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るうかと佐羽は春国大学の敷地を出て、そのまま南の方角へと歩いていった。目的地は佐羽が知っているようだ。るうかは一度、交通機関は使わないのかと彼に尋ねた。歩きたいんだ、と佐羽は答えた。だからるうかは赤い自転車を押しながら、冷たい風の中を佐羽の後をついて歩いている。佐羽は振り返ることなく歩いて、ときどき赤信号で立ち止まった。
「ねえ、るうかちゃん」
「はい」
「俺が今どこに向かって歩いているか、分かる?」
前を向いたまま、佐羽は静かな声で尋ねる。大きなトラックが1台、2人の目の前を横切った。
「柚木さんの家……ですか」
「正解。どうして分かったの?」
今度はバスが通り過ぎる。仕事帰りや買い物帰りの人々を詰め込んだ夕刻のバスは重そうだ。
「この世界が昨日までの続きに戻ったなら、きっとあの場所も元に戻っているんだろうと思って」
阿也乃の家のあったビルは初めから建っていないことになっていた。佐羽もそれを知っていたのだろう。元に戻る、と言ったるうかの言葉には触れずにただ頷く。
「うん」
「あそこにはサーバ室があります。頼成さんに会えなくても、どこにいるのかくらいは分かるんじゃないかと」
「そうだね」
ふふ、と佐羽は含みのある笑い方で歩き出す。信号が青に変わる。右折してきたタクシーが、少し早めに歩き出した佐羽とぶつかるほんのわずか手前で止まった。佐羽は横目でタクシーの運転手を睨む。
「ちょっと、信号無視だよ。……死にたいの?」
「落石さん!」
どういうわけか佐羽の声はタクシーの運転手に届いたらしい。露骨に顔をしかめる運転手を見ながら、るうかは佐羽の腕をぐいと引いて横断歩道を渡り切る。
「今、本当に殺しちゃいそうな迫力でした」
「殺してもよかったんだけど」
「よくないです」
「ああ、そうか。こっちの世界には人を殺したら罰せられるっていう法律があったっけ」
「法律がなくてもあのくらいのことで人を殺していたらきりがありません。落石さん、実はイライラしていませんか」
「しているさ。しているに決まっているじゃない。でもそうでもないかな? 君と2人でこうして歩けるのはちょっと楽しいや」
佐羽が一体何を考えているのか、るうかには今一つ図りきれない。るうかは佐羽の横に並んで歩いてみる。彼の横顔は歪んだ笑みを浮かべている。
白い息が佐羽の口から漏れた。
「何も知らない人達って、いいよね」
溜め息混じりに吐き出された言葉には様々な感情の色が見え隠れしている。
「きっと今頃街の人達は何事もなかったように昨日の続きを生きている。そりゃあ、辛いことだの苦しいことだのはいくらでもあるだろうね。でも、それがなかったさっきまでのことも、それを思い出した瞬間のことも、きっと誰も気付いちゃいないんだ」
「いいじゃないですか、私達は知っています。私達のわがままでそういうことをしたんですから、誰も気付かないでいてくれればいいんです」
「本当に人が好いねぇ、るうかちゃん」
「わがままがばれて怒られても困りますから」
それもそっか、と佐羽はやっとわだかまりのない表情で笑う。るうかにしてみれば、街の人々の意識を思いやる彼の方が優しいように思われる。少なくとも今のるうかは人々に対して申し訳のなさを感じこそすれ、彼らそれぞれに対して特段の感情を抱いてはいない。ただ両の肩の辺りにずしりとした重みを感じるだけだ。緑の遺した選択肢はるうか達の願いを叶えるものだったが、そのために一度は解き放たれた苦難の世界へと引き戻された人もいる。その事実があるだけだ。
「私達のしたことは、きっと正しくなんてないんです」
「そう? でも、間違ってもいないんじゃないかな。わがままなだけで」
「そうですね。正しいか間違っているかを判断してくれる人もいません」
「そうさ、神様は世界を置き去りにしてどこかに行っちゃったんだから」
佐羽はあくまで楽しそうに言うが、その口調には嫌味がたっぷりと込められている。るうかはこっそりと溜め息をつくが、それはあからさまなほどに白い色を晒して宙に浮かんだ。それを見た佐羽はくすりと微笑みながらるうかに問い掛ける。
「ねえ、君は信じているの? 本当に神様なんてものがいたって」
「え?」
「いたっていいけどね。でも、別にそんなものがいなくたって俺達はどこかで生きていたんじゃないかって……“一世”のゲームこそなかったのかもしれないけどさ。そういうことを考えたりもするんだ」
「……」
るうかは何とも答えることができずに黙っていた。元々宗教とはほとんど縁のない育ち方をした彼女にとって、神というものは架空の存在だった。そういうものがあると信じている人がいるらしい、という程度の認識で、それで特に困ることもなかった。しかし頼成や佐羽と出会ってもうひとつの世界を知り、“一世”と呼ばれる存在がその世界をフィールドとした大規模なゲームをしていることを知り、その中に駒として巻き込まれている自分を実感したときにはもう、いくら信仰と無縁な彼女でも人間より上位の存在があるということを信じないわけにはいかなくなっていたのだ。“一世”というプログラムを作り、ゲームをさせた何者かがいることは疑いようのないことだった。
「でも、神様はいたんですよね」
「そうだね。ただ、それを本当に神様だなんて呼んでいいのかな……って話。ただのゲームの主催者じゃない。便宜上そう呼んでいたっていうだけで、神様らしいことなんて別にしていないんじゃないの」
「そう……でしょうか」
「ん?」
「いえ。……ただ、私は……やっぱりそのひとは神様だと思います」
るうかの頭にはぼんやりとだが、どこかで出会った少年の姿が浮かんでいる。それは以前夢の世界での記憶を取り戻そうとPMC……パーソナルメモリークラウドと呼ばれる場所に赴いたときにちらりと見た姿だった。耳に赤い羽根の飾りをつけたその少年はるうかを助けてくれた。本当にうっすらとした記憶ではあるが、るうかにはそのことが奇蹟の証であるように感じられる。それこそ、神の所業なのではないかと。
「信じても信じなくても同じなら、信じてみたいです」
「止めないけど、ね。まぁそれでも俺達はもうその神様の手の内にいるわけじゃない。置いて行かれた子どもが何をしたっていい……っていうことを言いたかっただけ」
「……そんな大それたことをするつもりなんですか?」
「何言ってるの。もう充分大それたことをしたじゃない。……ふふ、でも確かにこれからもっとすごいことをしてやろうとは思っているけどね?」
佐羽は魔王ではなく彼本来の、つまりどこかるうかに甘えるような可愛らしい笑顔でそのようなことを言ってのける。るうかはこっそりと戦慄したが、今度こそそれを表に出さずに隠しおおせた。
「あ、ほら、るうかちゃん。あったよ」
そう言って佐羽が行く手に建つ古いビルを指差す。それはるうかにも見覚えのある姿でそこに存在していた。今にも崩れそうな程に傷んで見える5階建てのビルだ。ワラジムシが何匹も這っている基礎ブロック、ひび割れて水の染み出した跡のある打ちっぱなしのコンクリート壁、内側からベニヤ板の張り付けられた窓。そんなボロボロの建物を見付けて、しかしるうかの胸は確かに大きく鼓動を刻む。
「ありますね」
「世界が変わったことの何よりの証明だ。まったく、今朝は本当に焦ったよ……」
「そういえば落石さん、ここに住んでいたんですよね。今朝は一体どこにいたんですか?」
今更の問いではあったが、佐羽はるうかを見て特に気にした様子もなく答える。
「頼成のアパート」
「えっ」
「辻褄を合わせるのにちょうどいい物件だった……ってことなんじゃないのかな。だからびっくりしたんだ。あの馬鹿がいないってこともすぐに分かったしね」
「……」
ぽん、と佐羽がるうかの肩に手を置く。そして彼はこれまでに見せたことがないほどの極上の笑みを浮かべてこう言った。
「さあ行こう。大丈夫、俺が頼成に会わせてあげるから」
るうかは思わず目を瞬いたが、佐羽はただ楽しそうに笑うばかりでそれ以上は何も言わないのだった。
執筆日2014/08/06




