第61話 魔王再び
3日目の朝でございましたわ。
宿の食堂でございますの——朝食でございますわ。パンと干し果物でございましたの。ヴァルターが静かに食べておりましたわ。ソフィアがパンをちぎりながら、窓の外を見ておりましたの。
「今日はどうしますか?」とソフィアが言いましたわ。
「霧の高地をもう少し歩いてみたいのでございますわ」とわたくしは言いましたの。「茶葉の群生がまだ別の場所にあると聞いておりますから」
「ありますよ。案内しましょうか?」
「お願いいたしますわ」
クーリエが銀のティーポットの用意をしておりましたわ。ヴァルターがパンを一口食べましたの——それから窓の外を見ましたわ。霧でございますの。今日も霧でございましたわ。
霧の高地でございましたわ。
昨日より奥でございますの——3歩先がぼやけておりましたわ。
「昨日より霧が濃いですね」とクーリエが言いましたわ。
「奥に来るほど濃くなりますよ」とソフィアが言いましたの。「慣れると平気なんですけど」
「慣れる前に迷いそうです」
「迷っても声を出せば聞こえますよ。霧は視界を消しますけど、音は消さないので」
「……それは少し安心しました」
わたくしは茶葉の気配を追いながら歩いておりましたの。
霧の中に別の気配がございましたわ。
茶葉ではございませんでしたの——人でございますわ。前方から来ておりますの——重い足音でございましたわ。均一でございますの。消耗した足音でございますわ——それでも止まらない足音でございましたの。
ヴァルターが先に気づいて前に出ましたわ。
「誰かいます」
霧の中から人影でございましたわ。
大きゅうございますの——黒い鎧でございますわ。長身でございますの。赤い瞳でございましたわ——霧の中でも色がわかりましたの。
その人影が立ち止まりましたわ。
「……なぜ私は西にいるんだ」
独り言でございましたの——わたくしたちに言ったのではございませんでしたわ。空に向かって言いましたの。
「セバス」とわたくしは言いましたわ。
黒い鎧がわたくしを見ましたの。
「……セバスチャンだ」
セバスチャンが来た方向とは逆側に、大きな岩がございましたわ——霧の中に浮いて見えましたの。腰を下ろすのに丁度よい高さでございますわ。
「どういう経緯でここへ?」とわたくしは聞きましたわ。
「均衡が西に流れてきた」とセバスチャンが言いましたの。「北東が少し落ち着いた。その分、別の場所が揺れる。西だった」
「いつ頃からでございますか?」
「10日ほど前から動きが出た。追っているうちに西に来ていた」とセバスチャンが言いましたわ——それから深くため息をつきましたの。
「お疲れでしょう」
「疲れてはいない」とセバスチャンが即座に言いましたの。
クーリエが一歩前に出ましたわ。
「セバスチャンさん、久しぶりですね」
「……久しぶりだな」とセバスチャンが言いましたの。クーリエを見ましたわ——それからヴァルターを見ましたの。「ヴァルターも一緒か」
「お久しぶりです」とヴァルターが言いましたわ。
セバスチャンが一度頷きましたわ——それから霧の向こうを見ましたの。何かを確認するように。それからまた岩に体重を預けましたわ。
そこへ声がしましたの。
「あ」
「魔王さんだ」
ソフィアでございましたわ——少し後方に立っておりましたの。
笑顔が消えましたわ。
光が走りましたわ。
翡翠でございますの——ソフィアの右手からでございますわ。音がございませんでしたの。霧の中で光だけが動きましたわ——真っ直ぐでございますの。迷いがございませんでしたわ。距離がございませんでしたの——発動から着弾まで、間がございませんでしたわ。
セバスチャンが動きましたわ。
剣を抜きませんでしたの。左腕を前に出しましたわ——鎧の篭手でございますの。光がそこにぶつかりましたわ。
音がしましたわ——金属の音でございますの。翡翠の光が篭手から四方に散りましたわ。霧の中に溶けましたの——緑の光が霧に吸われて消えましたわ。
少し間がございましたわ。
ヴァルターが前に出ておりましたの——いつの間にか大盾を構えておりましたわ。クーリエが後ろへ二歩動いておりましたの——手に光の槍を握っておりましたわ。
「ヴァルター」とわたくしは言いましたわ。
ヴァルターが止まりましたの——盾を下げませんでしたわ。まだ構えたままでございましたの。
「……まだダメかぁ」
ソフィアの声でございましたわ。
静かでございましたの——霧の中に落ちた声でございますわ。
それから笑顔が戻りましたわ。
「久しぶりですね」とソフィアが言いましたわ。「少し疲れてませんか?」
「疲れてない」
間髪入れませんでしたわ。
ヴァルターがゆっくりと盾を下げましたの——目はソフィアから離しませんでしたわ。クーリエがわたくしを見ましたの。わたくしは紅茶を一口飲みましたわ。
「……今のは」とクーリエが言いましたわ——光の槍をしまっておりませんでしたの。
「均衡のことで動いてる方なので」とソフィアが言いましたわ。笑顔でございますの。「接点がありまして」
「接点」とクーリエが繰り返しましたわ——真顔でございましたの。
「均衡が関係してれば、会いますよ」とソフィアが言いましたわ。「みんな、同じ問題の中にいるので」
クーリエが少し考えましたの——それからセバスチャンを見ましたわ。
「でも来たんですよね、西に」
「来たくて来たわけではない」とセバスチャンが言いましたの。「均衡がここに流れたから来た。それだけだ」
「でも来たんですよね」
「……来た」とセバスチャンが言いましたわ。少し間がございましたの。「来てしまった」
ソフィアが4人を順番に見ておりましたの——セバスチャン、クーリエ、ヴァルター、わたくしでございますわ。それからふわりと笑いましたわ——さっきまで何があったかなど、どこにもございませんでしたの。
「なんか、いいですね。みんな仲良し」
全員が少し黙りましたわ。
「……仲良しではない」とセバスチャンが言いましたの。
「仲良しだと思いますよ」とソフィアが言いましたわ。「わたしから見ると」
「仲良しの定義が違う」
「そうですかね」
クーリエがわたくしを見ましたわ——何か言いたそうでございましたの。それから前を向きましたわ。何も言いませんでしたの。
わたくしは荷物を下ろしましたわ。
岩の周りでございましたわ——霧の中の、少し開けた場所でございますの。
クーリエが道具を出しておりましたわ。湯を沸かす用意でございますの。わたくしは銀のティーポットを出しましたの——茶葉を量りましたわ。カップを5つ並べましたの。
セバスチャンがカップの数を見ましたわ。
「……5つか」
「ええ」
「私の分があるのか」
「来ると思っておりましたわ」
セバスチャンが少し黙りましたわ。
「なぜ」
「均衡が西に流れたとおっしゃいましたわ。それはわたくしも感じておりましたの。感じているならセバスも感じているはずでございますわ——それだけでございますの」
「セバスチャンだ」
「ええ」
ソフィアがカップの数を見ておりましたわ——それからわたくしを見ましたの。笑顔でございましたわ。今度は何も言いませんでしたわ——ただ見ておりましたの。
クーリエが湯を注ぎましたわ。銀のティーポットに蒸気が上りましたの。霧の中で湯気と霧が混じりましたわ——どちらがどちらかわかりませんでしたの。
わたくしが注ぎましたわ。5つのカップへでございますの。
セバスチャンにカップを渡しましたわ。受け取りましたの——両手でございますわ。一口飲みましたわ。何も言いませんでしたの——ただもう一口飲みましたわ。
ソフィアもクーリエもヴァルターも、それぞれカップを持っておりましたわ。霧の中で5人でございますの。
「……なぜ私はここにいるんだ」とセバスチャンが言いましたわ——少し小さい声でございましたの。
「いてくださってよろしゅうございましたわ」
セバスチャンが返事をしませんでしたの。
カップを持ったままでございましたわ。
ソフィアがカップを両手で持ちましたわ——一口飲みましたの。霧の中でございますわ——5人の間を霧が流れておりましたの。クーリエが自分のカップを見ておりましたわ。ヴァルターが岩の上に大盾を立てかけましたの——それからカップを持ちましたわ。
誰も先ほどのことを口にしませんでしたの。
霧が動いておりましたわ——光の加減でございますの。昼が近うございますわ。




