第50話 本気の魔法使い
洞窟の空気が、鳴りましたわ。
音ではございませんでしたの——空気が締まる感覚でございますわ。魔力が収束する瞬間の、あの感触でございますの。
わたくしは横に跳びましたわ。
直後、わたくしがいた場所の地面が抉れましたの。石の破片が散りましたわ。クーリエが腕で顔を庇いましたの。ヴァルターが盾を前に向けましたわ——破片を受け止めましたの。
オルフェウスが湖面の上に立っておりましたわ。
立っている、ではございませんでしたの——浮いているのでございますわ。足元に薄い魔法陣が広がっておりますの。湖面から1尺ほど上でございましたわ。距離がございますの——こちらから届かない距離でございますわ。セバスチャンが剣を抜いて踏み込もうとしましたの——湖面に足を踏み出した瞬間、水面から魔法の刃が立ち上がりましたわ。セバスチャンが後退しましたの。
「……湖面に罠を張っている」
「先ほどから準備しておりましたのでしょう」とわたくしは言いましたわ。「計測の名目で」
「茶葉を採らせていた間に、か」
「ええ。研究者でございますわ——先を読む方でございますの」
オルフェウスが次の魔法を構えましたわ。今度はセバスチャンへ向けておりますの——大きな魔力でございましたわ。
「クーリエ」
「はい」
「左の岩棚を」
クーリエがハンマーを投げましたわ——岩棚に当たりましたの。岩が崩れて落ちましたわ。オルフェウスが上を見ましたの——魔法の照準が乱れましたわ。
セバスチャンが湖畔を走りましたの。角度を変えようとしておりますわ——しかしオルフェウスが向きを変えましたの。常に距離を保っておりますわ。湖の中央へ移動しましたの。どの方向からも、届かない位置でございますわ。
「……逃げている」とセバスチャンが言いましたわ。
「逃げているのではございませんわ」
「では何だ」
わたくしはオルフェウスを見ましたの。
「傷つかない位置を選んでいるのでございますわ」
戦いが続きましたわ。
オルフェウスの魔法は精密でございましたの——無駄がございませんわ。必要な分だけ使って、必要な距離を保ちますの。セバスチャンを主に狙っておりましたわ——クラリッサたちはその障害として処理しておりますの。最小限の魔法でこちらの動きを制限して、セバスチャンへの魔法のための隙を作る形でございますわ。
長く戦ってきた者の戦い方ではございませんでしたの。
死を恐れている者の戦い方でございますわ。
わたくしはフレアアローを放ちましたの——オルフェウスが魔法で逸らしましたわ。岩壁に当たって炎が散りましたの。クーリエが光の槍を上から放ちましたわ——オルフェウスが移動しましたの。湖の別の位置でございますわ。また届かない距離でございますの。
「届かないですね」とクーリエが言いましたわ。
「ええ」
「どうするんですか?」
「考えておりますわ」
セバスチャンが湖畔を動きましたの。別の角度からでございますわ——しかしオルフェウスがそれより早く向きを変えましたの。魔法を放ちましたわ。セバスチャンが剣で弾きましたの——弾いた魔法が岩壁に当たって崩れましたわ。
「……こちらの動きを全部見ている」とセバスチャンが言いましたの。
「勇者でございますわ」とわたくしは言いましたわ。「戦い方を忘れていただけで、力は失っておりませんの」
ヴァルターが盾を構えたままわたくしの傍に来ましたわ。
「クラリッサさま、背中の荷物を」
「構いませんわ」
「茶葉が——」
「無事でございますわ。確認済みでございますの」
ヴァルターが少し止まりましたわ。それから前を向きましたの。
オルフェウスの魔法が変わりましたわ。
広域でございましたの——1点を狙うのではなく、範囲を覆う形でございますわ。洞窟の天井に魔法陣が展開されましたの——青白い光でございますわ。発光体の光とは違いますの——鋭うございますわ。
「散りなさい!」とわたくしは言いましたの。
4人が別々の方向へ走りましたわ。
天井から魔法が降ってきましたの——1本ではございませんでしたわ。十数本の細い光の柱でございますの。それぞれが別の方向へ追いかけましたわ——照準を分割しておりますの。
クーリエが走りながら光の壁を展開しましたわ。壁に光の柱が当たりましたの——壁が砕けましたわ。クーリエが吹き飛びましたの——
壁に当たりましたわ。
音がしましたの。
「クーリエ!」とわたくしは言いましたわ。
クーリエが頭を振りましたの。立ち上がろうとしておりますわ——膝がつきましたの。また立とうとしておりますわ。
ヴァルターの手が光りましたわ。
光が——止まりましたの。
ヴァルターが盾を前に向けたままでございましたわ。手が光っておりますの——しかし動いておりませんでしたわ。光が、そこで止まっておりますの。
数秒でございましたわ。
ヴァルターが静かに言いましたの。
「……今、盾の前にいるのは何ですか」
自分に向けた言葉でございましたわ。
誰かに聞いているのではございませんでしたの——自分で、自分に問いかけておりますわ。
また数秒でございましたの。
光が消えましたわ。
「……止まれました」
ヴァルターが盾を持ち直しましたの。クーリエの方へ歩きましたわ——走らずに、歩いておりますの。傍にしゃがみましたわ。
「立てますか?」
「……立てます」とクーリエが言いましたの。「ありがとうございます」
「何がですか?」
「止まってくれたことです」
ヴァルターが少し間を置きましたの。
「……立てるなら、立ってください」
クーリエが立ち上がりましたわ。ハンマーを構えましたの。
わたくしはオルフェウスを見ましたわ。
湖の中央でございましたの。先ほどと同じ位置でございますわ——同じ距離でございますの。広域魔法を放った後でございましたわ。消耗しているはずでございますの——しかし表情は変わっておりませんでしたわ。
変わっていないのではございませんでしたの。
変えていない、でございますわ。
わたくしは荷物の中の茶葉を感じましたわ。
セバスチャンが湖畔で剣を構えておりましたの。クーリエがハンマーを持ち直しておりますわ。ヴァルターが盾を前に向けておりますの。
膠着でございましたわ。
こちらからは届かない——オルフェウスも仕留められない——セバスチャンが狙われ続ける——この形は続きませんの。
わたくしはオルフェウスに向かって言いましたわ。
「疲れませんか?」
オルフェウスが答えませんでしたの。
「何年も研究をなさって、ようやく見えてきたところで——討伐するために戦う。ご自分の研究の続きはどこへ行きましたの?」
「黙れ」
「ええ、失礼いたしましたわ。ただ——」
わたくしは湖面を見ましたの。青白い光でございますわ。
「あなたは今、何のために戦っておられますか?」
オルフェウスが手を上げましたわ。
次の魔法でございましたの——セバスチャンへ向けた、大きな魔力でございますわ。
わたくしはフレアアローを放ちましたの。オルフェウスの手元へでございますわ——魔法の照準に割り込む形でございますの。オルフェウスが魔法を逸らしましたわ。セバスチャンへの直撃は外れましたの。
しかし逸らした魔法が岩壁を抉りましたわ。洞窟が揺れましたの。
天井から石が落ちてきましたわ。
また膠着でございましたの。
「……しぶといな」とセバスチャンが言いましたわ。
「勇者でございますわ」とわたくしは繰り返しましたの。
「お前たちもしぶとい」
「茶葉があればそうなりますわ」
セバスチャンが何も言いませんでしたの。
オルフェウスが湖の中央で、また距離を保っておりましたわ。暗紫のオーラが揺れておりますの——揺れながら、しかし確かにそこにございますわ。
わたくしはその揺れ方を見ておりましたの。
大きな魔法を使った後でございますわ。消耗しているはずでございますの——オーラが薄くなっておりますわ。僅かでございますが、確かに薄うございますの。
長くは続かない、とわたくしは思いましたわ。
どちらの意味でも、でございますの。




