『魔術的解離者』
遅くなりました。少しいつもより長めです。
まず感じたのは久しく嗅いだことの無かった臭いだった。
消毒液や薬品の匂いが入り混じったような無機質な臭い。それだけで今自分がいるのが病室だということが分かった。
絶対に開けまいと重くのしかかる瞼をなんとか振り払うように瞼をこじ開ける。
蛍光灯の光に目を細める。かなり眠っていたのか蛍光灯の光でさえやけに眩しく感じる。
しばらくしてその光にも慣れ、僅かに体を起こして辺りを伺う。
しかし、わずかに動かすだけで体に凄まじい倦怠感が襲い、続行は困難だった。
うっすらと見えたのが今私が寝ているベッドに沿うようにして一つ椅子が置かれ、そこにこちらを見ているような人の姿がぼんやりと見えただけだった。
どこかで見た記憶があるのだが、脳が覚醒しきっておらず、その人物が誰なのか窺い知ることはできない。
突如私の額に何かが触れる。人の肌のような感触がすることから何者かの手であることが想像できる。
そんなことも予想できるほどには脳がぼんやりと覚醒しはじめて来た時に、私の額にかかった髪をその手がかきあげた。
「うーん、熱は無し…っと。」
ふと鼻孔をくすぐる懐かしい香りがした。陽だまりのように体を包み込んでくる優しい香り。
その香りの主の頭部が近づき、その姿が朧げながらも視界に移りこむ。
くすんだ青色の髪、若草色の瞳、いつも仕事着として来ているスーツ。優しいその声音。
忘れようと思っても忘れられない。いつでも胸の中に留めておいた存在。それが今目の前にいる。
今は夢の中なのだろうか。ならばもう少し甘えたっていいのではないのだろうか。
「きょうちゃん…。」
大好きな彼の名前を呼ぶ。夢なのだから、と抑えていた想いを解き放つ。
近づいたその顔の頬に両手を当て、目を瞑り、その唇へと吸い寄せられるように近づく。
「お…おい?喰絽?」
心配そうな声音がやけにリアルだ。久々にここまでリアルな夢を見たような気がする。
その距離が詰まるごとに自身の呼吸と夢の中の彼の呼吸がわずかに速くなるのを感じる。
どうせ夢だ。すぐに冷めてしまうだろう。どうせ形だけ。形だけでいいから出来なかったことをやってみたかった。
そんな軽い気持ちで行った行為。夢か現かわからぬ状態であったがために及んでしまった。
――だが、彼女はそれが現実だと身をもって味わった。
自身の唇に同じような柔らかいものが当たったところで一気に意識が覚醒する。
文字通り目と鼻の先には困ったような照れたような笑いを宿す青年がいた。
その青年の視線が自分の唇に向かっていることから先ほどの行為が現実だったと否が応でも理解してしまう。
一瞬ではあったが病み付きになってしまうような柔らかな感触を思い出し、凄まじい速度で耳まで顔が真っ赤になっていうのが自分でもわかる。
顔から火が出るんじゃないかと錯覚するくらいに顔は熱くなり、とっさに顔を隠そうと青年の胸に顔を押し当て自らの顔に近づけるようにギュッと抱きしめる。
深呼吸を幾度となく繰り返し呼吸を整えていると、その時だらしないお腹の音がぐぅぅ…と鳴り響く。
どうやら想像以上に空腹らしい。大好きだった青年に出会えて安心したのか緊張の糸が緩んだようで、鳴りやむ気配がない。
「ここにツナサンドとカツサンドがある。喰絽はどっちがいい?」
彼はごそごそと手元にあったビニール袋を漁り、中から二種類のサンドイッチを取り出す。
二つ並べられては私が迷うことを知っているのだろう。にやにやと気味の悪い笑みを浮かべると彼がイタズラしている証拠である。
ツナサンドの強すぎないところもいいがカツサンドの食べごたえがあるのも捨てがたい。
というように真剣に私が迷っていると、
「なーんてね冗談冗談。どっちもあげるよ、はい喰絽。あーん。」
「ひゃいっ!?」
「んー?どうしたの?いらないの?僕が食べちゃおうかなぁ?」
プランプランと私の前で誘うようにサンドイッチを揺らされると三大欲求の一つ、食欲がぐわんぐわん揺さぶられる。
渋々と言った様子で彼が差し出したサンドイッチを一口口に含む。
ゆっくりと咀嚼し、ごくんと喉を通らせる。
久々の食事の様で、胃がもっと食べ物をよこせ!!と言っているような気がしてならない。
がっつくように二口、三口と食べていくと、息が詰まるような感覚が生まれる。
胸のところをばんばん叩くが、なかなか流れる様子はない。
「慌てて食べるから・・・ほら、喰絽。お茶。」
彼に差し出されたペットボトルのお茶をグイッと流し込み、強引につっかえていたものを胃へと流す。
そこで気が付いた。自分が今飲んだものは半ばまで減っており、それは即ち先に誰かが口を付けた物。
差し出した人間が彼である以上、これは間接キスというやつでは…。
「ん?今更関節とか気にしてるの?…いま直接したくせに。」
それを言われたことで落ち着きかけていた心臓がまた暴れだす。
脈拍が尋常じゃないほどに上がり、繋がれていた心電図がそれに反応し、危険を現す警告音を鳴らす。
そのまま呼吸がままならず、布団に潜り込むようにして固く目を瞑った。
「どうしました…!?何かあったんじゃ…ってえっ。」
「駆…?さっきの音は…?」
その警告音に反応して出てきたのが昨晩、電話をかけ、ベッドから引っ張り出した張本人の舞薗君とアルフォード君だった。
昨晩の事で疲れているのか、舞薗君はやつれたような感じになり、それを心配して一晩中傍にいたアルフォード君は目の下にうっすらと隈を浮かばせている。
その二人は眠気と疲労からか舞薗君がアルフォード君を抱きしめるような形で体重を預け、前方に回された手をアルフォード君がしっかり離すまいと握っている。
「「イチャイチャしてただけじゃないですかこのリア充め」」
「「君たちに言われたくはない」」
声を揃えてジト目で指摘する部下に向かって喰絽と共に精一杯の反論を返す。
イチャついていると言えばそちらも同じではないのだろうか。
「というか気が付いたんだな彼女。狙撃手は彼女とみて間違いないとして。
深い理由がありそうだから別に糾弾するつもりはないけどな。」
間違いない。喰絽が犯人であるのは傍らに放置されていた狙撃銃が証明しているし、
マズルフラッシュを目撃した舞薗君の証言からしてそれは事実なのだろう。
「そういえば昨日のけが人は?君はあったんだろう?」
ふと被害者の事を思い出し、通報者である舞薗君に疑問を投げかける。
脇腹に一弾何かが貫通した後が見受けられ、そこから大量の出血があった。
適切な応急処置がなかったら、ここが病院ではなかったら間違いなく命はなかっただろう。
「あぁ、慧の事か。なんとかな。狐面が取れないとか苦労してたみたいだけど。」
「慧…?」
初めて聞く名だ。死神にはもちろん、彼の話の中では初めて登場する人物だった。
その証拠に抱きつかれたままになっているアルフォード君も興味を惹かれたのか顔を上げて不思議そうに見つめている。
「失われし遺産がどうのこうの――」
「何処でその名を聞いたッ!?」
瞬間、椅子から乱暴に立ち上がり大きな音を立てる。
だが僕の脳内には失われし遺産と言う言葉だけがどうしようもなく渦巻く。
呼吸をするのも忘れて舞薗君を見据える。手には自然に力がこもり、爪が肉に食い込み深く跡が刻まれる。
「お、おい…。どうしたってんだよ…。慧に聞いた。ほら、撃たれた被害者。あいつだよ。」
まさか…世界が遠ざかっていくような感覚がした。言いようの無い怖気。ごくりと口内に溜まった生唾を飲み干し、過去の記憶を漁る。
過去に僕が唯一ミスを犯した事件。不意打に襲われ、喰絽がいなくなってしまったあの日の出来事。
そいつは俺にこう言った。
『魔術的解離者《KEY》を知らないか』と。
当時の死神には魔術と言う概念が存在しておらず、何の事かまったくよくわからなかった。
だが後に死神の技術力で調べ上げた結果、魔術と言う物は常に危険が付きものらしい。
魔術には詠唱と言う過程が存在し、剣で言えば斬りつける、といった動作のようなもの。
極度の集中力を必要とするため、動くことは許されずその間無防備な状態となる。
たまに集中力が途切れたり、敵の攻撃を避けようとしたりして失敗する輩もいるらしい。
その場合ただ魔術が失敗するだけでなく、爆発したり、身体的に障害が残ったりする。
その中で脳に異常をきたし、自分の中に新たな人格を作り出してしまった人間の事を魔術的解離者と呼ぶ。
魔術的解離が起こるのは過去に発見された一人と、最近確認されたもう一人しか発見されていない。
KEYと呼ばれる所以だが魔術的解離者は失われし遺産を使用し、文字通り世界を改革する鍵《KEY》になるということからそう呼ばれている。
「どうして・・・今になって接触してきた?」
「京谷の言ってることがどうなのか分かんねえけど・・・。別にアイツは悪いやつじゃないと思うぞ。」
まずい、魔術的解離の恐怖を理解していない。
「ジキルハイドって知ってるか。」
突如投げかけた質問に戸惑いの色を見せる舞薗君。
だが真剣なまなざしを俺がぶつけるとそのまま思考を始める。
「まぁ聞いたことくらいなら。確か自分の体を人体実験に使用して悪意が夜な夜な勝手に体を乗っ取る…みたいな。」
そう。ジキルハイド。正にその状況が魔術的解離者である。
「アーティファクトってのはさ。身体に対する負担が馬鹿にならないんだ。それこそ数回使用したら脳に異常が出る人がいてね。
魔術的解離を起こすと深層心理に別の人格が宿る。例えば宿主が寝静まったところを突いて身体を乗っ取って暴走する。
その慧って子。いつも同じ時間帯に現れてなかったか?」
時間によってその人格が切り替わるのであれば会う時は毎回同じ時間帯にあっているはず。
「いつも…丑三つ時だった。毎回その時間帯。」
やっぱり。これで全てがつながった。過去に僕がミスを犯した事件。やはりあれと関係していた。
恐らく昼が悪意の人格、夜が善意の人格なのだろうか。そうすれば丑三つ時と言う時間を狙って現れるのも頷ける。
「昼の時間帯にはその悪意の方に人格を奪われているんじゃないかなと思うんだ。」
「で、でも悪意とは言えないだろ?別の人格があるだけかもしれないし。」
残念だが。そう言って首を振ってスマートフォンに差し込まれたマイクロSDに内蔵されているデータを画面に表示させ、
ある一つの動画を呼び出す。
「何だ?これ。何処の動画だ。」
「先日のドイツでのテロ事件さ。建物が一瞬で跡形もなく消し去られる映像が連日テレビでも流れてるだろう?」
そう言って視線をスマートフォンの小さな画面に戻す。
動画は砂塵が吹き荒れているのか、酷いノイズと荒いドットで分かりづらいがドイツで起こったテロ事件の現場の映像だ。
半壊し、鉄骨などの骨組みが剥き出しになった状態の建造物の中を闊歩する異国の仮面を側頭部に付けた少女が写っていた。
その肌は陶磁器のように白く、新雪のように透き通るような錯覚を覚えるため、その空間から浮いている。
肌を隠すかのように外套のフードを被る。そのフードの陰から覗く口元には八重歯が伺え、ニヤリと口元を歪ませている。
また、瞳は焔のように赤く、細められたその瞳は次の得物を見つけたかのような残虐性を内に秘めているのが一目でわかる。
「これが…慧だっていうのか…?」
呆然とその事実を噛み締めるように、自らに言い聞かせるように発言するが、それも無理のない事だろう。
「慧って誰?」
今まで黙って話を聞いていたアルフォード君が口を開き、疑問を口にした。
僕に言ってないだけではなく、相方のアルフォード君にも伝えていないということもあり、何か引っかかる。
だがこの辺は別に気にすることではないと自らの中で結論付け、他の情報が詰め込まれたデータファイルを舞薗君へと送信した。
――突如、ガシャンガシャンと立て続けに何かが倒れる音がして思わず無意識にそちらへ視線がいく。
それは十数メートル先の病室だったはずだ。今現在入院しているのは俺とアリス、狙撃犯と疑われている裂宮さん、それと慧だけだ。
つまりこの騒動は慧が起こしたもの…?
先ほどの話が少し脳内を掠める。まさしくジキルハイド。
だが、それ以上の思考は許されなかった。
刹那、人間…それも死神であるのだろうが、凄まじい速度で弾き飛ばされていく光景があった。
一瞬の事だったため、他の人間には見えたかどうかは判断できないが、あれは間違いなく苦悶の表情を浮かべた人間だった。
そこから一瞬遅れて扉が弾け飛ぶほどの勢いの風圧が身体を揺さぶる。はめ込まれていた窓ガラスはすべて跡形も無く掻き消え、それどころか窓の枠組みさえなかったかのように完璧にそこには大穴が穿たれていた。
コンクリートの瓦礫が広がる廊下を向こうから歩いてくる音が聞こえる。
裸足の足でひた…ひた…と安定したリズムで途切れることなくこちらへ向かってくる足音。
その足音はやがて弾け飛んだ扉の前で止まるとその足音の主がゆっくりと姿を現した。
透き通るような白い肌。同じく新雪のように白いその髪は肩口のあたりまで無造作に放り出されるようにして伸ばされている。
瞳は異なって赤く、呑み込まれそうになる程に残虐性を秘めているように感じる。まさにルビーのように。
口元には八重歯が剥き出しになった残虐性を孕んだ笑みが張り付けられ、瞬時に話し合いでは解決できないと言うことが言わずもがな理解できる。
先天性白皮症だと一目で分かるその少女はその身に纏った外套を脱ぎ棄て、こちらへ向かって真っすぐ腕を突きだす。
ここにいてはまずい、本能がそう助言し、本能に促されるままに右に跳び、アリスを左に跳ばすような感じでその場を離れる。
その直後、直前まで俺達がいた空間を見えない砲弾のようなものが通ったのか、後ろの壁には凄まじい程の大きな跡が刻まれた。
普通なら消し飛んでもおかしくないような一撃を受けても破壊されないのは流石は死神の建造物といったところだろうか。
だがそのようなこともさして気にすることの無いようにけだるげに喉元を掻きながら言い放つ。
「むぅ…どうしてこうも頑丈なのかねぇ。人も壁も。ガラスくらいじゃないと破壊できない癖にそのガラスの下に降りても上がれないというトラップ。
なかなかの策士のようだ。んで?僕は無益な殺傷を好むタイプでさ。ちょっとそこのお兄さん。戦おうよ。お姉さんはあとでね。」
反射的に体をかがめたその瞬間、俺の喉があった場所に音速を超える勢いで蹴りが通り抜ける。
微かに衝撃波が生まれ、全身にその感触を刻む。
動きは良く見れば避けられるし、攻撃も単調で何かフェイントを仕掛けてくることもない。
だが一発当たれば間違いなく俺は死ぬ。このプレッシャーがどうしようもなく背中に重圧となってのしかかってくる。
徐々に動きが鈍り、頬を少女…慧が放った掌底が掠めた瞬間、意識が再び鮮烈な痛みによって引き戻される。
(落ち着け、冷静になれ…。)
バックステップでわずかに距離をとり、荒い呼吸ではなく、少しゆっくりとした呼吸を行って精神を整える。
「面白くないなぁ。・・・一気に仕留めちゃうか。」
そう呟いて瞳を閉じるその状況ははたから見れば大チャンスに見えただろう。
だが実際は違った。
「『時を分かちし斬撃を。全てを穿ちし弾幕を。深淵の解離者の名の下に顕現せよ。
その刃を、その弾丸を以て世界を滅せ。――《アロンダイト》。』」
そこまで詠唱を終わらせ、頭上に右手をおもむろに開いて突きだす慧。
詠唱が終わった瞬間、室内にあった空気がその一点に向かって一瞬激しく吸い込まれ、身体の自由を奪われる。
だがそれも一瞬。ふらつきながら慧の腕を見るとそこには先ほどまで存在していなかった銃剣が顕現していた。
一見通常の剣のようにも見えるが、柄の部分の先端が銃のグリップのような形をしておりその近くにはスライド式の引き金が取り付けられていた。
引き金には二つの丸い穴が開いており、淡く翡翠のような煌きを放つ銃口は神秘的なほどに優雅で、恐ろしかった。
それとは別に引き金を迂回するように銃のグリップの下部から薄く輝きを放つ同じく翡翠色の刀身。
だがその翡翠色の中には黒い奔流がいくつか混じっており、それがある種の脈であることが予想される。
冷静沈着に相手の武器を見定めながら俺も武器を顕現する。
漆黒のその刀身は電灯の明かりを跳ね返して鈍く鈍色の光を放つ。
それとは別にサファイアのように深い蒼色の宝玉へ伸びるようにいくつもの燐光を放つ筋が明るい電灯の下でもうっすらと燐光を放っているのがわかる。
「・・・終撃。」
小さな呟きに呼応するかのように翡翠色の銃剣の光が更に増していき、その空間を包み込んでいく。
先ほどまであった銃剣は一つの大砲へと姿を変えており、砲口からは太陽の如き凄まじい光が溢れようとしており、一刻の猶予も残されていないということが再認識できる。
反射的に身を左へと投げだす。受け身をとりながら転がった瞬間、その大砲からは極太の光の奔流が噴出していた。
一瞬にして先ほどまで攻撃を受け止めていた壁が融解して溶け去っていく。
やがてその光の奔流は収まり、ゆっくりと元の光景が戻ってくる。穿たれた大穴からは風が舞い込み、ロングコートの裾を揺さぶるように棚引かせている。
慧は俺達が全員無事であることを確認して心底詰まらなそうに舌打ちをした。
「外しちゃったか。やはり危機管理能力は高いようだ。めんどくさい。このまま増援が来られても厄介だ。
しょうがない。…転移。」
その瞬間、足元がぐらりと揺れる感触。すこし送れて身体が揺さぶられるような感触と軽い浮遊感が体を襲った。
意識はまだあるが、体は微塵も動かない。
唯一動く眼球を懸命に動かして今存在している場所がどこか把握しようとする。
一面に広がるのは四角いブロックのようなものが遥かどこまでも広がっていくような空間。
白い面に緑がかった線が格子状に刻まれ、サイバー感が溢れていた。
右腕のグローブ越しには愛用の鎌の存在が幽かに感じられる。
左右に視線を動かすと京谷と容疑者の女性。そしてアリスの姿が目に見え、僅かに安堵する。
「やぁやぁ…!ようこそ僕の空間へ!この空間では入った者の身体能力が桁違いに上昇するんだぁ!
うふふ…君も一瞬で死んじゃうかもね?」
安堵したのも束の間、嗜虐的な笑みを口元に浮かべ、先ほどとは打って変わって声のボリュームが大きくなっている慧が現れる。
裸足特有の足音を響かせて俺に向かって一歩一歩と近づいてくる。そのまま動けない俺に向かって手を翳した瞬間、
――身体の自由が戻った。
(どういうことなんだ…?)
「ねぇ。お互い一つ何か賭けて戦わない?一対一のフェアマッチ。どうよ?」
俺の思考を先読みしたかのようにまるで遊びのように話し出す慧。
いつ見ても先日であった慧とは似て非なる存在だということが理解できる。
「そうだなぁ、ぼくが要求するものは君の命だ。さ、君は僕に何を要求する?」
軽く口にしたがチップは俺の命らしい。本来ならば土下座してでも回避したい状況だがどのみち逃がしてくれそうにもないので
何か必死に脳内に検索をかけていく。このまま命と答えれば簡単なのだろうが、そうすれば俺が知っている慧さえも殺してしまう。
かと言ってこのまま放置にはできない。
「・・・じゃあ俺が勝ったら俺の言うことを一生なんでも聞け。」
結局俺に思いついたのはこれだった。最終的に
俺の要求を聞いて慧は自らの体を抱きしめるように庇いながら口を尖らせる。
「む…?やっぱり僕にあんなことやこんなことをさせようってことか…。
男は狼って言うけど本当みたいだね。君には正妻がいるだろうに。いいよ。もし勝てたら、だけど。」
それ以上の言葉を紡ぐ時間はなかった。
瞬時にその場の空気の重さが異常なまでに増えるとともに数本俺の髪の毛が宙を舞い、一瞬遅れて音が耳に聞こえる。
それが戦闘開始の合図だった。
音速で飛来する銃剣を鎌の柄、縁、刀身でいなし、カウンターをところどころにねじ込む。
それを軽やかに避けた慧は振り返りざまに刀身での斬撃を行う。軽く頭を下げてその凶刃から身を護るとまたもや反撃に出る。
幾つか掠める物はあるがどれも致命傷には程遠く、慧と俺の身体にはわずかな掠り傷が無数に刻まれていく。
銃弾と斬撃。全てはまともに直撃すればそのまま死は免れぬ一撃。それが無限に等しい程の数飛び交っていれば嫌でも神経が一点に集中する。
先ほどとは打って変わって急に反応が良くなった俺に疑問を感じたのか、俺の鎌の間合いの外に出た慧が言葉を飛ばす。
「どうして僕の動きについて来れる?それに先ほどまでとは鎌の裁き方が違う。答えろ。」
仄かに焦りを混ぜたその声音は俺をすり抜けてはるか後方に通り過ぎ、空間に吸い込まれて消えた。
答える義理などない。返事をすることなく一直線に鎌を振り抜きながら間合いへと踏み込む。
俺が無視したのに反応してか、苛立ちを覚えたかのように口元を吊り上げて迎撃態勢に入る。
甲高い金属音が鳴り響き、剣によって横薙ぎに振るった鎌は跳ね上げられ、その鎌の内側を狙って正確な射撃が飛来する。
瞬発的に顔を僅かに左へ逸らすと頭の右側頭部の皮膚を僅かに裂いて後ろへ飛んでいく。一筋細く血の筋が流れたが不可で出はない事を瞬間的に判別するがはやいか
俊敏な動きで跳ね上げられた鎌を振り下ろす。一連の流れの中で蹴り上げられた際のバランスの崩れは無くなっており、正確無比な一撃が慧の胸を削る。
瞬間、大量の血が溢れて慧の服を赤く染めていく。その傷はすぐ応急手当をすれば助かるようなものであり、致命傷にはなっていないが戦いを続けることはこの年の少女には無理というものだろう。
息を荒くさせ、がくりとその場に膝をつくと喉の奥から血反吐を吐き捨てて怪しむような視線を放ちながら叫ぶ。
「何故…?何故僕が破れた!?この空間の設定は間違っていないはずなのに!
でもそれだけじゃない…。何で君は心臓を最後の最後で逸らした!?君の瞳には明確な狙いがあった。でもそれは急所の心臓の左側。どういうことだ!
先ほどの反射速度も尋常じゃなかった。さっきは攻めることすら躊躇っていたのに。」
窘めるようにそっと膝をついた慧の頭に置き、さっと撫でる。一瞬びくりと僅かに体を震わせたが、傷が痛むのかそれ以上反抗してくることはなかった。
落ちつけ、軽くそう囁き、少し間をあけて話し始める。
「一つ。君の空間のの設定は『入った者の身体能力が桁違いに上昇する』だったはずだ。
それは即ち俺も対象だってことさ。お前、実は馬鹿だろ。」
かぁぁ…と顔を赤く染める。それは頭を撫でられたことによる照れによるものなのか、
それとも馬鹿と言われた怒りだろうか、はたまたそんな初歩的な事に気が付かなかった自分の愚かさを恥じているのか。
「二つ。心臓を最後の最後で逸らした理由は殺すつもりは最初からなかったから、だ。
言っただろ?俺の言うことを一生聞けって。殺したら元も子もないしな。
そして三つめ。俺の反応速度が上がった理由についてだが、この空間には何の遮蔽物もない。
だからさっきの狭い病室と違って鎌を振るのに相当適している環境と言えるわけだ。
つまり慧、お前は俺を理想のフィールドへと持ち込んだのさ。」
俺の説明を聞いて愚かさを今になって呪う慧。だがもう時すでに遅し。
涙を浮かべた初めて見る慧の顔に一瞬面食らう。それは年相応のかわいらしさを含んでいて。
「う…うぅ…うわぁぁぁぁん!!!」
突如大きな声で泣き始めた慧をなだようと必死に声をかける。
「お、おい…?お、落ちつけってば。別に何も悪い事はしねえって・・・」
「嘘だ!僕…僕の体を弄ぶんだ!そして飽きたら捨てられるんだ…。」
「え、駆そんなことするの?私ちょっと引くんだけど…。」
「いやしねえよアホか。」
身に覚えのない罵倒を一蹴して脱線した話を戻す。
「とりあえずこの何でも言うことを聞かせられるのがどこまで使えるのか検証する必要があるな。」
ひっく、としゃくりあげながら泣く慧を尻目に、何を言えばいいのか考えていた。
様々な考えが脳を巡るがどれもしっくりこないというかすごくどうでもいいこと。もっとまともな使い方をしたい。
「駆…?分かってるよね?」
「お、おう。何がだ?」
「・・・えっちなことには使わないでね?私がしてあげるから。」
「なっ――」
「っ――」
その頬には朱色がかかっていて、目は恥ずかしそうに伏せられている。
恥ずかしいなら言うなよ、と言おうと思っても恥じらうアリスのかわいらしさに口が動かない。
しばしの硬直。それは他人にとって数秒程度だったのだろうが、俺にとっては凄まじく長い時間に思えた。
背後で咳払いが聞こえ、後ろに振り向くと京谷が倒れ込んだまま恨めし気な視線を投げかけていた。単純に言って普通に怖い。
悪魔のような、と形容してさして問題はないんじゃないだろうか。
「何いちゃついてんだよさっさとやれよリア充め。
動けない僕の目の前でこれ見よがしにいちゃつきやがって。許さん。」
何か憤ってらっしゃるようなので意識を元の状態に戻す。これ以上言い争っても俺の立場が危ない。
無論、卑猥なことなどに使おうなんてこれっぽっちしか考えていない。そりゃ男子だし、多少はね?
「んじゃ手始めに…『俺と俺の仲間に危害を加えるな』。」
しばらく考えた挙句無難なものを選択して告げる。
その瞬間慧は毒気を抜かれたかのように先ほどまで微塵も感じられなかったあどけなさを身に宿していた。
細められていた猛禽類のような瞳は大きく開かれ、先ほどの三日月のような鋭利さは無く代わりに丸く大きな満月のような瞳になっている。
「あれ…?ここは?もしかしてハイドが…?ご、ごめんなさっ…痛い…。」
一連の行動で先ほどと人格が変わったということが認識できた。苦痛に涙を浮かべているところを見ると先ほどとは痛みに対する耐性が違うらしい。
同時に先ほどまで残っていた重苦しい空気もまるで換気でもしたように消え去っていた。
「なぁ、お前ともう一人別の人格がいるんだろ?」
「はっ、はい!か、駆さんとお話をしたのは初めてではありませんが…。
どうもわたし、狐面を被っていないと落ち着いて話ができないみたいなんです。」
「なるほど、道理で口調が違うわけだ。一瞬もう一人の方の慧がだましていたんじゃないかと・・・。
そこで一つ俺に試してみたいことがあるんだが言ってもいいか?」
「…?は、はい。いいですけど…。」
戸惑いの色を浮かべて俺に懸命に応答する慧。先ほどとは打って変わってしどろもどろな口調になっているためすごく違和感がある。
でもこれはこれでありかなと少し思ってしまったり。
「『二つの人格に一つずつの体を。』・・・これ慧への命令じゃないから通らないのかな?」
先ほどから考えていた命令だ。二つの人格があるなら一つ一つ別の体があれば便利だと思った。ただそれだけ。
俺の言葉に呼応するかのように慧の身体が二つに分かれる。まるで鏡のように瓜二つの少女。
身長は俺やアリスよりも低く、一回り体つきも小さい。
片方の慧は細められた三日月のような鋭利さを伴った瞳。片方の慧は夜空に浮かぶ満月のような柔らかさを伴った瞳。
片方の慧は翡翠色のオーラのようなものを纏った剣。片方の慧は銃身が長く、ナイフ程の長さのハンドガンを手にしていた。
「僕とジキルが同時に存在している?」
「わたしとハイドが同じ場所にいる?」
二人して同じような戸惑いを浮かべたまま訝しげにお互いの顔や自らの体を観察している。
「お、やっぱできたのな。しかしほんとにそっくりだなんで?慧たちはこれからどうするの?京谷はどうするべきだと思う?」
「うーん…本来なら罰さなきゃいけないんだろうけどダメージを受けた人間はいずれも軽傷。
深手を負ったのは舞薗君ぐらいだよ。それでいてこの幼い少女。罰するのは気が引ける。君さえ良ければ僕が後で何とか処理しておくが。」
簡単に偽装することを言ってのける。だが実際民間人には被害が出てないようだ。ドイツでのテロは犯罪だが何も理由がなくあんなことをするとは思えない。
恐らく誰かに仕込まれてやったものだろう。勝手に結論づけ、俺は承諾をする。
「それと慧たちどっちも俺がつけた傷が痛むみたいだから手当してやって。」
いつの間にか俺達は元の病室に戻っていた。抉られた壁に向かっておもむろに銃を構えて軽くはなれるよう促す。
促されるままに数歩下がると少し大きい光の玉のようなものが射出され、抉れていたその壁が何事もなかったかのように修復された。
遥か下の地面に落ちていた瓦礫はこの階層まで浮かび上がり、まるでパズルのようにくっつき、そのまま切れ目さえも消えて一つの壁に戻る。
そんな嘘みたいな光景が当たり前のように目の前で行われていた。
「すっげえなこれ…滅茶苦茶便利じゃないか。」
俺が素直に感嘆の声を漏らすと少し照れたようにはにかむ銃の方の慧。
「いえいえ…。わたしの力なんて修復くらいしかないんですよ。攻撃もできなくはないですけどあんまり得意じゃなくて。
修復の方もあんまり大きすぎる物はどうしてもできなくて。昨日も暴走したハイドがおうち壊しちゃって。
必死で修復を試みたんですけどだめでした。」
あはは、と乾いた笑いを漏らす慧はすこし悔しそうだった。
「って言うことはお前ら泊まる場所ないのかよ?」
変わりに反応したのは剣の方の慧だった。
「そうだな。僕達は止まる場所どころか食べ物もないし衣服もこれしかない。」
そう言って俺に切り裂かれ、血で赤く汚れた服を見せてくる。
「大変そうだし泊めてあげたら?駆の家族優しいし基本的におうちにいないんでしょ?」
「あぁ、今日親父から連絡があったがこれから先全然帰れないそうだ。
祖母の負担が大きくなったから優奈はうちにいるけどな。」
仕事が忙しくなりそうとのことで数年は帰れないかもとメールがあった。帰ってきたのは今回も数カ月ぶりだったので少し長くなった程度だから気にすることはないが。
「・・・まぁお前らがいいならいいぞ。そんなに広くはないけどな。部屋は使っていいし。」
俺の顔色を窺うかのようにこちらを見る少女たちに承諾してやると幾分か表情が和らいだような気がする。
「わたし…お世話になってもいいですか?ごめんなさい」
「僕も、不本意だけどお願いしたい。こんなこと言える立場じゃないというのは分かっている。」
「あぁ気にすんなって。んじゃあとは頼めるかな京谷。」
振り向きざまに後ろで佇む京谷に向かって言うと肩をすくめて苦笑された。
「はぁ…。まぁいいよ。こういうのも僕の仕事さ。君たちはゆっくりしてるといい。くれぐれも問題は起こすなよ。」
結局そう言ってあとを引き受けてくれた。
その後治療を受けて二人仲良く包帯でぐるぐる巻きにされた慧たちとアリスと俺で仲良く帰路についた。
夕方になっており夕食をどこかで調達しなければと考えたものの血まみれの包帯を付けた少女二人を連れてスーパーに行くのはすごく大変なのでそのまま家に帰宅した。
マンションのエントランスをくぐるとコンシェルジュの人が血まみれの包帯と服の慧たちを見て血相を変えて話しかけてきた。
「大丈夫ですか!?こんなに血が…!」
「あぁ、大丈夫です。病院で手当てもしてもらったので。な、慧?」
「失礼ですがあなたとこの子達の関係は…?」
俺が慧へ行った呼びかけを遮るようにコンシェルジュさんが責めるように話しかけてくる。
まぁ、そりゃそうなるよな。いきなり血まみれの子たち連れてきた人間が大丈夫です、とか言ってんだよなそりゃ疑うよな。
「「わたし(僕)はお兄ちゃんの妹です。」」
声をきっちり揃えて俺の妹と断言した。事前に打ち合わせもなくできるのは息があっている証拠だろうか。
その後とてとてと俺の後ろに二人隠れるようにして下がって俺の両腕を抱きしめる。
「じゃ、そういう事で。お疲れ様です。さ、行こうか慧。」
「「はーい!」」
無邪気な子どものように二人にっこり笑いながらコンシェルジュさんの前を後にする。
だがそんな無邪気な一面もエレベーターに乗り込んで数秒経つと片方の慧からは消え去る。
「感謝してくれよ。あの場で僕達が合わせなきゃ君はめんどくさいことになってたぞ。
・・・ま、僕が全体的に悪いんだけどね。」
「そうだな、おかげで助かった。さんきゅな。」
「ふんっ・・・」
照れたように顔を背けているがちらちらと横目でこちらを見てくるのがすごく愛らしい。
「そ、その…駆お兄ちゃんって呼んでもいいですか?」
「おう、別に好きに呼んでいいぞ。」
「あ、ありがとうございます…駆お兄ちゃんっ!」
・・・不覚にもときめいた。
こちらは先ほどと変わらず無邪気さを持っており、吸い込まれそうなほどの笑顔で心を鷲掴みにしてくる。
「駆。妹属性に目覚めたりしないよね?」
心配そうに尋ねるアリス。何処に心配する要素があるのだろうか。
「何を心配してるんだアリスは・・・。アリス一筋だっ…て…やっぱなんでもねえ。忘れろ。」
勢いに任せて何かすごく恥ずかしいセリフを言った気がする。
アリスは胸元のポケットからごそごそと漁り、何かを取り出した。
スティック状の白い機体、先にはマイクのようなもの。リモコンにも似たその機械、ボイスレコーダーだ。
おいまさか。一筋冷や汗が流れた瞬間。
『アリス一筋だっ…て・・・』
「おい変なところで区切んな俺がお前のことを好きみたいじゃないか。」
「好きじゃないの?」
「好きだよ」
「…コホン。」
しまったまた。なんか慧たちの方が年下なのに俺らに咳払いで自重するよう促してるし。なんか情けない。
そのまま自分の部屋の前に歩いていき、カギを開けて家に入る。
中は電気がついており、家に入ると中から声が聞こえた。だがそれは一人の声ではなく、三、四人の声だった。
複数の女子生徒が机を囲んでお菓子を食べていた。無論中に優奈も混じって。
「お兄ちゃん、今日お泊り会するって言ってたでしょ?メール見てない?」
特にメールなんてきてなかったような気がする。最後に届いたのは親父のメールだったし。
ピロン、とその時俺のスマホが一つの電波を受信する。
『お兄ちゃんへ。今日は私たちがお泊り会するのでそのつもりで。』
「今頃かよ!!!まぁ部屋数は足りてるだろ。うちやたら広さだけはあるし。」
「まーねー。そんでもってそこの血まみれの瓜二つの女の子は?」
そっけなく聞いてきたが内心ととても気になっているだろうなぁ。そう思いつつ後ろの二人を前に立たせる。
「折笠慧と折笠慧だ。名前が一緒なのは色々あったんだよ。気にすんな。」
背中をポンと押して挨拶を促す。初めに挨拶したのは鋭利な眼光を放つ方の慧だった。
「…僕は折笠慧。この傷とか血とかは気にしないで。よろしく。」
それに続くように無邪気さが溢れる慧が話す。
「わ、わたしも折笠慧ですっ!よろしくおねがいしますっ。」
「わぁ・・・顔はそっくりなのに言動と性格は大きく違うね。どっちも可愛いんだけどさ。」
他の女子生徒も人形のような可愛らしさの前に感嘆の声を漏らすばかり。
「しばらくうちに泊めるから。ついでにアリスも。」
「うん、いいよー。とりあえずお風呂は・・・傷が痛むだろうから今度にして服を着替えなきゃ。
私のでいいなら貸すけど。どうかな?」
さして気にすることもなく泊めることを受け入れてくれた。物わかりがいい妹を持ってよかった。
「いや、僕たちの血で服が汚れると迷惑だ。駆お兄ちゃん、服貸して。」
突然俺に話題が振られて動揺する。まぁもとはと言えば俺達の争いが原因なんだし俺が貸すべきだろう。
「おっけ。服は俺があとで洗っとくから着替えてくれ。そういやお前もお兄ちゃんって言うのな。」
俺がそう指摘すると少し顔を赤くして俯く。
「いやダメとかそういうんじゃねえよ気にすんな。二人とも脱衣所に着替えを置いておくからそこで着替えてから出て来い。」
こうして俺達の日常に二人の少女が仲間入りを果たしたのだった。




