18
先程止まったときから三時間ほどが経過した。
その間一切休まずにウルフは必死に複数の足をスクリューのように回転させ、推進力の役割を果たしていた。
途中、水路がいくつも合流したり、別れたり、管制室へ上がる螺旋水路のような水路がいくつも通り過ぎた。
そして今度は西京ではなく、シャルロットが声を上げた。
「待って! ウルフさん、止まって!!」
「ぶるるんっぶるるんっ!! なんでっか? ワシ、疲れずに早く泳ぐコツをようやく掴んだところやで!! 水中で風になるんや! ワシは急には止まらぶるんぶるんっっ!!」
確かに足をスクリューにさせる泳ぎ方は先程まではしていなかった。どうやらウルフの言うコツを掴んだというのは本当のようであるが、シャルロットにはそんなことはどうでもいいことなのだ。
「馬鹿ねっ! ちょっと止まりなさい!! チョンカ、ここよ! あたし達がウルフさんと出会った場所!!」
「ほぇ?? なになに?? もう朝?」
「あああ……もぅ……ウルフさん行っちゃったわ……」
シャルロットの静止にも関わらず、ウルフはそのまま西京達を連れて先に行ってしまった。西京はともかく、ダディとムッシュはサイコガードの中で眠ってしまっていたのだ。いびきをかいていた。
『マスター、あたしたちは騎士君を奪還するから先に行ってて』
『ふむ、分かったよ。ムッシュ君たちのことは任せておきなさい。このタコは後でたこ焼きにしておこう』
『ええ……ってそれはいいから!! とりあえず後で合流します!』
「チョンカ!! 起きなさいってば!! っもう!! 人にばかりサイコキネシスを使わせて!! これじゃあウルフさんと変わらないじゃない! ゴリラチョンカ! 起きて!!」
「ん……むにゃ。シャル? ほえ、ここどこ?」
チョンカはもう随分前に寝てしまっていた。
一行の中でいち早く眠りに就いたのはチョンカであった。
シャルロットは水路の底についた傷を指差して叫んだ。
「あれは昨日あたしが目印につけた傷よ! そこの階段でウルフさんと大きな蟹に出会ったでしょ? その先に恐らく騎士君もいるはずよ! さぁ、起きなさい!」
「ん! ラブ公!! ご、ごめんシャル。うち目が覚めた」
「はぁ……もういいから早く行くわよ」
チョンカとシャルロットは海水から上がり、ウルフと出会った階段へ向かった。
当たり前であるが、そこには既に蟹の姿はなかった。
蟹がつけた傷が階段の壁についているのみであった。
「うん、間違いないわね。さぁ、騎士君を助けてあげましょう」
「で、でも珊瑚姫は?」
「あら? 珊瑚姫は騎士君を解放してもいいって言ってたじゃない。第五おさかなちゃんパラダイスとの喧嘩は騎士君を助けてから考えてもいいでしょ? 順番が逆になったって別にいいじゃない」
チョンカはそんなことは考えてもいなかったので、改めてシャルロットの意見に感動していた。こういった多少の狡さがチョンカには全くないのだ。
「はぇ~、確かにシャルの言うとおりじゃね! うん、分かった! ラブ公を返してもらおう!」
チョンカとシャルロットはそう言って頷くと階段を駆け上がって行った。
「ぎゃんっ!! や、やめ……もうやめ……いたっ! ぎゃひっ!!」
牢屋から突然開放されたラブ公は宙を舞っていた。
「おらおら~、ワシ、ごっつ暇やさかいな、壷輔もおらんなったしお前がワシの暇つぶしの相手せんかいや! おら~!!」
「がひっ! や、やめ! ぎゃふっ!」
大きな蟹の鋏が、落下しようとするラブ公を下から掬い上げるように何度も何度も跳ね上げていた。ラブ公は鋏に跳ね上げられるたびに空中へ舞い上がり放物線を描く。地面に落下する直前にまた鋏に跳ね上げられる。それの繰り返しであった。
「お前知っとるか? なんやこれは地上ではリフティングゆう遊びらしいやんけ? 地面に落とさずに何回跳ね上げられるか回数を競う遊びらしいけど、こんなもん余裕やんけ!! そやけどごっつおもろいわ! おらぁ! もっと泣かんかいや!!」
「げほっ! ぎゃん! たす! あぁ!! たすけ!! ぎゃひっ! チョンカちゃ……。……! ……!」
蟹は足ではなく自身の鋏によって、ラブ公をボールに見立ててリフティングを行っていた。ラブ公は何度も何度も鋏による殴打でとうとう空中で気を失ってしまった。
「なんやねん、もう気ぃ失のぅたんけ? ワレ! まだ七十回くらいしか続いとらんやんけ……はんっ、おもんないのぅー!!」
そう言うと蟹は今までで一番強くラブ公の体を殴打した。
ラブ公の体は成す術もなく、天井すれすれにまで舞い上がる。
「これでフィニッシュや!! 蟹さんボンバーっっっ!!」
「あっ!! ラブ公!!」
階段を駆け上がり看守室に辿り着いたチョンカとシャルロットが見たのは、気を失いながら宙を舞うラブ公であった。そしてその瞬間大きな鋏によってラブ公にレシーブが放たれた。
殴打による衝突の大きな音が響き、ラブ公の体は看守室の隅にあるゴミ箱へ顔からすっぽりと収まった。はみ出る両足が痙攣していた。
「ゴォ~~~~~~~~~ルっっっ!! オーレーオレオレオレー!! うぃっ! さーて、そろそろ約束の時間やんけ……ほなブツ持って英雄の御帰還としゃれこもかぃ!! ぐひひ」
蟹がちょこちょこちょこっとその場で回転しながら最後に自身の股間の辺りに鋏を当て、ラブ公がゴミ箱に収まったことへの喜びを表現してみせた。そんな喜びの舞を踊る蟹を見て、チョンカは全身の毛が一気に逆立つ感覚を覚えた。
「お前……」
「あん? なんやおどれら!? 人間が何でこないなところにおるんじゃ!? おぅコラァ!!」
チョンカは遠慮していたのだ。
我慢していたと言ってもいいかも知れない。
ワカメシティを出てから、自分の猪突猛進な性格を認知するようになり、感情を抑えようとする傾向が見られた。
ワカメシティで建物を壊したことを本当に反省していたのだ。
ダディが脱糞したときも、珊瑚姫の前でも、ムッシュの乳首を見たときも、自分の荒ぶる感情を必死に抑えてきたのだ。
自分の正義の在り様を一生懸命に考えていた。だから元々少ない理性でブレーキがかかっていたのだ。
しかし、目の前でラブ公を嬲られる様子を見て、その我慢も限界を迎えてしまった。
「お前……今何しよった……」
「チョンカ……」
「ああ? お! その声! 聞き覚えがあるで! お前階段のところで壷輔と一緒に珊瑚姫のところに行きよった奴やな? わざわざ牢屋に入りに来たんけ? コラァ!!」
チョンカの両手が強い光に覆われた。
流石にシャルロットもこれを止める気にはなれなかった。
「うちアホじゃけぇ、正義が何かなんてよぅ分からん!! じゃけもう考えん!! 思い付いたときに考える!! シャル、これからはうちが言いよる正義をシャルが代わりに覚えとって!!」
「ええ!! ……え? は? チョ、チョンカ?? 何言って──」
当然シャルロットは、チョンカが怒りに任せて蟹にいきなり襲い掛かると思っていたので、チョンカから自分に放たれた言葉を聞いて思わず目を丸くしてしまう。
「うちの正義 第一条!! うちの家族や友達を傷付けよる奴は絶対に許せんから殴る!!」
シャルロットはチョンカの言う意味を理解し、噴出してしまう。
「もう、チョンカったら……本当に脳筋ゴリラなんだから……馬鹿ねっ!! いつでも一緒よ! 何条まであるのか知らないけど、仕方がないから覚えておいてあげるわ」
蟹の鋏がチョンカに猛烈な勢いで振り下ろされた。看守室の床に亀裂が入り、もうもうと煙が舞い上がった。
そこにはもちろん、チョンカの姿などない。
「あ? なんや? どこいきおったんや!? コラァ!!」
「うちの正義は多分、十個くらい……」
蟹の頭上にチョンカの姿はあった。
両手に強く白く光るのはサイコルークスの光り。
チョンカはテレポーテーションで蟹の頭上にテレポートし、そのまま蟹の頭へ降り立った。
「はぁ、十カ条ね……どっかにメモしておくわ……」
「な、なんやお前!! エスパーか!? や、やめ……」
「これでも喰らいぃーや!! サイコルークス!!」
チョンカは両指を蟹の鋏のように、人差し指と中指の二本だけを真っ直ぐ伸ばし、そのまま蟹の飛び出ている両目の中央あたりに突き刺した。
蟹の目や間接の至る所から光が漏れた。
そのままゆっくりと足を折り、蟹は地にひれ伏し泡を吐きながら動かなくなってしまった。
「ふんっ、うちの正義の餌食になりぃーや!!」
「チョンカ、餌食って言葉はやめたほうがいいと思うわ。それより騎士君でしょ!」
「そ、そうじゃった!! ラブ公!!」
チョンカは急いで蟹から飛び降り、ラブ公の両足を掴みゴミ箱から引き上げた。
「チョンカ、もう少し優しくしてあげなさいよ」
「ラブ公! ラブ公! ああ……完全に気を失っとる!」
チョンカはラブ公の体を床に寝かせ、手をかざす。
「サイコヒール……」
チョンカがかざす手と、ラブ公の体がぼんやりと光りだした。
「がふっ!! がは、がは、チョ、チョンカちゃん……」
「目が覚めたのね! 騎士君!」
「ラブ公!!」
ラブ公の傷はそこまで酷いものではなかった。
サイコヒールを開始してからすぐに意識を取り戻したのだ。
「ラブ公よかった! 大丈夫じゃった??」
「う、うん……ミーティアちゃんが……守ってくれてたから……」
ラブ公の額に張り付いているミーティアのアニマの結晶が薄く光っていた。
どうやらリフティングの間、ずっと守ってくれていたようだった。
「そう……ミーティアが……でも気絶してしまうほどずっと殴られていたのね?」
「うん……最初は全然痛くなかったんだけど、時間が経つとアニマガードの力が弱くなってきて……でも僕大丈夫だよ! ありがとう、二人とも!」
チョンカは涙を流しながらラブ公を抱きしめた。
「い、痛いよ、チョンカちゃん……えへへ」
「ラブ公、ごめんね! すぐに助けられんでほんまにごめん!! うちラブ公に謝ってばっかりじゃ……」
「いいんだよ、チョンカちゃん。僕もチョンカちゃんに守られてばっかりじゃダメだもん。でも来てくれて本当にありがとう」
「チョンカ、どうするの? 騎士君も連れて行くわよね? もう随分前からマスター達の反応が動いていないわ」
西京達の反応が止まったのは西京と別れ、チョンカ達がラブ公の元へと駆け出してすぐのことであった。西京達の身に何かがあったのか、それとも海が近いのかのどちらかである。
「シャル、ラブ公、行こう! シャルのお父さんとダディさんも放っておけんもん!」
「え? シャルちゃんのお父さん?」
「う……あ、あんまり見られたくないけど……そうよ、あたしのパパがいるの」
「ラブ公、シャルのお父さんも、ダディさんも、もう死にそうなんじゃって。それで何とか出来る薬があるって聞いてここに来たんじゃけど……ほんまに体は大丈夫?」
ラブ公から笑顔が消え、シャルロットの顔を覗き込んだ。
伏目がちに小さく頷くシャルロットの表情を見て、ラブ公は立ち上がり、チョンカの肩にしがみついた。
「行こう、チョンカちゃん!! こんなことしてる場合じゃないよ!! 僕も行く!!」
「騎士君……ありがとう」
チョンカは両手でシャルロットの手を強く握った。
大丈夫という気持ちを込めているつもりだった。それはシャルロットにも十分伝わっている。シャルロットから我慢しているのであろう悲壮な表情が消え、チョンカに大きく頷いて返事をした。
こうしてラブ公を取り戻したチョンカ達は西京の元へとテレポーテーションをしたのであった。
「ぎぎ……ぎ……あ、あいつら……許さん……許さんでぇ……」
蟹は何とか身を起こし、よたついた足取りで牢屋の方へ歩いていった。
「こ、これさえあれば……ワシは英雄じゃ……」