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グッドバイ   作者: 廣本 涼
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後編

 


 そして忘れもしないあの日。


 一つの仕事を終え、近所の公園でのんびりしていた私の携帯電話に一本の電話がかかってきた。非通知と表示された画面に警戒しながら電話に出た私の耳に入ってきたのは、知らない女性の嗚咽だった。これはまずいものに出てしまったと電話を切ろうとした時、相手は彼の名前を口にし、


 彼が死んだと、告げた。


 電話の相手は、彼の母親だと名乗った。そして、市内の総合病院にいるのですぐに来てほしいと彼女は懇願した。私はそれを、ぼうっと聞いていた。世界の音という音が、遠のいていた。

 彼が死んだ。

 死んだ。

『しんだ』?それは一体どういう意味だっただろう。

 私の頭の中で、彼の母親の声がぐるぐると回っていた。頭が重い。目の奥がじんじんとする。

 どれくらい私は呆然としていたのか。我に返ると、携帯は地面に転がっていた。画面は真っ暗だった。

 私はのろのろとした動きでそれを拾い、ぼんやりと画面を見つめた。毎朝鏡で見る男の顔が映っていた。魂が抜けたように空虚で、ひどい顔だった。

 電話を掛け直した方がいいのだろうか。私は上手く回らない頭で考える。落とした時に通話が切れたのか、それとも相手が終わらせたのか、私には判断がつかなかった。

 強烈な眠気が襲ってきた。私はゆっくりと立ち上がり、歩き出した。

 早く家に帰って寝よう。私はそう思った。今思うと、あの睡魔は現実に耐え切れないと考えた私の心の防衛本能だったのかもしれない。

 家についた途端に足の力が抜け玄関に倒れ込み、そのまま意識を手放した。

 その日、私が病院に行く事は無かった。

 目を覚ますと、日光が家の中をうっすらと明るくしていた。腕時計を見ると、朝の六時だった。十五時間ほど寝ていた事になる。

 携帯電話には、不在着信が何件か入っていた。メッセージが残されており、私は身体をひっくり返し仰向けになると、携帯を耳に当てた。

 一件目は、通話が途切れたと心配する彼の母親の声だった。また少し落ち着いたら詳しい事を話すという言葉で締められていた。

 二件目は、たった一人の彼との共通の友人だった。初めて聞く涙声でそいつは、また話をしようと言っていた。

 三件目は、仕事の相手からだった。脚本を確認し、これでいいという連絡だった。

 四件目は、また彼の母親だった。通夜と葬式が決まったと、日付と時間が告げられた。声はしっかりしており、私の事を心配していた。折り返しの電話はいらないから、お別れに来てくれと言われた。

 メッセージを聞き終えると、私は携帯を遠くへ放り投げた。ガシャッと嫌な音を立てたが、どうでもよかった。

 納得がいかない。どうして彼がいないという前提で世界は進んでいるのだろう。私は悲しみよりも苛立ちや怒りを感じていた。彼が死んだことを信じきれずにいた。

 その気持ちのまま勇ましく通夜へ向かった私だが、涙を流す人々と、何よりピクリとも動かない彼に、現実を突きつけられた。

 生命活動を止めた彼は、まるで置物のようだった。友人を物に例えるのは自分でも酷いと思ったが、その表現しか見つからなかった。

 ついこの前まで共に酒を飲んでいたというのに、彼は一人で境界を越えてしまったのだ。

 悲しむよりもただ茫然とする私に、彼と会わせてくれた両親が経緯を話し始めた。

 飲酒運転だったそうだ。昼間から酒を飲んだ人間が運転をしていた乗用車が歩道に突っ込み、そこを歩いていた彼が轢かれたのだという。

 享年二十七歳。

 悲劇と言うには、あまりに悲惨だった。

 私は口元が歪みそうになるのを必死で抑えた。こんなにもあっけなく、唐突に人はいなくなるのかと思うと、馬鹿馬鹿しさすら感じた。こんな理不尽で、不公平な事があっていいのか。

 彼は即死では無く、救急車の中では辛うじて意識があったらしい。救急隊員の一人を捕まえて、彼は私の名前を告げた。その男に伝えてくれ、と前置きをしたうえで、こう言ったそうだ。

「仕上げを、頼む」

 それからパソコンのパスワードとファイル名を口にすると、彼は満足そうな笑みを浮かべ、瞼を下ろした。

 それから彼が再び目を覚ます事は無く、それが最期の言葉となった。

「救急隊員の人が、私達に伝えてくださって。でも私達、そんな名前の男性を知らなかったから、あの子には悪いと思ったけど携帯を勝手に見たんです。あの子、携帯にパスワードを設定していなかったんですよ、不用心ですよねえ」

 ハンカチで目元を押さえながら、母親が笑った。私が『落としたら危ない』と何度言っても、彼は面倒くさいとロックを掛けなかった。

「そして連絡先を調べて、貴方に電話したんです。今思うと、私も混乱していたのね。いきなり病院に来いだなんて言われたら、びっくりしますよね。早く伝えなきゃと気が急いでしまって……。申し訳なかったわ」

 私は首を左右に振った。

「こちらこそ申し訳ありません。途中で会話をやめた挙句、連絡もしないで」

 母親は優しい笑みを浮かべた。

「気にしないで。心配はしたけれど、今日あの子に会いに来てくれて良かったわ。本当にありがとう」

 彼の両親は頭を下げた。私は慌てて、二人よりも深く腰を折った。

 顔を上げた母親は、「それにしても」とおかしそうに言った。

「あの子の携帯電話の連絡帳を見て、驚いたわ。登録している人数があまりに少なくて。昔から友達が出来にくかったけど、大人になっても全然変わっていなかったのね」

 誰に似たのかしら。母親がちらりと隣に視線をやると、父親が「わたしじゃないぞ」と言った。

 私はその様子を見て、微かに笑みがこぼれた。あの人嫌いで不愛想な彼の親だとは思えないほど、穏やかで優しい人達だった。

 この時初めて、私達はいつも仕事の話ばかりをしていてお互いの詳しいことを殆ど知らない事に気が付いた。

 私達の間には、脚本家という名の橋しか存在していなかったのだ。


 通夜は恙無(つつがな)く終わり、翌日、私は葬式にも出席した。

 始まる前、私は彼の父親に呼び止められた。

「貴方に、これを」

 差し出されたのは、USBメモリだった。

「あの子が言っていたファイルが入っています」

 私は瞠目した。彼の言う通りに続きを書くつもりなど毛ほども無かったし、そもそも家族が許さないと思っていた。あくまで私に彼の言葉を伝えただけで、彼が遺した作品を他人に渡すわけがない、と。昨日は何も言われなかったし、すっかりそのつもりでいたというのに。

 動かない私の手を取り、父親がそれを私に握らせた。

「書いてほしいんだ。あの子の最期の願いを、聞いてやってください」

 貴方の事を調べました、と父親は言った。

「有名な脚本家の方だったんですね。そんな人に無名のあの子の作品を書けというのは失礼なのだろうが、お願いします」

 嫌だ、と思った。

 私は確かに彼より名は売れていた。だが父親は勘違いしている。私などが彼の作品の続きを書く事が失礼なのだ。

 天才の作品に、凡人が手を触れるなど許されるはずがない。

「お願いします」

 私が渋っていると思ったのだろう、父親がもう一度言った。

「あ……」

 意味の無い音が喉から出た。断らなければ、と思うのに上手く言葉が紡げない。そうしている内に父親は人に呼ばれ、また「お願いします」と頭を下げてから去っていった。

 私が立ちすくんでいると、

「何で返事しないんだよ」

 知り合いの舞台監督がやってきた。何度か仕事をしたことがある。私より五つほど上の、若い監督だ。

「聞いたぞ。あいつが、最期に力を振り絞って言ったそうじゃねえか。あいつと友達だって呼べるの、お前くらいだぜ?」

「……友人だからって、やって良い事と悪い事があります。それに、仕事なんだから勝手に手をつけられません」

「仕事だからっていう点に関しては問題ないぞ。俺がやってる舞台だからな。途中のままで終わってんなら、誰かが最後まで書いてくれないと困るんだよ。劇団の方でもご両親と話して、誰かに完成させてもらうって事で方針は決定してる。ならその『誰か』はあいつご指名のお前しかいないだろ」

「でも……」

 私が言い淀むと、はあ、と溜息を吐かれた。

「お前なあ、何を渋ってるのかは知らねえけど、あいつの願いを聞いてやれよ。あいつが、お前を指名して、自分の物語を託したんだろ。あいつにも、何か思うことがあったからお前の名前を出したんじゃねえのか」

 私は何も答えなかった。自分の気持ちを話したところで、理解してもらえることは絶対に無いだろうと思ったからだ。

 監督は先程よりも大きく息を吐き出すと、「とりあえず頼むな」と私の肩を叩いて離れていった。

 書けるはずがないだろう。私は呟いた。

 天才である彼の作品を。彼の名を、私はきっと汚してしまう。そんな恐ろしいこと、絶対に出来ない。

 私は、彼の作品をこの世界の誰よりも評価している。だからこそ、出来るわけがないのだ。

 なのにお前は、何で私に託した。何でそんな残酷なことを言った。

 何で最後の最期に、私を無条件で信頼した。

 USBメモリを握りしめ、私は歯を食いしばった。

 前日もそうだったが、業界関係の参列者は少なく、それは彼の交友関係と知名度をよく表していた。本当に、売れ始める一歩を踏み出したばかりだったのだ。私は彼との大喧嘩を思い出し、苦った。あの時、こんな事になるなど思いもしなかった。

 時折すすり泣きが聞こえる中、葬式は静かに進行した。彼の両親は気丈で、参列者に礼をし、背筋を伸ばして立っていた。

 だが、別れ花の時。

 突然咆哮のような声が響き渡った。

 棺の前で、父親が崩れ落ちていた。隣の母親は、暫く肩を震わせていたあと、へたり込んで咽び泣いた。どうして、どうしてよ。途切れ途切れに、そんな言葉が聞こえた。

 私はその姿にショックを受けた。通夜も葬式の最中も彼らはしっかりとしていて、私を気遣ってくれさえもした。だが、息子に突然旅立たれて平常心を保てるはずがないのだ。今の姿が本心を表しているのだろう。だが二人は恐らく、ずっと耐えていた。耐えながら、私に彼の最期の言葉を伝え、ファイルを渡してくれた。彼の言葉を伝えた時、彼の物語を渡した時、二人はどんな想いでいたのだろう。そしてそれを、エゴだけであしらおうとした私は。

 ポケットの中にいれたUSBメモリが、急に重くなった気がした。

 何とか両親が彼に別れを告げた後、参列者も花を入れていった。私も一輪の百合を手に、彼に近付いた。

 棺を覗き込むと、彼は既に真っ白な花に周りを囲まれていた。彼と花の組み合わせに、私は違和感を持った。似合わないなあ、お前。内心で苦笑する。

 化粧を施されているからか、事故に遭ったとは思えない程に綺麗な顔をしていた。肩を揺すったら、目を覚ましそうだ。

 なあ、お前。本当にとんでもない事をしてくれたよ。

 私は腹をくくると、彼の顔のすぐそばに花を添えた。

 

 自宅に帰るとすぐに、私はパソコンを起動させてUSBメモリを読み込んだ。

 葬式が終わった後に監督に確認すると、期限は三週間後だったと告げられた。

「あいつの進行具合は分からないが、間に合いそうになければ連絡して来い。どうにかする」

 目を真っ赤にしたまま、監督は笑った。

 USBメモリにはぽつりと一つのファイルがあった。タイトルは、「ユートピア」。私はそれをクリックして表示した。

 主人公の男は、暗闇の世界に住む人間だ。希望も、目的もなく、ただ存在し続けていた。nしかしある時、男は一人の女と出会う。暗闇の世界で生きている人間とはまるで様子が違う彼女は、自分は別の世界から来たのだと言った。女は光が溢れる世界の人間で、そこからの使者だった。二つの世界を統合しようと、交渉にやってきたのだ。

 交渉は難航した。賛成派や反対派という単純な派閥だけでなく、様々な人間の思惑が渦巻き、絡まった。

 交渉に疲れた様子を見せる女を、男はこっそりと連れ出して話し相手を務めるようになった。二人で言葉を交わし、意見を言い合う時間は女だけでなく男の楽しみにもなっていった。やがて、お互いは世界が統合したら共に生きていこうと約束を交わすまでになる。

 しかし、交渉は決裂。女の必死な努力も虚しく、暗闇の世界は光を拒絶した。実は、統合するかどうかで揉めて一部の組織が武力を行使し出したのだ。内部紛争が起こるくらいなら、統合はしない方がいいという判断だった。

 女は疫病神のように扱われ、追い出されるように光の世界へ戻る事になった。

 そして、最後の時。男は女に行かないでくれと縋った。男をやんわりと諭す女。絶望し、泣き崩れた男は帰っていく彼女の背中に問うた。俺はお前さえいればそれでいいのに、お前は違うのか?あれほど楽しかった日々は、そんなにあっさりと捨てられる程度のものだったのか?

 物語はここで終わっていた。

 相変わらず独特の世界観だ。彼が描く物語は表現するのが本当に難しい。気を付けないと滑稽になるのだ。今回も苦労するんだろうなと監督のげっそりとした顔を想像し、私は思わず笑ってしまった。

 最後に保存された日時は、一週間前だった。もうあとほんの少しで終わりそうなのに完成していなかったという事は、彼はここで詰まっていたのだろう。

 想像よりも完成に近く、私はひとまずほっとした。期限の心配はしなくて良さそうだった。しかし、すぐに気を引き締める。

 男の問い掛けに、女は何と答えたのか。

 彼が考えても分からなかった答えを、私が見つけなければならない。

 私はまず、脚本を何度も何度も読み返した。彼が何を考え、伝えようとしていたのか。私は読み解かねばならなかった。

 タイトルの『ユートピア』。理想郷。これは、女と出会った男が願い、描いた未来の姿のことだろう。

 他にも細かい世界観や各派閥の思想、キャラクター一人一人の細かい性格や考え方まで分析し、私は物語を隅々まで把握していった。そして、それを元にいくつかの答えを考えた。

 だが、どれもしっくりこなかった。

 彼の考え方の傾向を知ろうと、もう一度彼が脚本を手掛けた舞台の映像を見直した。

 ただ粗を探すために見ていたあの頃とは違い、私は物語に向き合った。そして改めてその才能に舌を巻いた。

 だがどれほど調べて分析しても、彼が出しそうな答えが見つからなかった。彼の言葉の選び方は分かっても、思考は分からなかった。

 考えてはキーを叩き、すぐに消して、作品を見直してはキーを叩き、また消して。

 何度それを繰り返しただろうか。全く進まないまま、時間だけが過ぎていった。あれほど余裕があった期限が、近くまで迫っていた。

 やはり、駄目だったのだ。期限の二日前、私は苛立ちながら息を吐き出した。

 彼の思考を、私が理解できるわけが無かった。それが出来ていたら、私は彼を意識しなかっただろう。

 彼の名前や作品を汚す?私は嘲笑した。

 そもそも、手を付けることすらできないではないか。

 投げやりになったその時、電話がかかってきた。

「調子はどうだ?」

 舞台監督からだった。

「全く進んでいません」

 一言も書けていませんよ。自嘲しながら言う。

 怒られるかと思ったが、「そうか」と静かな声が返ってきた。

「お前達が普段どんな話をしていたかなんて俺はさっぱり分からないし、もしかしたら見当外れなのかもしれないけどさ。あいつが、お前にどんな言葉を遺したのかもう一度思い出してみたらどうだ?何か突破口になるかもしれねえぞ」

 まあ、まだ時間はある。じゃあ、頼むな。それだけで電話はあっさりと切れた。

 彼が、遺した言葉。短かった。「仕上げを、頼む」、ただそれだけだ。

 だがそれがどれほどプレッシャーになっているか、と顔を顰めたところで、ふと気が付いた。

 仕上げを頼むとは、不思議な言い方だ。続きを、ではないのか。

「……そうか」

 私は呟いた。先程までの苛立ちが嘘のように消えていった。

 彼は、私に続きを書けとは言わなかった。仕上げてくれと言った。言葉の綾かもしれない。だが、大事なところで彼は自分の考えにしっくりこない言葉は絶対に選ばない。

 彼は、私が続きを書く事を望んでいるわけではないのだ。

 私の言葉で、考えで、物語を完成させてほしいと願ったのだ。

 この解釈が正しいのか確かめるすべはない。だが私の作品を真っ直ぐに褒めてくれた彼なら、そう考えそうだと思った。

 私は凡人で、天才である彼の思考は分からない。

 だから、彼の言葉に対する私の答えを書くのだ。

 私はパソコンに向かい、キーを叩きだした。

 それを消すことはなかった。


 脚本が完成したと監督に連絡すると、「よくやった!」という大声が耳に刺さった。期限の一日前の事だった。

 そして今日、あのUSBメモリを持って指定されたファミリーレストランへ向かった。そこには監督と、この舞台の演出家がいた。

 USBメモリが無事に私の手から離れた時、体がふっと軽くなった。錘が無くなったような感覚だった。

「ありがとう。本当に助かった」

 何度も感謝の言葉を述べる二人に、私は恐縮した。私は自分の為に書いたのだから。

「そう言えば、どんな話だったんだ?」

 監督が手でUSBメモリを弄びながら言った。

「そうですね……」

 あらすじを説明すると長くなる。

「一言で表すなら、彼らしい、ですかね」

 そう言うと二人が揃って苦い顔をし、私は声を上げて笑った。

 すぐに準備に取り掛からねばならないからと、二人は慌ただしく帰って行った。あんな顔をしていたが、あの劇団は彼の作品を度々使っていた。表現が難しいと言いながらも、彼の作品を愛していた。そんな劇団がこれから先増えていくはずだったのだ。だが、あのUSBメモリに入っている物語で、彼の作品は最後になる。

 私は注文した珈琲を飲み、一つ息を吐いた。

『仕上げを、頼む』

 彼が最期に遺した言葉。まったく、ひどい奴だと私は苦笑した。

 他にもっとあっただろう。

 私の名前を伝える時間で、家族への言葉を遺せただろう。

 だが、これが彼だ。

 物語を書く事を全ての中心に考えてしまうのが、彼だった。

 だからこそ憧れ、嫉妬し、絶望してもなお私は彼の友人であることに執着したのだ。

 人のざわめきが溢れる店内で、私は静かに珈琲をすすった。


 ファミリーレストランを出ると、日光が私の顔を照らした。私は手で影を作り、空を見上げた。思えば、空を見たのは久しぶりだ。彼が死んでから、私はずっと追いつめられていたのだろう。

 お前のせいだぞ。心の中で文句を言った。

 もう、彼に合う事は無い。

 忌々しいあの天才は、私の存在意義を揺るがせた脚本家は、もういないのだ。

 私はそんな彼の存在に絶望し続けていたというのに、全てが終わった今はこんなにも虚無感に襲われている。

 彼の言葉に、思考に、もう二度と触れることが出来ない。

 凝り固まっていたある感情がゆっくりと解けて、視界に広がる青と白が、だんだんとぼやけていった。


 さようなら、私の憧れ。

 私の妬み。

 私の憎しみ。

 私の絶望。

 

 喉の奥がつっかえた。苦しくて、思わず咳き込む。鼻の奥がじんと痛くなり、頬に次々と滴が流れては、地面に落ちていく。

 私は彼が死んでから初めて、涙を流した。多くの人が通り過ぎるなかで一人、人目も憚らずに声を上げて泣いた。


 さようなら、

 ―――私の、親友。


 九月某日。大分涼しくなってきたと思っていたのに、その日はたまたま夏の暑さに戻っていました。建物から出て、ふと空を見上げると入道雲が。

 夏に戻っちゃってるなあ、と思った時に、とある小説の誕生エピソードと頭の中で融合して降ってきた話です。こうして書いてみると、そのエピソードとこの話は似ても似つかないのですが。物語が生まれるきっかけやヒントというのは、ほんの些細な記憶や感情にあるものなのだな、と感じました。

 最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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