価値の変え方を知っている人だった。
私は少しだけ身を乗り出した。
「では、今度からもう少し出たほうがよろしいかしら」
「ぜひ。君がいると、退屈しなさそうだ」
「退屈なさるの?」
「たまにね。皆、同じ話ばかりするから」
「分かります。宝石とドレスと婚姻と誰が誰に微笑んだか。あとは誰が誰を嫌ってるか」
「最後のは少し面白そうだ」
「でしょう? でも、だいたい予想どおりなんですの」
「手厳しいな」
おかしい。
とてもおかしい。
まだ大して話していないのに、妙に会話が転がる。
私が少し投げた球を、ちゃんと拾って、少しだけ磨いて返してくる。会話の流れに無理がない。
それに、私に合わせて話しているのが分かる。子ども扱いでも、女の子扱いでもなく、私が楽しいと思う調子に寄せてくれている。
この人、お姉様といて楽しいのかしら。
ふと、そう思ってしまった。
お姉様は優秀だ。昔からずっとそうだ。
勉強もできるし、仕事もできる。父や家令の話を横で聞いていても、たぶん家の中で一番早く理解している。責任感だって強い。
でも、少しも柔らかくない。
正しいことを正しいまま人に渡すから、受け取る側の喉に引っかかる。
私はお姉様ほど考え込まないし、あんなふうに帳簿を睨んでもちっとも面白くない。
けれど、人がどんな顔で褒められたがっているかとか、どこで少し黙れば話しやすくなるかとか、そういうのはなんとなく分かる。
分かるというより、見ればそのままそこに書いてあるみたいに思えるのだ。
だから、目の前の人のことも少し分かる。
この方は、かしこい女が嫌いなわけではない。
むしろ有能な人間を好むタイプだ。
ただ、それとは別に、自分を気持ちよく立ててくれる相手も欲しがる。
褒められれば機嫌がよくなり、頼られれば嬉しくなる。そういう、分かりやすいところがある。
そしてたぶん、お姉様は、その分かりやすさを少し軽く見ている。
面白いな、と思った。
その時、応接室の扉が開いた。
「お待たせいたしました」
入ってきた姉は、いつも通りきっちりした顔をしていた。
髪はきれいにまとめられているけれど、飾り気はない。薄青のドレスも上質ではあるのだろうが、華やかさより実用が先に立って見える。似合っていないわけではないのに、わざわざ自分を引き立てようとはしていない装いだった。
そして、お姉様は部屋へ入ってすぐ、私たちを見た。
ほんの一瞬だけ、目が細くなる。
ああ、と私は思う。
気づいたのだ。
「長くお待たせしてしまって申し訳ありません」
「いや、妹君と話していたから退屈しなかったよ」
彼がそう言った瞬間、お姉様の口元がごくわずかに固くなった。
他の人なら見逃すくらいの変化だったけれど、私は見慣れている。お姉様が機嫌を悪くした時の顔だ。
でも、だから何だろう。
私は別に何もしていない。
少し話して、少し笑っただけだ。
それで空気が変わったのだとしたら、変わるだけのものが最初からそこにあったということでしょう。
「リリア」
「なあに、お姉様」
「もう大丈夫よ。席を外してちょうだい」
「ええ」
素直に立ち上がりかけたところで、彼が言った。
「もしよければ、妹君にも一緒にいてもらっては?」
「あら」
「君と話すのは楽しいから」
そんなふうに言われたら、嬉しいに決まっている。
私は思わず笑ってしまって、それからお姉様を見た。
お姉様は断るかと思った。実際、断りたそうだった。
でも、そこを露骨に拒めば自分が狭量に見えると分かっているのだろう。少しの間のあと、硬い声で言った。
「……リリアがよろしければ」
「もちろんですわ」
私は座り直した。
お姉様の視線が冷たい。
昔からこうだ。
お姉様は、私が何かを上手くやると、なぜか責められたような顔をする。
私からすれば不思議でならない。
だって私は、できることをしているだけなのに。
そのあとの会話でも、空気の違いははっきりした。
お姉様と彼の話は、よくできた書簡のようだった。
無駄がなく、破綻がなく、内容もある。領地の今年の作柄、最近の税制の変更、誰それの家の後見問題。聞いていて、なるほどとは思う。
でも、きっちりしすぎている。
そこへ私が、ほんの少しだけ横から口を挟む。
「でもその方、次男でしたでしょう? 後見を受けるなら、家の中で立場が難しくならないかしら」
すると彼はすぐこちらを見た。
「鋭いね。そこが今、問題になっている」
「でしょう? お兄様方がうるさそうですもの」
「たしかにうるさい」
「嫌ですわねえ」
彼が笑う。
つられて私も笑う。
お姉様の話の筋は通ったままなのに、空気だけが少し柔らかくなる。
その瞬間、私ははっきり分かった。
この人、お姉様より私のほうが向いているわ。
驚くほど自然な確信だった。
自惚れでも、意地悪でもない。
ただ、噛み合う場所が見えただけだ。
それに、お姉様だって、本当は分かっているのではないかしら。
この方が自分といる時より、私といる時のほうが少し楽しそうだということを。
話が終わって彼が帰ったあと、案の定、お姉様は私を呼び止めた。
「あなた、今日、随分と楽しそうだったわね」
「そうかしら」
「惚けないで。アレクシス様に必要以上に馴れ馴れしくするのはやめて」
「必要以上?」
「そうよ」
振り返ったお姉様の目は、怒っているというより、ひどく張りつめていた。
その顔を見て、少しだけ面倒だと思う。
こういうところが苦手なのだ。
最初から全部を深刻にしてしまうところ。
「だって、少しお話ししただけでしょう?」
「あなたは、昔からそうやって」
言いかけて、お姉様は口をつぐんだ。
昔から何だと言いたかったのだろう。
きっと、取るとか、奪うとか、そういうことかしら。
でも、私はあまり納得できない。
「お姉様」
「何」
「お付き合いしているからって、所有物ではないでしょう」
「……っ!」
「それに、あの方がわたくしと話して楽しかったなら、それはあの方の気持ちでもあるわ」
言った瞬間、お姉様の顔色が変わった。
傷ついたというより、平手で打たれたみたいな顔だった。
少し言いすぎたかもしれないと、その時だけほんのわずかに思う。
でも、間違ったことは言っていないはずだ。
恋人だからって札がつくわけではない。
結婚の約束があるわけでもない。
あの方にはあの方の意思があるし、私にも私の気持ちがある。
そこに順番の良し悪しはあっても、気持ちそのものに罪があるとは思えなかった。
「もういいわ」
お姉様は低く言った。
「今後、必要以上に近づかないで」
「必要、って何で決まるの?」
「リリア」
「だって、お姉様」
私は少し首を傾げた。
本当に分からなかったからだ。
「求められてることを読み違えていないかしら」
その言葉に、お姉様は目を見開いた。
自分でも、あ、言ってしまった、と思った。
でも口に出てしまったものは仕方がない。
「何ですって」
「だってそうでしょう?」
私は肩をすくめた。
「お姉様、好きな人にも仕事みたいなことをするんだもの」
「……あなたに何が分かるの」
「全部は分からないわ。でも、少なくとも、あの方がどういう顔をしていたかくらいは分かる」
「リリア」
「仕事相手なら、お姉様みたいな方は最高だと思う。頼もしいし、頭もいいし、失敗しなさそうだもの」
でも、と私は続けた。
「恋人に上司はいらないでしょう?」
お姉様の頬が、かっと赤くなった。
怒ったのだ。
怒るだろうとは思った。
けれど、私は別にお姉様を傷つけたくて言ったわけではない。
本当にそう見えたから言っただけだ。
しばらくの沈黙のあと、お姉様は扉の方を向いたまま、冷たく言った。
「出て行って」
「お姉様」
「顔も見たくないわ」
さすがに、これ以上は言わないほうがよさそうだった。
私は軽く息をついて、部屋を出た。
廊下を歩きながら、少しだけ考える。
お姉様は、昔から何でも真正面から受け止めすぎる。
褒められたければ褒めればいいし、大事にされたければ少しくらい甘えればいいのに、そういうことをしない。できないのか、したくないのかは知らないけれど。
その代わりに、きちんとして、役に立って、間違えないことで愛されようとする。
でも、そういうのは、少なくとも恋人相手には少し違うのではないかしら。
だって男の人って、もっと単純だもの。
格好つけたいし、頼られたいし、褒められたら嬉しい。
それで機嫌よく頑張れるなら、そのほうがずっと楽だ。
中身が空っぽでも、支える側が上手ければ立てる。貴族社会なんて、案外そういうものでしょう。
もちろん、あの方は空っぽではない。
むしろ、思っていたよりずっといい。
気配りができて、人に好かれて、場の真ん中に立つ華もある。
ただ、一人で全部を埋めるタイプではないというだけだ。
でも、それならなおさらだ。
私、たぶん、あの方の恋人に向いてるわ。
そう思うと、胸の奥がじわりと熱くなった。
お姉様の恋人だからではない。
公爵家の嫡男だからでもない。
顔が良くて、人当たりが良くて、しかもちゃんと中身もある。
そういう人を好きになっただけだ。
たまたま、その人がお姉様の隣にいた。
それだけ。
窓辺に差し込む夕方の光が、廊下の床を長く照らしていた。
私はその上に立って、ひとりで小さく笑う。
ああ、欲しいわ。
お姉様のだからではない。
欲しいものが、たまたまお姉様の隣にいただけだ。
お読みいただきありがとうございます!
第2話も同時投稿しています。妹ちゃんただの愛嬌要員ではないのです。
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