20.0 お姉ちゃんを裸にしておいて、怖くなって逃げ出したんでしょ?
天と地が、逆転している。こんなに高く、橋は掛けられていたのだろうか。
僕の頭上から、鈍く、けれども大きくうねる水の音が聞こえてくる。
菰宮先輩が言い残していったこと。ただ彼女の容姿、美貌について。
『そうだわ。今後、小石井君の前に現れた女の子全員に、こう伝えてちょうだい。』
それが重要な言葉なのかさえ解らなかったが、いや、たぶん特に意味は無いのだろうが、僕は彼女の言い付けを守ることにした。
勝手に、先輩を守った気になっているだけだが、ほんの少し、満足感がある。
と、僕は、水飛沫を上げ、流れる川の中に、飲み込まれた。
美七は電話で、『僕が蹴った石ころが、海に沈んでいく音は、あまりにも小さく、他の音に掻き消された。』と話していた。
しかしどうだろう。僕の身体が、河面にぶつかり、水中に引き込まれるとき、激しく、うねるような水の音が、僕の頭の中をかき混ぜる。
今度は僕がその音を、美七に教えてやろうと思ったその時、
僕の意識はぷつりと途切れた。
暗い。
僕はゆっくりと目を開ける。
それでも、視界は暗い。
僕の目に見えるもの。緑色に光る避難灯。そして、僕のそばには薄明かりを放つナースコールのボタンがあった。病室だ。と、わかった。
時計はどこにあるのだろう。時間も、日付もわからなかった。
「おはよう。小石井君。」
時間的には、こんばんは、ね。
と、僕の隣から、幼い女の子の声がした。
僕は重たい頭を動かし、そちらを見る。
そこには、赤いランドセルを背負った女の子が立っていた。
「はじめまして。私は、九重さくらの妹、九重きょうか。名前は、平仮名で"きょうか"よ。」
と、その女の子は名乗る。
九重さくらの妹?
「立てるよね?ついてきて。」
と、彼女は病室の扉に向かって歩き始めた。
「ちょっと。」と、僕は呼び止めようとしたが、彼女はそのまま病室を出ていく。
僕は、ベッドの手すりにつかまり、何とか立ちあがる。
体中、神宮寺から打撃を受けた箇所が、ずきずきと痛む。
思考には靄がかかっている気がする。
僕は、病室の壁に手をつき、体を支えながら、彼女の後を追って病室から出た。
九重きょうかは、病室の外の廊下で待っていたが、僕が歩いてくるのを確認すると、再び歩き出す。
「きょうかちゃんがいるってことは、ここは羽津病院?どうして九重さんの妹がいるの?」
『九重』の表札がかかった病室も、羽津病院にあった。僕が落ちた川から、一番近い総合病院でもある。
すると彼女は、「そうよ。」と足を止め、その場で少し考えこんだ。
とても難しそうな顔をする。
「どうして私がいるのか。それは、お姉ちゃんに妹なんて要らなかったということ?」
「いや、」と、僕は慌てて言い直す。
「どうして九重さんの妹の、きょうかちゃんが、僕の病室にいるの?」
いや、そんなことよりも。
九重さくらは人間ではなかった。
人工知能を載せた、精巧なロボットだった。
もしも、僕の目の前にいる九重きょうかが、本当に九重さくらの妹だとしたら、それは九重さくらの後継機ということなのだろうか。
確かに、九重きょうかは、自身の足で歩いている。九重さくらの妹として、ロボットとしての性能は向上しているのかもしれない。
それ以前に、僕は九重きょうかと全くの初対面だ。この女の子が、僕の病室にいるのはおかしい。
「なーんだ、そんなこと。」
と、九重きょうかは、少し呆れた表情をした。
彼女の表情は姉と比べて、自然なものだった。
「小石井君、お姉ちゃんを裸にしておいて、怖くなって逃げ出したんでしょ?」
その言い方は、誤解を招くからやめて欲しい。
「それでお姉ちゃん、小石井君のことすごく心配してた。しかもその後、呼吸も、心肺も止まった状態で川から引きずりあげられて、病院に連れてこられるんだもん。」
と、九重きょうかは歩き出す。
「お姉ちゃん、小石井君のお見舞いに来るか、とても迷ってるの。あなたに嫌な思いをさせないかな。って。」
だから、代わりに私が来た。と、九重きょうかは言った。
僕も、彼女を追って、病院の廊下を進む。
廊下には、僕たち以外の人の姿は見えなかった。窓から差し込む月明かりに掻き消されるほど、照明の明かりは絞られていた。
けれど、一昔前の、病院を舞台にしたホラー映画のような、スリリングな恐怖感は無く、代わりに、深く、冷たく、透き通った静けさが、廊下を満たしていた。体を支える為に、壁についた手の平から、静まり返った建物の振動が、伝わってくる。
僕たちは、エレベーターの横にある階段を上り、さらに廊下を進んだ。
僕たちは無言のまま、歩く。
無言ではあるものの、無音ではない。
足元から聞こえる足音。廊下の壁に手をつく音。
僕の口から、息を吸う音、息を吐く音。
わずかに、心臓の鼓動。
気が付くと、九重きょうかは、一枚の扉の前で、立ち止まっていた。
彼女の足音はあまりにも小さく、僕には聞こえなかった。
「着いた。」と、彼女は振り返った。
「僕たちは、どこに着いたんだろう。」
「お姉ちゃんのところよ。」
お姉ちゃん。九重さくら。
「お姉ちゃんはね、」と彼女は振り返り、その扉を背にして、きょうかが続ける。
「お姉ちゃんは、人間よ。人工知能というプログラムでも、ロボットという機械でもない、生きている人間。小石井君が、勘違いするのもわかるけど。」
勘違い。どういうことだろう。
「どういうことかは、この扉の向こうの部屋にあるわ。私は、もう行かないと。」
「どういうこと?行くって、どこに?」
どこにって、うーん。パレードみたいな?
と、彼女はよくわからないという顔をした。
きっと、僕も同じ顔をしていたのだろう。「とにかく、」と、彼女は話を戻した。
「お姉ちゃんはね、ちゃんと人間よ。私は、少し違うかもしれないけど。だから、あなたたちとは、違うルールで生きてるの。」
彼女は、「生きているの、だって。ふふふ。」と、笑った。
「そうそう、浮瀬さんという人に会ったら、伝えておいてくれる?『余計なお世話よ。』って。」
「あ、ああ。」
なぜ浮瀬の名前が出てくるのだろう。
「じゃあね、小石井君。」
と、彼女は僕の傍に近寄ると、
「お姉ちゃんの友達になってくれて、ありがとう。」
と、九重きょうかは、僕たちが来た方に、廊下を歩きだした。
また会いましょう。
彼女は、廊下をただまっすぐと進み、闇の中に消えていった。
その足音は、聞こえなかった。
彼女が最後に発した言葉が、この空気を震わせ静まり、廊下に差し込む月明かりが、彼女に反射し、この廊下を抜け出し、それらの余韻が消えた後も、僕はしばらくそこに立っていた。
そして僕は、もう一度この扉に視線を向ける。
『どこに着いたんだろう。』
『お姉ちゃんのところよ。』
僕はその扉を開ける。




