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痛覚を失っているので痛みはない。痛みがないことで死への恐怖もマヒしている……。このまま、まぶたを閉じればもう目覚めることなく死ぬだろう。そんな予感を感じながら俺はゆっくりと、まぶたを閉じた。その時だった。
肩をゆすられ、白いモヤがかかった視界が揺れる。何事かと重いまぶたを上げれば、顔はよく分からないが、髪の長い……。女らしき人物が俺の顔をのぞき込んで何やら話しかけている。
「――――」
「悪いが、話しかけられても、もう聞こえないんだ……」
「――――」
「タチの悪い呪いにかかってな……。耳はぜんぜん聞こえないし、目もほとんど見えなくなってしまった」
「――――」
「もう歩く力もない……。俺は、もう間もなく死ぬだろう」
「――――」
「死んだら、遺体はどこへなりとも、うち捨ててくれ……」
女が何を言っているのかはサッパリ分からないが、こちらの事情は話した。さぁ、死なせてくれと、まぶたを閉じようとした瞬間、女は俺の片腕を自分の肩に回し、驚く俺を引きずるように店内に入れた。
「――――」
「店頭で死なれたら困るというわけか?」
確かに客商売をやっているなら店先で、どこの誰とも分からない、行き倒れの男が死んでいるなんて衆目が悪いだろう……。だが店内で死なれるのは、もっと気分が悪い物ではなかろうか?
薄れゆく意識の中で困惑していると女は一度、俺のそばを離れてから、手に何かを持って再び、俺のそばに近寄り、俺の口元で何かを傾けた。
どうやら水らしいと認識した俺は、女にうながされるまま、少しずつそれを飲んだ。すると、驚いたことに今まで白いモヤがかかって、おぼろげだった視界がしだいに鮮明になっていく。
目の前には絹のような長髪の少女がいて、宝石のような美しい瞳をかげらせながら心配そうな表情をしているのがハッキリと見えた。
「これは一体……」
「大丈夫ですか? 無理をしないで、ゆっくり飲んで下さい」
「聞こえる!」
「え? 耳が聞こえるようになったんですか?」
大きな瞳を丸くして驚いた様子の少女に、自分でも信じられない思いでうなずく。
「ああ、信じられない……。目もちゃんと見えるようになった……!」
「まぁ! 良かったですね」
俺の言葉に表情をほころばせた少女が、嬉しそうに目を細める。
「君が何かしたんじゃないのか?」
「私は何も……。ただ水を、あなたに飲ませただけです」
「信じられない……」
今の今まで、視力が失われかけていたのに少女が持ってきた水を飲んだだけで、視界が鮮明になったのは間違いないのだが、少女も嘘を言ってる様子はなく若干、戸惑い気味だ。