第12話「光差す場所」
数ヶ月後。
小鳥遊書房の前に、新しい看板が掲げられていた。
古い木製の看板の良さはそのままに、少しだけ磨き上げられ、温かな照明が当てられている。
店内には今日も、静かな時間を求める客たちが数人、本棚の間をゆっくりと行き交っていた。
文はカウンターの奥で、いつものように本の修繕作業をしている。
その左手の薬指には、九条が贈ったシンプルな銀の指輪が静かに光っていた。
そして、文のうなじには、九条の番としての明確な印が刻まれている。
その印が発するフェロモンは、文に近づこうとする他のαを牽制し、同時に文自身に深い安心感を与えていた。
カラン、と小さなベルが鳴り、店の扉が開いた。
入ってきたのは万丈目だった。
手には、いつものようにガラス瓶に入ったコーヒー豆を持っている。
「よお、文。調子はどうだ」
「学。いらっしゃい。今日もいい香りだね」
文が笑顔で迎えると、万丈目はカウンターにコーヒー豆を置き、ふうっとため息をついた。
その視線が、文のうなじの印にちらりと向かう。
「……すっかり、あの男のものになっちまったな」
万丈目の言葉には、以前のような刺々しさはもうなかった。
ただ、長年見守ってきた幼馴染が、自分とは違う世界へと巣立っていったことへの、ほんの少しの寂しさと、大きな祝福が込められていた。
「学には、本当に心配ばかりかけたね。でも、私、今すごく幸せだよ」
文の真っ直ぐな言葉に、万丈目は頭をかきながら苦笑する。
「わかってるよ。お前がそんな顔をしてるんだ、俺が文句を言う筋合いはねえ。それに、あの男も……まあ、少しは見直してやったしな」
「ありがとう、学。これからも、コーヒー豆の配達、よろしくね」
万丈目が店を出て行った後、文は再び作業に戻ろうとした。
そのとき、店の奥から足音が聞こえてきた。
休憩室から出てきたのは、九条だった。
週末の午後、九条はこうして小鳥遊書房の奥で過ごすことが多くなっていた。
以前のように何台もの端末を持ち込むことはなく、手には一冊の紙の本だけが握られている。
「万丈目さんが来ていたのか。挨拶くらいすればよかった」
「大丈夫ですよ。学も、九条さんが休んでいるのを知っていて、わざと早く帰ったんだと思います」
文が微笑むと、九条はカウンターの内側に入り、文の隣に立った。
二人の肩が触れ合い、互いの香りが自然と混ざり合う。
九条は文の手元にある修繕中の本に目をやった。
「それは、前に私が読んでいた詩集だな。少し背表紙が傷んでいたか」
「はい。九条さんが何度もめくってくれたから、少し接着が弱くなっていたんです。こうして直せば、また何十年も読めますから」
「そうか……。古いものを直しながら大切に使う。私の会社では考えられないことだが、今はそれがとても尊いことだとわかる」
九条は文の頭を優しく撫で、その髪に唇を落とした。
文は目を細め、九条の温もりに身体を預ける。
外の通りからは、時折車の走る音や、遠くで遊ぶ子供たちの声が微かに聞こえてくる。
世界は常に動き続け、デジタルデータは絶え間なく更新されている。
しかし、このセピア色の空間だけは、二人のために用意された永遠のオアシスのように、静かで豊かな時間を刻み続けていた。
九条は文の肩を抱き寄せ、窓から差し込む柔らかな陽光を見つめる。
「文さん。これから先、どんなに世界が変わっても、私はあなたとこの場所を守り続ける。それが、私の新しい生きる意味だ」
「はい。私も、ここでずっと九条さんを待っています。一緒に、同じ時間を刻んでいきましょう」
二人の声が静かに重なり、光に満ちた店内に優しく響き渡った。




