アイナの日記
ページを開く音が、夜の部屋に小さく響いた。
窓の外は静かで、学園の明かりも落ち着いている。
それなのに、胸の奥だけが、まだざわざわしていた。
今日は――
見てしまった。
廊下の曲がり角。
転びそうになったカレンを、エルンストが引き寄せた瞬間。
あれは、事故だ。偶然だ。
頭では、ちゃんと理解している。
でも。
カレンの指が、エルンストの服を掴んだ。
ぎゅっと。
迷いなく。
その時の、あの目。
あの空気。
(……好き)
声は聞こえなかったのに、はっきり分かった。
あれは、恋だ。
私は――見てしまった。
そして、気づいてしまった。
乙女ゲームの世界は、
「起きるべきこと」が、ある。
フラグ。
ルート。
選択肢。
私はモブだった。
それを、忘れていたわけじゃない。
エルンストに惚れて、
モブを辞めた。
それだけ。
でも、ヒロインは――
ヒロインのままだ。
胸が、きゅっと締まる。
独占欲、という言葉で片づけられない。
怖い。
エルンストが、奪われるのが怖い?
違う。
世界が、修正を始めるのが、怖い。
私がどれだけ足掻いても、
「正しい位置」に、物語が戻ろうとすることが。
エルンストは、私を見て笑っていた。
振り返った時の、あの満面の笑み。
……あれは、嘘じゃない。
分かってる。
分かってるのに。
私は、咄嗟に呼んでしまった。
「エルン」
あだ名。
無意識。
距離の証明。
あの瞬間、
カレンの指が、ほんの少しだけ緩んだのを、私は見逃さなかった。
それが、余計に怖い。
私の存在が、
誰かのルートを、歪めている。
ベルンハルトと距離を取っているカレン。
ぎこちない、桃色と銀色。
胸の奥に落ちた、不穏。
私は、何をしているんだろう。
守りたい。
でも、壊したくない。
選ばれたい。
でも、奪いたくない。
エルンストは、狩人みたいに一直線だ。
行動してから、あっ、ってなる人だ。
だからこそ――
怖い。
彼は、私を選ぶ。
そう信じたい。
でも、世界が、許すかどうかは、別だ。
私は今日も、
ちゃんと授業を受けて、
治癒を展開して、
冗談を言って笑っていた。
いつも通りの、アイナ。
それなのに。
胸の奥に、ひびが入った。
(……逃げたい)
一瞬、そう思った。
でも、違う。
逃げない。
私は、もうモブじゃない。
この世界で、生きるって決めた。
エルンストを、好きになった時から。
ページの端に、指で小さく円を描く。
彼が示した、あの合図。
円の中に入ったのは、
私自身の意思だった。
それだけは、誰にも奪わせない。
……明日は、どうなるんだろう。
カレンは、どんな顔で笑うんだろう。
エルンストは、変わらず私の隣にいるだろうか。
怖い。
でも。
それ以上に――
目を逸らしたくない。
日記を閉じる。
胸の奥に残る、不安と決意を抱えたまま、
私は、そっと灯りを落とした。
明日も、
私は、この世界を生きる。




