第二十一話 涙のコンサート
霜月士郎が語った選別は、まだ全貌が見えていない。何気なく目にする「1:11」「3:33」「11:11」という数字が、どのように人間の中へ残り、誰が器として選ばれていくのか。四宮たちはその違いを探る中で、一つの仮説へ辿り着く。そして、りかの身体に残る呪いを調べるうち、七重叔母との幼い頃の記憶がゆっくりと蘇り始める。
一月一日、午前十一時十八分。
観測室では、霜月士郎が消えたあとも複数のモニターが動き続けていた。四宮は先ほど表示された無数の時刻情報を並べ直し、「1:11」「3:33」「11:11」を見た人間たちの反応を一人ずつ比較していた。
同じ数字を目にしたという点だけなら、該当する人間はあまりにも多い。
一度だけなら偶然で片づけられる。二度、三度と続けば「最近よく見る」と感じるかもしれないが、それでも大半の人間は、その日のうちか翌日には深く意識しなくなる。
四宮は複数の記録を重ねながら、ある違いへ目を留めた。
「面白いですね」
春馬が椅子へ深く座ったまま顔を上げる。
「今度は何」
「同じ時刻を見た人間すべてが、同じように反応を残しているわけではありません。むしろ大半は数時間以内に反応そのものが消えています」
りかが首を傾げる。
「消えるって、何が?」
「記憶です」
四宮は一人の記録を拡大した。
男性会社員。午前三時三十三分に一度目を覚まし、スマートフォンを確認している。潜在意識の反応は確かに上がっていたが、数時間後には通常値へ戻り、その日の夕方に同じ数字について質問しても、本人ははっきり覚えていない。
「じゃあ、見たこと自体を忘れるってこと?」
「正確には、重要な情報として残らないという方が近いでしょう。人間は毎日大量の情報を見ています。時計の数字もその一つですから、意味を持たなければ記憶から薄れていくのは自然です」
四宮は別の記録を開いた。
今度は女性だった。
一時十一分。
三時三十三分。
十一時十一分。
数日間のうちに、同じような数字を何度も目にしている。
それだけではない。
回数が増えるにつれて潜在意識の反応も強くなり、時刻を見るより前から脳波に小さな変化が現れていた。
「こっちは消えてない」
春馬が画面を見ながら呟く。
「ええ。それどころか回数が増えています。一度目より二度目、二度目より三度目。本人が意識するより先に、同じ種類の刺激へ反応するようになっている」
りかは画面を見つめた。
「それが器の資質?」
四宮はすぐには断言しなかった。
「可能性の一つです。ただし、霜月士郎が言う器という言葉と、今観測している現象が完全に同じものかは確認できません。それでも、適応する者としない者で明確な違いが出ているのは事実です」
紫乃がりかの内側から静かに口を挟む。
『資質のない者は触れても残らぬ。資質ある者は触れるほど馴染み、やがて向こうから呼ばれる……そう考えれば筋は通るのう』
春馬は眉を寄せる。
「呼ばれるって、時計見るだけで?」
『時計そのものではない。数字は目印にすぎぬのであろう。最初は人間が偶然に見つけたと思う。じゃが回数が増えれば、今度は身体の方が先に探し始める』
四宮が頷く。
「今のところ、その推測が最もデータと合います。器として適応しない者は、数字を見ても数時間後には意味を失う。適応する者は記憶へ残り、見る回数が増えるほど反応も強くなっていく」
りかは自分の左手を見た。
黒い線が「二」の周囲を囲んだまま残っている。
「私も……そうだったのかな」
春馬が横を見る。
「何が?」
「小さい頃から何か見てたとか。覚えてないだけで」
四宮はすぐに否定も肯定もしなかった。
「あり得ます。特に七ノ火が長期間りかさんへ術を馴染ませていたのなら、記憶の残り方そのものへ影響を与えていた可能性もあります」
その言葉を聞いた瞬間だった。
りかの左手にある黒い線が、ごく弱く脈打った。
今までのような痛みはない。
代わりに、胸の奥へ懐かしい匂いが蘇ってくる。
川の水。
夏草。
少し湿ったコンクリート。
そして、誰かが遠くから自分を呼ぶ声。
りかは無意識に目を閉じた。
「……何か、思い出しそう」
紫乃の気配がすぐ近くへ寄る。
『無理に掴もうとするでない。来るならば来させよ』
その言葉に従い、りかは記憶を追わなかった。
ただ浮かんでくるものを受け入れる。
観測室の音が少しずつ遠くなった。
◇
まだ両親と一緒に暮らしていた頃。
りかは七重叔母の家へ泊まりに来ていた。
季節は夏だった。
昼間の暑さが夕方になっても残り、蝉の声が途切れず響いている。七重の家から少し歩いたところには大きな川があり、その近くの公園は子供たちの遊び場になっていた。
りかは同じ年頃の友達数人と一緒に遊んでいた。
鬼ごっこをしたあと、誰かが将来何になりたいかという話を始めた。
「私はケーキ屋さん!」
「俺サッカー選手!」
そんな声が続く中、りかは少しだけ恥ずかしそうにしながら答えた。
「私……アイドル」
一瞬だけ周囲が静かになった。
すぐに仲のいい女の子が目を輝かせる。
「いいじゃん! りか歌うまいもん!」
りかは照れたように笑った。
「テレビに出て、歌って……みんなを元気にしたい」
その時、少し離れたところから男の子の声が飛んできた。
「じゃあ歌ってよ」
振り返ると、数人の男子が立っていた。
中心にいるのは、いつも誰かをからかっている子だった。
その横には、普段よくいじめられている男の子もいる。
「橋の下なら声響くじゃん。皆集まるから歌ってくれよ」
りかは少し迷った。
「みんな来るの?」
「来る来る。俺ら呼んでくるから」
笑いながらそう言われ、りかは本気にした。
仲のいい友達も横で少し困った顔をしていたが、その場では何も言わなかった。
「じゃあ……行ってみようかな」
りかがそう答えると、男子たちは楽しそうに走っていった。
しかし本当の目的は違っていた。
いじめられていた男の子を一人だけ橋の下へ行かせ、りかと二人きりにして遠くから笑うつもりだった。
ところが、その男の子も途中で怖くなった。
自分がまたからかわれると思い、橋の手前で足を止める。
りかの仲のいい友達も、事情を知った。
「りかのところ行こうよ」
そう言いかけたものの、近くにいる男子たちを見て動けなかった。
自分までいじめられるかもしれない。
それが怖かった。
誰も橋の下へ行かなかった。
◇
りかは一人で待っていた。
川沿いの大きな橋。
コンクリートの柱が並び、車が通るたび頭上から低い振動が落ちてくる。
夕方の光は川面へ反射しているのに、橋の下だけは少し暗かった。
「……遅いな」
何度も入口を見る。
誰も来ない。
それでも、せっかく来たのだからと思った。
歌うと言った。
だったら歌おう。
りかは小さく息を吸った。
そして、かすかな声で歌い始めた。
最初は自分にしか聞こえないほど小さかった。
恥ずかしい。
誰もいない。
でも、もし今から誰か来たら途中でやめる方がもっと恥ずかしい。
そう思いながら続けるうちに、少しずつ声が大きくなった。
橋の下では声がよく響いた。
一人なのに、何人かで歌っているように聞こえる。
りかはその響きが少し嬉しくなり、もう一度大きく息を吸った。
その頃。
買い物帰りの七重が、橋の近くを歩いていた。
聞き覚えのある歌が聞こえた。
それだけなら通り過ぎたかもしれない。
しかし声まで知っていた。
「……りか?」
七重は足を止めた。
川沿いへ少し近づく。
橋の柱の陰から覗くと、一人で立って歌っているりかが見えた。
誰も観客はいない。
七重は声をかけようとして、やめた。
りかが一生懸命歌っている。
だから少しだけ、そのまま見守ることにした。
その直後。
川の向こう側から笑い声が聞こえた。
数人の男子が姿を現す。
橋を挟んだ反対側。
近づいては来ない。
遠くからりかを指差している。
「おーい!」
りかが歌を止めた。
顔を上げる。
男子の一人が両手を口元へ当てて叫ぶ。
「誰も来ねーよー!」
笑い声が響く。
「一人で歌ってんの!」
「マジで信じてた!」
「ハハハハハ!」
りかの顔から、少しずつ表情が消えていった。
さっきまで楽しそうに響いていた自分の声が、急に恥ずかしいものへ変わった気がした。
遠くにいる仲のいい友達の姿も見えた。
目が合った。
けれど友達は動かなかった。
りかはうつむいた。
歌が止まった。
握っていた手が震える。
帰ろう。
そう思った瞬間だった。
「りかちゃーーん!」
誰よりも大きな声が響いた。
りかが顔を上げる。
橋の柱の横から七重が出てきた。
両手には買い物袋を持っている。
その袋を地面へ置くと、七重は思い切り手を叩いた。
「頑張れーー!」
りかは目を見開いた。
七重は止まらない。
「り、か、ちゃん! り、か、ちゃん!」
パン、パン、と大きな拍手が橋の下へ響く。
「り、か、ちゃん! り、か、ちゃん!」
川の向こう側から、また笑い声が上がる。
「何あれ!」
「叔母さんまで来た!」
「恥ずかしー!」
誰が見ても恥ずかしくなるほど大きな声だった。
七重自身も分かっていた。
大人が一人で名前を連呼し、子供の歌へ大声援を送っている。
普通なら恥ずかしい。
それでも七重はやめなかった。
「りかちゃーん! 歌ってー!」
りかの目から涙が溢れた。
悔しい。
恥ずかしい。
悲しい。
でも、それ以上に七重がそこにいることが嬉しかった。
りかは鼻をすすった。
小さく息を吸う。
もう一度歌い始めた。
最初は震えていた。
声も途中で掠れた。
それでも歌う。
七重は大きく手を叩く。
「頑張れーー!」
りかの声が少しずつ戻る。
涙を流しながら歌う。
川の向こう側の笑い声が、だんだん耳に入らなくなる。
歌っているうちに、りかの視界には七重しかいなくなった。
七重も途中から泣いていた。
それでも笑いながら拍手を続ける。
「最高ー!」
りかは泣きながら笑った。
誰も集まらなかった。
ステージもない。
照明もない。
マイクもない。
観客は一人だけ。
それでも、その日のりかにとっては十分だった。
歌い終わる。
最後の声が橋の下へ長く響いた。
七重が誰よりも大きく拍手する。
「すごい! りかちゃん最高!」
りかは泣きながら走った。
七重へ抱きつく。
七重はその身体をしっかり抱きしめた。
「よく歌ったね」
「……恥ずかしかった」
「うん」
「みんな笑ってた」
「うん」
「でも……歌えた」
七重はりかの頭を撫でた。
「それでいいよ」
「私、アイドルなれるかな」
七重は少しだけ身体を離し、涙の跡が残るりかの顔を見る。
「なれるかどうかは、叔母さんには分からない」
りかが少し寂しそうな顔をする。
七重は笑った。
「でも、今日のりかちゃんの歌は、一生忘れない」
りかの目が丸くなる。
「本当?」
「本当。叔母さんの人生で一番すごいコンサートだった」
「一人しかいなかったのに?」
「だからいいの」
七重は笑いながら、もう一度りかを抱きしめた。
「あれは、りかちゃんと叔母さんだけのコンサートだから」
夕方の光が川面へ落ちる。
橋の下には、もう笑い声は残っていなかった。
りかと七重だけがいた。
人生で一度きりの、小さなコンサートだった。
◇
観測室。
りかがゆっくり目を開いた。
頬が濡れていた。
いつの間にか涙が流れている。
春馬は少し離れた場所から見ていたが、何も聞かなかった。
四宮も観測を止めている。
紫乃だけが、りかの中で静かに寄り添っていた。
「……思い出した」
りかは涙を拭かなかった。
「七重叔母さんのこと」
左手を見る。
黒い呪いはまだ残っている。
七ノ火が長い年月をかけ、自分のそばにいた。
何が七重本人で、どこから七ノ火だったのか。
それはまだ分からない。
でも今思い出した橋の下の七重だけは、りかの中で偽物には思えなかった。
「紫乃」
『なんじゃ』
「私、忘れてた」
『うむ』
「さっきまで、叔母さんとの思い出って、全部七ノ火だったのかもって思ってた。でも……違うよね」
紫乃はすぐには答えなかった。
やがて静かな声が返る。
『妾には確認できぬ。じゃが、その記憶を見たお主自身が、誰のものだったか一番分かっておるのではないか』
りかは目を閉じた。
七重の拍手。
七重の声。
泣きながら笑っていた顔。
忘れていたはずなのに、思い出した瞬間だけは驚くほど鮮明だった。
「……叔母さんだよ」
りかは小さく笑った。
「これは絶対、七重叔母さん」
春馬はそこで初めて口を開いた。
「じゃあ忘れんなよ」
りかが横を見る。
春馬は照れたように視線をモニターへ向けたままだった。
「器とか呪いとか、俺にはまだよく分かんねえけどさ。消えない記憶があるなら、それまで全部あいつらの好きにされてたわけじゃないだろ」
りかはしばらく春馬を見つめた。
そして小さく頷く。
「うん」
四宮が観測を再開した。
モニターには先ほどの人間たちの反応が残っている。
資質のない者は数時間で忘れる。
資質のある者は繰り返し数字を見て、そのたびに同調が深まっていく。
それが選別の入口なのだとすれば、記憶に残るということ自体が一つの分岐なのかもしれない。
四宮はデータを見つめながら呟いた。
「忘れる者と、忘れない者……」
春馬が顔を向ける。
「何か分かった?」
「いいえ。ただ、一つ気になることがあります」
四宮はりかを見る。
「霜月士郎たちは、適応する人間の記憶を強く残そうとしているように見えます。だとすれば逆に、消したい記憶もあるのではないでしょうか」
りかの表情が変わった。
橋の下の七重。
長い間、忘れていた記憶。
それが単なる幼い頃の忘却なのか。
あるいは――誰かに消されかけていたものなのか。
りかの左手の黒い線が、僅かに脈打った。
そしてその瞬間、モニターの隅に一つだけ新しい時刻が表示された。
午後一時十一分。
まだ、その時刻にはなっていない。
四宮の指が止まった。
未来の時刻だった。
春馬が画面を見つめる。
「……次ってことか?」
誰も答えられなかった。
ただ、りかの耳にはまだ、遠い夏の日の拍手が残っていた。
――第二十一話完ーー
選別に適応しない者はゾロ目の時刻を見ても数時間で意味を失い、適応する者は記憶へ残るほど回数が増え、無意識の同調を深めていく可能性が浮かびました。一方、りかは幼い頃に七重叔母から受け取った大切な記憶を取り戻します。七ノ火に奪われた時間の中にも、確かに七重本人が残したものがありました。




