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束の間の

 ドアノブを回すと、カーテンの引かれた部屋にすっと一筋、光が入る。

 ち、ち、ち・・・と規則正しく時を刻む音と、かすかに聞こえる深い寝息。深い海の底にも似た部屋は息をする事もためらうくらいに、扉を閉めるとそれはますます濃くなって、起こさないように慎重に主の元へ距離を縮める。

 そっと、顔がよく見える位置に腰掛けると、重みに耐えかねたベッドが講義をするように悲鳴をあげて、それまで気持ち良さそうにしていた顔がにわかに曇る。思わず、伸ばしかけていた手が止まってしまうが再び、規律正しい寝息が戻るとほっとしたように、頬に触れる。

 さらさらと長い髪に護られた顔が作り物のように白く見えるのは、この部屋が未だ夜の続きを夢見ているからだろうか。じっと、飽きもせずに見つめている。じっと・・・

ようやく、言葉を見つけ出したのか口が動いて喉が準備を整えたその時。


じりりりりり・・・


けたたましい音に眉をひそめて頭の上を探る。が、その音はみね子が探り当てるよりも早くに収まり、代わりに柔らかくて少し暖かい感触・・・?

「お、おはよう、みね子。いい朝だね」

「な・・・何であなた!」

「こ、これはその・・・そう!ボクも目覚まし時計を止めようと思って。全く奇遇だよね、あはは」

さっと手を引っ込めて取り繕うように笑っているが口元が引きつっている悠。みね子はこれ以上ないくらいの予想外の出来事に目は嫌と言うほど覚めたけれど、せめてもの恨みを込めて睨んでやる。

「全く、あなたって人は!何だって今日はまた、こんな起こし方なのよ」

「え、やだな、まだ寝ぼけてるね。今朝早くからからおじ様おば様は旅行で居ない、ちゃんとお見送りしたらチャンス到来でしょう」

うふふ、と手を組んでシナを作ると妙に可愛く見えて、そう言えばそんな事も言っていたような。

「それとも、刺激を与えれば思い出すかな」

何処から出るのか、艶っぽい色をたたえて頬に触れる。息が掛かるほどに顔を近付けて、みね子にはその目が落ち込んでいるように見えて。

「何か、無理してない?」

「え、そんな事無いよ・・・」

言葉とは裏腹にしょぼんとうつむいてしまう。やっぱり、純の持っていた写真の事はまだ触れない方がいいだろうか、それとも他に、何か悲しい事があったのか。

・・・・・

チン、と間の抜けた音が聞こえると悠はは猫のように飛び跳ねて、そちらに目を向けるが、ぎこちない作り笑いも、みね子には逃げているように思えてならない。

「と、トーストが焼けたみたい。今日はボクのお手製だから早く降りてきてね」

睨むような視線で察したのか、転げ落ちる勢いで階段を下りる音を遠くで聞いている。

本当は、聞きたい事があったのに。あんな顔をされては敵わないじゃないか。いつもあと一歩の所でためらってしまう、本当は写真の事だってその日のうちに聞いてしまおうと思っていたのに。悠の方からは話してはくれないだろうか、いつもはぐらかされて、逃げられて・・・いつまでこれが続くのだろう?

もう一度、開けっ放しの扉の向こうを睨んであっかんべーと舌を突き出すが、ふわりと漂ってくる美味しそうなコンソメの匂いに正直なお腹はグゥと鳴いて、みね子は早いところ着替えてしまおうと扉を閉めた。

「凄い!悠ったらいつの間にこんな芸当覚えたの」

階下に降りると更にお腹を刺激するいい匂い。さっきまでの苛立ちも何処へやら、思わすよだれが垂れそうになるのを、理性で持って何とか押さえていると悠の呆れ顔。

「芸当、じゃなくて料理、なんだけど。これくらい普通でしょ、みね子が出来なさ過ぎるの。」

そりゃぁ、ちょっとは出来ないかもしれないけど・・・そこまで言うこと無いじゃない?そうは思ったものの鮮やかな手つきの悠を見ていると返す言葉も無い。大したものだ、熱々のオムレツを盛り付けると、彩りよく野菜を付け合せる。エプロンは何故かフリフリの純白でそれがまた妙に似合っているものだから思わず見惚れて、よし、とお皿をテーブルに運ぼうとする悠と目が合って、急いで逸らしてしまう。

「うふふ、惚れたね。お婿に貰ってくれる?」

「馬鹿言ってないの」

シナを作って色目を使う。真っ赤になった顔を見られないように、冷蔵庫の陰に隠れる。冷気でもあびれば少しは落ち着くだろう、みね子は夕べのうちに冷やしておいた紅茶をグラスに注ぎ分けて腰を下ろす。悠も、すっかり洗い物を片付けて、手際がいいことだ。

「それにしても、その格好・・・」

「似合うでしょう」

「誰か来たら誤解されるわよ」

「日曜日だよ、誰も来ないって」

大丈夫、大丈夫と、トーストにかじりついているが、みね子の不安は拭いきれない。日曜日だって宅急便は届くし、セールスも来る。トラックが突っ込んでこないとも限らないし、日曜日にこそ危険は多い。

そんな時に何て説明すると言うのだ?休日の居候はこんな風に女装を楽しんでいます?そんなうわさが立った日には外も歩けない。悠はへらへらと悪びれるでもない、と言うか恥ずかしがる素振りも無い。せめてみね子が気をつけて居なければ。例えばそう、こんな風に呼び鈴が鳴って悠が玄関に向かいでもしたら・・・

がちゃりと玄関の鍵を開ける音が聞こえて、立ち上がるがもう遅い。あまりの絶望に力が抜けてすとんと腰が抜ける。が、そんな事をしている暇は無い。なえる体を奮い立たせ、玄関へ急ぐ!

そこにはやっぱり!へらへらと愛想笑いがちょっぴり可愛い悠と、目と口を真ん丸くしている隣のおばちゃんは胸の前にバインダーを抱えている。

「辰村さんの、お宅よね」

「回覧板ですね、ご苦労さまです!」

胸に抱えたそれを引ったくり、ばんっと、勢いをつけて閉め出して鍵を掛ける。ぜえぜえと息を整えようとするが、扉の向こうから『みね子ちゃんの彼氏が女装をして云々』などと漏れていては集中する事も出来ない。悠はというと目を白黒させて突っ立ったままなのだから、みね子はその頂点に狙いを定めて力任せに叩き落とす。

「痛い!・・・ボクが何したって言うのさ」

「優等生で通ってるのに!どう責任取ってくれるのよ」

「そうだよね・・・わかった。みね子がそこまで言うのなら、責任とってお嫁に貰うよ」

悠はいつに無く真剣な顔。だから余計に、激昂していた表情がすっと消える。うつむいて顔色もうかがえない・・・瞬間、胸倉に手をかけて見上げる顔は般若のごとく。

「な~に~が!大丈夫なのよ、やっぱり脱ぎなさい」

「ちょ、落ち着いて。まだ日も高いし、こういうことは夜・・・」

「この期に及んでまだ軽口を叩くか」

「ご、ごめんなさいぃ・・・」

みね子の背中に燃え盛る紅蓮の炎に恐れをなして、風船のように小さくしぼんでしまう。しおしおと胸の前で手を組み替えては、うかがうように上目遣い。そんな顔をされると途端にさめてしまう、一人でから回っているような、馬鹿らしい。みね子は乱暴に放すと、悠はなおも潤んだ瞳をよこしてくる。

「ごめんね、みね子はこういうの好きかなって思ったんだけど。もう迂闊な事はしないよ、お片づけが終わるまで。そうしたらちゃんと脱ぐから、ね?」

好きかなって・・・どういう趣味だと思っているのだ?

悔しいけれど。誰も断れないお願いポーズは健在らしい、みね子は精一杯こらえていたが、がっくりとうな垂れる。

悠は、ずるい。手に入らない物も、思い通りにならない事も何もないくせに、いつもそれ以上の物を欲しがっている。みね子も含めて周りはみんな腑抜けだから、無理とわかっていても断れないし、負けるとわかっていても命を懸ける。それでも悠の心は引けない、すべては悠の気の向くままに愛を振りまいているのだから。

現に今も、

「仕様がないわね。その代わり、二度目はないわよ」

「あはは、脅さないでよぉ」

何気に釘を刺しておいたことが効いたのか引きつった笑いを浮かべながら、取り繕うようにサラダに手を戻すが、ふと思い出したようにみね子の顔を覗く。

「でもみね子、休みの日なのに目覚ましかけて、どういう風の吹き回しなの」

「なに、藪から棒に。どうもこうも、出掛ける用事があるからよ、待ち合わせに遅れちゃまずいでしょう」

え・・・と口に入れかけたレタスを落としたことにも気付かないで固まってしまう。みね子はトーストをすっかり口に入れてスープに手を掛ける時にようやく気付いたのだが、目の前で手を振って見せても反応が薄い。

「どうしたの、何かわたしに用事でもあったの・・・って!もうこんな時間じゃない」

みね子の昨日の計算では当然、漫才を繰り広げている時間は取っていない。予定ではとっくに、出かける準備をしていなければいけない時間だと言うのに。

こうしちゃいられない、と残りのサラダを口いっぱいに放り込み、スープを一口で流し入れて、あっけに取られているのか何か考え込んでいるのか、悠の事などお構いなしにどたばたと埃を舞い上げて走り回る。

「ね・・・ねぇ、みね子それって」

「空にさそわれたのよ、映画でも見に行こうって・・・お詫びもあるし」

悠は目に見えてうな垂れるが、洗面所で格闘しているみね子は気付きもしない。

「デート、に行っちゃうんだ」

「やだ、そんなんじゃないわよぉ」

照れたように頬を染めて、悠の目の前を猛スピードで階段を駆け上がり自室へ向かう。

「せっかく朝ごはん、一緒に食べようと思ったのに。味わってもくれないし・・・」

「あ!悠、玄関、誰か来たみたい。きっと空だわ、ちょっと待っててもらって」

迂闊な事はするなって、言ったくせに。

悠はのろのろと、今度はちゃんとエプロンを外して玄関を開けると。

目の前に現れたのは一面の花畑。大輪の花々が色鮮やかなコントラストを、甘い香りがふわりと鼻に心地いい。だが、それもすぐに脇に避けられて現れたのは、みね子の思ったとおり。

「あれ、間違えた」

空は悠と目を合わせた。

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