第65話 またね
朝でございましたわ。
宿の廊下でございますの——ソフィアの部屋の扉が開いておりましたわ。荷物をまとめておりましたの——小さな鞄でございますわ。手慣れた動きでございましたの。旅に慣れた者の荷造りでございますわ。迷いがございませんでしたの——何を持って何を置いていくか、決まっているのでございますわ。
クーリエが廊下を通りかかりましたわ——足を止めましたの。
「ソフィアさん、荷物まとめてますね」
「そうですよ」とソフィアが言いましたわ。手を止めませんでしたの。
クーリエが食堂のわたくしのところへ戻ってまいりましたわ——少し早足でございましたの。
「ソフィアさん、出ていくみたいです」
わたくしは紅茶を一口飲みましたわ。
「そうでございますわね」
「知ってたんですか?」
「左様でございますわ」
クーリエが少し考えましたわ——それから食堂の入口の方を見ましたの。ヴァルターが窓の外を見ておりましたわ——霧でございますの。今日も霧でございますわ。
「……引き止めなくていいですか?」とクーリエが言いましたわ——小さな声でございましたの。
「ソフィアさんが決めたことでございますわ」
クーリエが少し黙りましたわ——それからカップを持ちましたの。一口飲みましたわ。何も言いませんでしたの。
ヴァルターが窓から目を離しましたわ——テーブルを見ましたの。それからカップを持ちましたわ。一口飲みましたの。こちらも何も言いませんでしたわ。
食堂が静かでございましたわ——廊下から鞄を締める音がしましたの。
ソフィアが鞄を持って下りてきましたわ。
食堂に顔を出しましたの——わたくしとクーリエとヴァルターでございますわ。セバスチャンは今朝も外でございましたの。
「おはようございます」とソフィアが言いましたわ。いつもの笑顔でございますの。
「おはようございます」とクーリエが言いましたわ——少し声が明るすぎましたの。気がついたようでございましたわ——少し咳払いをしましたの。
ヴァルターが立ち上がりましたわ——少し早うございましたの。
「どちらへ?」とわたくしは聞きましたわ。
「ちょっと、旅でもしてみようかと思って」とソフィアが言いましたの。「ずっとここにいたので——外を歩いてみたくなりまして」
「そうでございますの」
「はい」
少し間がございましたわ。
「また会いますか?」とクーリエが言いましたわ——真っ直ぐでございますの。
ソフィアが少し首を傾けましたわ。
「会うかもしれないし、会わないかもしれないです」
「どっちですか?」
「どっちかは、わからないです」とソフィアが言いましたわ。「でも——会うかもしれないですよ」
「……それ、どっちとも取れますよね」
「そうですね」とソフィアが言いましたの——笑顔でございましたわ。
クーリエが少し考えましたわ——それから頷きましたの。完全には納得していない顔でございましたわ。それでも頷きましたの。
「……元気でいてください」とクーリエが言いましたわ。
「クーリエさんも」
ヴァルターが一礼しましたわ——丁寧でございますの。
「お気をつけて」
「ヴァルターさんも」とソフィアが言いましたの。少し間を置きましたわ。「……大丈夫ですよ、ちゃんと」
ヴァルターが少し止まりましたわ——それから小さく頷きましたの。今度は何も言いませんでしたわ——頷くだけでございましたの。それで十分でございましたわ。
宿の外からでございましたわ——扉が開いておりましたの。
「達者でな」
セバスチャンでございましたわ——扉の外に立っておりましたの。腕を組んでおりますわ。中には入りませんでしたわ——いつから扉の外にいたのか、わかりませんでしたわ。
ソフィアがセバスチャンを見ましたわ。
「はい、あなたも」とソフィアが言いましたの。「均衡、頑張ってください」
「言われなくてもやっている」
「知ってます」とソフィアが言いましたわ。少し間がございましたの。「……また揉めたら声かけてください」
「揉めない」
「そうですか」
セバスチャンが少し黙りましたわ——それから外に向き直りましたの。扉の枠に寄りかかりましたわ——出ていくでもなく、入るでもなく、そのままでございますの。
ソフィアがわたくしの方を向きましたわ。
少し間がございましたの——鞄を持ったままでございますわ。
「クラリッサさんって——本当に、紅茶が好きなんですね」
「ええ」
「最初に会った時から、ずっと持ってて。霧の中でも、茶葉を摘んでて、お茶を淹れて」とソフィアが言いましたわ。「なんか——それだけでいいんだ、って思いました」
「何がでございますか?」
「好きなものがある、ってこと」とソフィアが言いましたの。「それだけで、ちゃんとここにいられるんだって」
わたくしは一口飲みましたわ。
「そうでございますわ」
「わたしも、見つけようと思います」とソフィアが言いましたわ——ゆっくりでございましたの。独り言のようでもございましたわ。「旅しながら——何か、好きなものを」
「見つかりますわ」
「そうですかね」
「旅をしていれば、わかりますわ」
ソフィアが少し笑いましたわ——目が笑っておりましたの。
「またね」
鞄を持って歩き始めましたわ。扉を抜けましたの——セバスチャンの横を通りましたわ。石畳に足音がしましたの——軽い足音でございますわ。
霧の中へ入りましたわ。
翡翠の光がすうっと散りましたわ。
一瞬でございましたの——霧に溶けましたわ。
誰も気づきませんでしたわ。
セバスチャンが扉の枠から離れましたの——ソフィアが歩いていった方角を見ておりましたわ。霧でございますの——もう姿はございませんでしたわ。しばらく見ておりましたわ——それから腕を組みましたの。
「……達者でやるだろう」と小さく言いましたわ——誰にでもなく、でございますの。
それからセバスチャンも歩き始めましたわ——ソフィアとは別の方角でございますの。霧の中へ入りましたわ。
「セバスチャンさんも行くんですか?」とクーリエが言いましたわ。
「均衡が動いている」とセバスチャンが振り返らずに言いましたの。「西から南に流れてきた。そちらへ行く」
「またいつか」とクーリエが言いましたわ。
セバスチャンが少し足を止めましたわ——振り返りませんでしたの。
「……ああ、またな」
霧の中に消えましたわ。
クーリエが窓から外を見ておりましたわ。
「行っちゃいましたね。二人とも」
「ええ」
「また会えますかね」
「さあ」とわたくしは言いましたわ。「旅をしていれば、わかりませんわ」
クーリエが少し考えましたわ——それから窓から離れましたの。
「……ソフィアさん、少し変わりましたよね。最後の方」
「そうでございますか?」
「なんか、うまく言えないんですけど——なんか、違いました」とクーリエが言いましたわ。「最初に会った時と——同じ笑顔なんですけど、なんか」
少し間がございましたわ。
「圧力が、なかったですよね。最後」とクーリエが言いましたの——自分でも驚いたような顔でございましたわ。「なんか、ただ笑ってた」
ヴァルターが席に戻りましたわ——カップを持ちましたの。一口飲みましたわ。
「……そうですね」とヴァルターが言いましたの。「変わっていたと思います」
クーリエが少し頷きましたわ——それからカップを持ちましたの。両手でございましたわ。
「よかったですね」とクーリエが言いましたの——小さな声でございますわ。わたくしに向けているのか、ソフィアに向けているのか、わかりませんでしたわ。
わたくしは紅茶を一口飲みましたわ——銀のティーポットがテーブルの上にございましたの。
霧の中でございますわ——外は静かでございましたの。石畳に足音はもうございませんでしたわ。




