第8話 聖地の巡礼者
瘴気の壁を浄化したわたしたちは、地下三階層へ上がった。
流れ込んできた記憶のおかげで、地上までの道のりは思い出せたけれど、誰かに教えられた知識みたいで、まだ自分自身の記憶とは思えなかった。
「ヨルカ様、お下がりくだされ。吾輩の後ろへ」
ガルドルフは、残った片腕で剣を構えた。
その背中に身を隠してそっとのぞくと、踊り場の中央には、瘴気に包まれた黒い人影が立っていた。
あれは、瘴気にのまれた人の成れの果てだ。
自我を失い、魂まで縛られ、ただ凶暴にさまよい続けるなんて悲しすぎる。
ガルドルフとエリナも、瘴気に侵食されたらと思うと、考えただけでもぞっとした。
どう見ても、通してくれる気はなさそうだ。
「お気をつけくださいませ。あの様子では、こちらの声はもう届かないでしょう」
「おそらくは、見境なく襲いかかってきますぞ」
わたしがうなずいて体に神聖力を巡らせると、ガルドルフもそれを合図にしたように一歩踏み込んだ。
いや、ちょっと待って、何かがおかしい。
さっき破邪の黄金を使ったとき、黄金の光はこの地下三階層を越えて、地下大神殿のもっと上まで届いていた。
それなら、あの黒い人影がまだ瘴気に包まれているのは変じゃない?
「何者かは知らぬが、浄化させてもらいますぞ!」
「ガルドルフ、待って! 何か変だよ!」
わたしの制止は、ほんの少し遅かった。
ガルドルフが身を低くして地を蹴った瞬間、黒い人影がびくりと身を震わせた。
「うわぁっ!? な、なんですか! 誰なんですかぁっ!」
しゃべった! なんでぇ!?
ガルドルフは黒い人影に刃が届く寸前で剣を止め、すぐさま後ろへ跳んで間合いを取った。
そんな馬鹿な、こんな瘴気の塊になってなお生きていること自体ありえないのに、言葉まで話せるなんて!
「これほどの瘴気をまといながら、自我を失っておらぬとは! 何者だ、名乗られよ!」
「わ、私ですか!? 我が名は拘泥のラーガ! かつて魔王様にお仕えしていた、元魔王軍幹部の一人でありますぅぅ!」
瘴気に包まれて顔立ちまではわからないけれど、声は若い女の人のものだった。
あれだけ勢いよく名乗り始めたくせに、途中で息が足りなくなったのか、最後のほうはすっかり小声になっていた。
「あ、あなたたちこそ何者なんですかっ! さっき、馬鹿みたいに強い神聖な気配がしましたけど! 私、危うく浄化されるところだったんですけど! も、もしかして、あなたたちの仕業ですかぁっ!?」
信じられない。あれほど濃い瘴気に包まれながら自我を保ち、こちらの言葉までちゃんと通じている。
魔王軍というものはよくわからないけど、この人がガルドルフの腕を奪った瘴気の元凶だとしたら、わたし、ちょっと許せそうにない。
怒りに引っ張られるように、体の奥から神聖力があふれ出すと、わたしの肩にエリナの手がそっと置かれた。
「ヨルカ様、どうか落ち着いてくださいませ」
そうだね。わたし、少し頭に血がのぼりかけていた。
エリナの微笑みにうなずき、ゆっくり息を整えていると、エリナが静かに前へ出た。
「失礼を承知でお尋ねいたします。魔王というものを、わたくしどもは存じないのですが」
「えっ、まさか。魔王様を知らないんですかぁ!?」
「それから、ここは六合星教会の地下大神殿でございます。こちらから見れば、不法侵入者はむしろあなたのほうなのですが」
エリナは聖典を抱えたまま、にこりと笑った。
エリナ、ちょっとこわい。
「ふわぁっ、ご、ごめんなさいっ! で、でも、あなたたちこそ何なんですか! ここは聖地の遺跡なんですよ!? 地下から出てくるなんて、そっちのほうが変ですぅっ!」
うん。それはたしかに、そうかもしれない。
そう納得しかけたそのとき、瘴気の塊の中からエリナを見ていたラーガが、ぴたりと動きを止めた。
「そっ、その抱えているものは!?」
次の瞬間、ラーガのまわりの瘴気が一気に膨れ上がった。
ガルドルフは即座に剣を構え直す。
「何事だ!?」
「ご、ごめんなさいぃ! ち、違うんです! 感情が高ぶると、勝手に瘴気が漏れちゃうんです! お、落ち着いて私。ふぅ、ふぅ」
まさか、瘴気を抑え込んでいるの?
黒い瘴気がゆっくり内側へ収まり始め、その霧の隙間から細い金色の光がこぼれた。
ありえない。あれは、神聖力の光だ。
瘴気と神聖力は、触れ合えば互いに打ち消し合う。だから、同じ体の中にあるはずがないのに。
ラーガを覆っていた瘴気が少しずつ内側へ縮み、薄れた黒い霧の向こうから、若い女の人の姿が現れた。
頭には2本の角が生え、背中には黒い翼が小さくたたまれ、暗い色のローブからのぞく肌は白く、こちらを見つめる目だけがひどくおびえていた。
「ええとぉ、たしかこのへんに入れていたはず……」
ラーガは肩にかけていた鞄の中を、あわてて探り始めた。
わたしとエリナは顔を見合わせ、ガルドルフは剣を構えたまま警戒を解けずにいた。
「あ、あった、ありましたぁ!」
わたしは一瞬身構えたけれど、ラーガが鞄から取り出したのは、1冊の本だった。
それを両手で持ち、これですと言いたげに表紙をこちらへ向けてきた。
「そ、それは、もしや……いえ、まさか」
エリナは胸に抱えていた聖典を両手で持ち直すと、ラーガに見せるように表紙を向けた。
「あぁ、やはり! やはりそうですぅ! それは『聖ヨルカの書』ですねぇ!」
ええっ、わたしの聖典!?
ラーガは黒い翼を嬉しそうにぱたぱたさせながら、その場でぴょこぴょこ跳ねている。さっきまで瘴気を渦巻かせていた人とは、とても思えない。
「やっぱりぃ! やっぱりですぅ! あなたが、ヨルカ様だったのですねっ!」
そのままエリナのもとへ駆け寄り、両手をぎゅっと握って飛び跳ねた。
握られたままのエリナは、どうしましょうと言いたげな笑顔をわたしへ向けてきた。
これ、完全に勘違いしてるね。
「あぁ、ヨルカ様! ずっとお会いしたかったのです! ヨルカ様を信仰して、はや150年! 聖女様ゆかりの地を巡礼しながら、ずっとこの聖地を探し続けていたのです! やはり、やはりここで間違いなかったのですねっ!」
「ラーガ様、どうか落ち着いてくださいませ……」
「はい、ヨルカ様! あぁ、この名を呼んでいただける日が来るなんて! 感無量ですぅ!」
エリナの口元が、ひくりと引きつっていた。
握られた手をそっと引き抜こうとしているのに、ラーガの力が強すぎるのか、ぜんぜん抜けない。感動の握手というより、もう引っぱり合いになっていた。
「あの、ラーガ様。わたくしはエリナと申しまして」
「はいっ、ヨルカ様!」
「その聖典を記した者ではあるのですが……」
「はい、ヨルカ様。え? はい?」
ラーガはエリナの手を握ったまま、ぴたりと固まった。
「こちらにいらっしゃる方が、ヨルカ様でございます」
エリナがわたしを見ると、つられるようにラーガもこちらを向いた。
しばらく無言で向かい合ったあと、ラーガの視線が、わたしとエリナのあいだを二度、三度と往復し始める。
「で、ですが、ヨルカ様は慈愛に満ち、清らかで、凛として美しく、しかも花のように可憐で、どう見ても、あなた様は聖典に記されたヨルカ様そのものなのですが……」
ラーガはエリナの両手を握りしめ、その顔をまっすぐ見つめ、口説き文句みたいな賛辞を次々に浴びせている。エリナの白い頬は、みるみる赤くなっていった。
「こ、こほん。ですから、こちらにいらっしゃる方が、そのヨルカ様でございます」
「も、申し訳ありません、ヨルカ様ぁ! 私ったら、なんという失礼を!」
我に返ったように深々と頭を下げたけれど、その相手はやっぱりエリナだった。
ガルドルフの腕を奪ったのはラーガの瘴気だと思っていたけれど、どうやらそう単純な話ではないらしい。
それに、エリナとラーガは聖典を見せ合いっこして、なんだか楽しそうにしている。
少なくとも、今すぐ敵対する必要はなさそうだ。
「ラーガ殿、まずは落ち着かれよ。我々は今、地上へ向かう途中でしてな」
「一緒に来ない? 地上からここまで来たなら、ラーガに聞きたいことがたくさんあるんだよね」
「は、はい! こちらの方がヨルカ様だったのですね! あぁ、よくよく拝見すれば、なんと可愛らしいお姿なのでしょう!」
よくよく見るとって何よ! さっき思いっきり間違えてたの、わたし、ずっと忘れないからね!




