第28話「クローゼット」
事務所からほど近い、天神橋のワンルームマンション。
大橋希望が帰宅したのは、夜も更けたころだった。
メガネをはずし、髪をほどき、シャワーを浴びる。
ベッドに座って一息つく。
思い出すのは、今日一日の余韻。
テレビ収録の現場。
ライト。カメラ。
ひなたの背中。
みらいの立ち姿。
そして、ひかりの横顔。
——終わったな。
体は疲れているはずなのに、頭だけが妙に冴えている。
希望は、ふとベッドから立ち上がり、部屋の奥に立った。
クローゼットを開ける。
普段は開けない、一番下の段。
少し迷ってから、しゃがみ込んで引き出した。
引き出しの一番奥。
そこにあったのは、丁寧に畳まれた、グリーンの衣装。
指先で、そっと布に触れる。
懐かしい感触だった。
——重たくもなく、軽くもない。
衣装を膝の上に広げると、自然と、いろいろな場面が浮かんでくる。
狭いライブハウス。
ステージの照明が眩しすぎて、客席がよく見えなかったこと。
声を張り上げても、フロアがなかなか埋まらなかった夜。
「次こそは」って言いながら、何度も同じ言葉を繰り返していたこと。
売れなかった。
正直、それは事実だった。
努力が足りなかったわけじゃない。
実力も、気持ちも、あった。
でも、結果はついてこなかった。
——苦しかったな。
ふっと、別の顔が浮かぶ。
白石ひかり。
ステージの端で、誰よりも声を出して、場をつないでいた姿。
MCで場を温めて、空気が沈みそうになると、必ず前に出ていた。
あの頃から、ひかりは「前に立つ人」だった。
そして——
もりっち。
希望は、衣装の袖を握りながら、少しだけ目を伏せる。
ひかりが、もりっちに向ける視線が、少しずつ変わっていったこと。
本人は、たぶん気づいていなかった。
でも、希望には分かっていた。
相談するときの声のトーン。
名前を呼ぶ間の取り方。
——ああ、これは。
自分よりも先に、ひかりの気持ちは、もう動いていた。
解散が決まった日のこと。
あの静かな事務所。
誰も大きな声を出さなくて、でも、空気だけが重かった。
ひかりが、もりっちに抱きついて、大泣きした瞬間。
「まだ、やりきってない」
「終わりたくない」
言葉にならない声。
希望は、その少し後ろで、ただ下を向いていた。
泣かなかったわけじゃない。
泣けなかっただけだ。
自分が泣いたら、何かが壊れてしまう気がして。
——でも、あのとき。
ひかりは、ちゃんと泣けた。
それが、羨ましかった。
衣装を、ゆっくり畳み直す。
シワを伸ばして、端を揃えて。
元あった場所に戻そうとして、一瞬だけ、手が止まる。
希望は、衣装を完全には奥に押し込まず、少しだけ手前に残す。
そして、クローゼットを閉めた。
それでいい。
過去に戻るつもりはない。
語るつもりもない。
でも、完全に切り捨てる必要も、ない。
今日の現場で再会した、ひかり。
成長していく、ひなたとみらい。
あの時間は、無駄じゃなかった。
クローゼットの前で、希望は一度だけ、静かに息を吐いた。
「……ほな、また」
誰にともなく呟いて、部屋の明かりを落とす。
暗くなった室内で、クローゼットの輪郭だけが、うっすらと残っている。
さっき、少しだけ手前に残した衣装の位置を、視線だけで確かめる。
ベッドに腰を下ろす。
横になり、天井を見上げる。
何もない白い面が、思考を静かに落ち着かせていく。
過去は、しまった。未練は、少しだけ残した。
それで、前に進める。
希望は、ゆっくりと目を閉じた。
明日もまた、同じように現場があって、同じように誰かの背中を見る。
それが、自分の場所だ。
意識が沈みかけたところで、ほんの小さく、息を吐く。
そのまま、夜に溶けるように、
希望は、静かに眠りに落ちていった。




