第1話 魔境の森の野宿と、ありがとうを1000回唱えた水
「ありがとう、ありがとう、ありがとう……これで、九百九十八回、九百九十九回……千回、っと!」
寿珠子、三十五歳。彼女の人生は、控えめに言ってドン底であった。
新卒で入った会社は超がつくほどのブラック企業。ようやくできた彼氏には「絶対に成功するビジネスがあるから」と騙されて貯金を持ち逃げされ、職場の同僚からは「いつも変な石を握ってるスピリチュアルな珠子」を略して『スピ子』と陰口を叩かれていた。
なけなしの給料とボーナスのすべては、『絶対に運気が上がる謎の壺(五十万円)』や『宇宙の波動を受信する曼荼羅ブレスレット(三十万円)』、そして怪しげなオンラインサロンの月額費用へと消えていった。
それでも珠子は信じていた。自分の波動が低いから不幸が訪れるのだ。今起きている悪いことは、すべて良くなるための『好転反応』なのだと。
そして今日、彼女は最後の希望を胸に、ネットで『人生が劇的に次元上昇する最強のパワースポット』と紹介されていた、名前も知らない地方の断崖絶壁にやってきたのだ。
愛用のリュックの中には、高額な印鑑、お清め用の粗塩、空間浄化のホワイトセージ、そして今しがた「ありがとう」と千回唱え終わったばかりの特製波動水(五百ミリリットルのペットボトル入り)が入っている。
「よしっ! これで私のチャクラも全開! 宇宙のエネルギーと繋がって、最高の未来を引き寄せる……わぁっ!?」
最高の未来を引き寄せる前に、珠子は足元の苔に思い切り足を取られた。
あっ、と思った時にはすでに遅い。彼女の身体は、最強のパワースポットと呼ばれる切り立った崖から真っ逆さまに落下していた。
(あ、これ、死んだかも……。でも、宇宙と一つになれるなら、それもまた運命……すべてはワンネス……)
ヒュウウウウと風を切る音を聞きながら、薄れゆく意識の中で珠子は愛用のリュックを強く抱きしめ、そのまま意識を手放した。
* * *
「……ん? あれ、痛くない?」
次に目覚めた時、珠子はふかふかの落ち葉の上に倒れていた。
見上げれば、見たこともないような巨大な樹木が天高くそびえ立ち、空には二つの月が浮かんでいる。明らかに日本ではない。というか、地球ですらないかもしれない。
「これって……まさか、異世界転移!? オンラインサロンの先生が言ってた『次元上昇』ってやつだ!」
普通ならパニックになるところだが、長年スピリチュアルに傾倒してきた珠子のポジティブな適応力は異常だった。むしろ「これまでの苦労が報われて、ついに高次元の存在に選ばれた」と歓喜した。
リュックの中身も無事だ。五十万円の壺も割れていない。
「うわぁ~、マイナスイオンが凄い! とっても波動が高い森だなぁ!」
珠子はご機嫌で森の中を歩き出した。
しかし、いくら歩いても森を抜ける気配はない。日が暮れてあたりが闇に包まれると、遠くから正体不明の獣の遠吠えが響き始め、さすがの珠子も足を止めた。
「暗くなってきたし、今日はここで野宿にしよっと。こういう時は、焦らず結界を張るのが一番!」
彼女は落ち葉を掃いてスペースを作ると、リュックから『お清め用の粗塩』を取り出した。そして四隅にこんもりと盛り塩をし、地面に木の枝で『宇宙と繋がる曼荼羅』の幾何学模様を描く。さらに『ホワイトセージ』の葉に火をつけ、モクモクと煙を焚きながら曼荼羅の中心に座り込んだ。
「よし、これで完璧! 悪い気は完全シャットアウト。私は宇宙の愛に包まれています……」
――珠子は全く気づいていなかった。
この森が、周辺諸国から『死の樹海』と恐れられる魔境であることに。
そして今、新鮮な人間の匂いを嗅ぎつけて彼女の周囲に殺到していた数十匹の凶悪な魔獣たちが、その「結界」の前に触れた瞬間、阿鼻叫喚の地獄絵図に陥っていたことに。
「ギャアアアッ!?」
盛り塩から放たれたのは、魔獣の存在そのものを消し飛ばす絶対神聖防壁。セージの煙は、吸い込んだ瞬間に邪悪な魔力を内側から爆発させる浄化の猛毒煙として機能していた。
魔獣たちは近づくことすらできず、次々と悲鳴を上げて光の粒子となって消えていった。
「ふふっ、なんだか空気が一段と綺麗になった気がする。セージの浄化効果、絶大だなぁ。おやすみなさーい」
珠子は、結界の外で起きている大虐殺を「自然のせせらぎ」程度に勘違いしながら、朝までぐっすりと眠った。
* * *
翌朝。
「ん~! よく寝た! まずは太陽のエネルギーをチャージしなきゃ!」
珠子は両手を広げ、昇る朝日を裸眼で直視する『サンゲイジング(太陽凝視)』のポーズをとった。現世では目を悪くするだけの危険な行為だが、異世界ではこれが太陽の精霊とのパスを繋ぐ儀式として機能し、彼女の全身に莫大なマナが注ぎ込まれていた。本人は「ビタミンDが作られてるわ~」としか思っていない。
ひとしきり謎のヨガポーズで体をほぐした後、彼女はピクッと顔を向けた。
「ん? なんだかあっちの方から、すっごくネガティブな低い波動を感じる……」
声のする方へ草むらを掻き分けると、そこには血まみれになって倒れている金髪の女性がいた。
銀色の鎧はボロボロに砕け、その身体の表面には赤黒い瘴気のようなものが纏わりついている。
彼女の名前はアデライード。通称アディ。
科学と論理を至上とする神聖帝国のエリート騎士だった彼女は今、死の淵にいた。
任務中に古代遺跡の罠にかかり、魔力と生命力を喰らい尽くす未知の呪いを受けたのだ。帝国の最高峰の科学魔導でも解明できないバグ。
上司と仲間たちは、動けなくなったアディを見下ろして冷酷に言い放った。
『直せないバグは廃棄だ。呪い一つ防げないとは、お前も出来損ないだったな』
そして、この見知らぬ辺境の森に捨てられた。
(私の計算式は、完璧だったはずだ……。どこで、術式の構築を間違えたというのだ……?)
薄れゆく意識の中で、アディは己の無力さを呪った。
(出来損ない、か……。ああ、私の人生は、なんて非論理的だったのだろう……。結局、バグ一つ修正できない欠陥品だったということか……)
いよいよ命の灯火が消えようとしたその時。
「わわっ! ちょっと、大丈夫ですか!?」
奇妙な服を着た女が駆け寄ってきた。
珠子は倒れているアディを見て、ギョッとした。
「うわぁ、凄い……。なんて低い波動なの……。オーラが真っ黒に淀んでる。それに、第4チャクラが完全に閉じ切っちゃってるじゃない!」
アディを蝕んでいるのは、常人なら触れただけで発狂するような恐ろしい古代の呪いである。しかし、スピリチュアル脳の珠子にとっては「ちょっと最近ネガティブになっちゃって、気の巡りが悪くなっている人」程度にしか見えなかった。
「だ、誰だ……近寄るな……呪いが、感染るぞ……」
アディが微弱な声で警告するが、珠子はまったく意に介さない。
「ダメダメ! 『呪い』なんてネガティブな言葉を使っちゃ! 言葉には言霊っていうパワーがあるんだから、自分で自分の運気を下げちゃうよ!」
「は……? こと、だま……?」
高度な科学魔導の専門用語か何かだろうか。アディの論理的思考回路が混乱する。
「とりあえず、これ飲んで! さっき私が念を込めたばかりだから、すっごく効くよ!」
珠子はリュックから、何の変哲もないプラスチックのペットボトルを取り出した。そして、意識が朦朧としているアディの口元に無理やり押し当て、中身の水を流し込んだ。
(水……? 馬鹿な、ただの水分補給でこの呪いが解けるわけが……!?)
アディはむせながらも、その液体を飲み込んだ。
その瞬間である。
――カッ!!!!
アディの体内から、神々しいほどのまばゆい光が爆発的に溢れ出した。
細胞の一つ一つに、あり得ないほどの超高密度のエネルギーが駆け巡る。身体に纏わりついていた赤黒い呪いが、光に触れた瞬間に悲鳴を上げるようにして蒸発し、跡形もなく消え去った。
それどころか、砕けていた骨が繋がり、失血していた血液が満ち、魔力回路がかつてないほどに拡張されていく。
わずか数秒。
死の淵にいたはずのアディは、傷一つない強靭な肉体となって跳ね起きた。
「な、なんだこれは……!? 私の体内で、何が起きた!?」
帝国の最高位魔導師が何百人集まっても解けなかった未知の呪い。それが、この女が飲ませた謎の液体によって一瞬にして完全消滅したのだ。
(計算が追いつかない……! いかなる触媒を用いた? どれほどの多重術式を液体に付与すれば、これほどの事象の書き換えが起こせるというのだ!?)
混乱の極致に達したアディは、目の前でのんきに笑っている珠子を問い詰めた。
「お、お前……今、私に何を飲ませた!? あの液体には、一体どんな神代の術式が組み込まれていたのだ!」
珠子は「えへへ」と照れくさそうに笑い、ペットボトルを掲げた。
「ん? ただの水道水だよ! でもね、崖の上で『ありがとう』って千回唱えて、愛と感謝の波動をたっぷり注入したからね! 言霊の力で、お水がまろやかになって悪いものを浄化してくれたんだよ!」
「…………は?」
アディの思考が完全に停止した。
「あ・り・が・と・う、と千回……? はどう……? それが、術式の構築だというのか……?」
「そうそう! あ、私、寿珠子って言います! 珠子とかスピ子って呼んでね!」
(あり得ない……。この女、完全に狂っている……!)
だが、事実は一つ。アディの呪いは完全に消滅し、命を救われた。
高度に発達した科学は魔法と見分けがつかないと言うが、アディにとって珠子の行動は、もはやその次元すら超越した『理解不能な超科学』にしか見えなかった。
そして直感した。この女は絶大な力を持っているのに、精神が隙だらけすぎる。この得体の知れない『ペットボトル』という超魔導容器を無造作に持ち歩く異常者だ。
自分が監視してやらねば、うっかり世界を滅ぼしかねない。
「……寿珠子、いや、珠子。お前、これからどうするつもりだ」
「今日から異世界でスピリチュアル・サロンを開くつもり! この世界、なんだかすごく気が良さそうだし!」
「……そうか。ならば、私が護衛としてついていてやる。その代わり、私の正体は誰にも言わず、ただの『流れの剣士アディ』として扱え。いいな?」
「えっ!? アディちゃん、護衛してくれるの? やったー! これも引き寄せの法則だね! 宇宙さんありがとー!」
帝国から出来損ないと見捨てられた現実主義の騎士と、現世から見捨てられたスピリチュアル女子。
決して交わるはずのなかった二つの運命が、異世界の森の奥深くで、致命的な勘違いと共に今、交差したのである。




