肆
どこかしら心の中にあった安心感は、水に投げ込んだ角砂糖のように溶けていった。
宗助も詳しくは聞いてないと言ってたから、当然俺が知る由もなく今さっき聞いた話は寝耳に水で、理解するのもやっとだが理解した瞬間に訪れたのは焦燥感。
退院すればあとは時間が問題を解決してくれるかなとか思ってたけどそんな甘い考えなど現実は受け付けてくれないようだ。
「心が先に消えちゃえば肉体はどうなるのやら。あいつは治療できなくても、心が先に消えた場合の肉体が受ける影響も興味があるんだからたちが悪いのよね」
結果がどうであれ清次さんには何らかの利益があるってわけか。
「……だから急がないと」
「……ん? 急がないと?」
「え? あ、いや、その……」
今急がないとって言ったよな?
絶対に言ったよな?
深く考えずとも姫子が何を急ぐのかを予測するのは実に簡単だ。
「もしかして病院から脱走させる計画を密かに立ててるのかな?」
「そ、そんなこたあねーっすよ」
目が泳いでるんだけど。
それも運動神経抜群の奴が反復横飛びしてるくらいの勢いだ、泳ぎすぎである。
まったくさ、嘘を付くのが下手な奴だよ君は。
姫子はアヒル口になって視線を天井の角へ飛ばして、
「そーいやあたし今忙しいんだわー、マジ忙しいわー、すっげえ忙しいんだわー」
とか言い出して、
「という事で部屋に戻ります」
張りのある声、そして何故か敬語。
「絶対に部屋に入らないでくだせえ。掃除はしばらく必要御座いません、そこんとこよろしくおねがいしゃーっす。別に部屋には特に何もないわよ? あははっ」
下手な作り笑いだこと。
そそくさと腰を上げてこの状況を脱出して有耶無耶にする気でいたので俺は逃さずに捕獲。
「何を隠してるんですかねえ?」
「何も隠しておりませぬー、ほんとですよー、本気と書いてマジですよー」
だったら目を合わせてくれないかな、どうしてさっきから何も無い天井の角を凝視してるんだ君は。
「ああ、そうだ。最近君の部屋掃除してなかったなあ。今日やっちゃっていいかな? いいよな? いいよね? 駄目とは言わせないし言わせるつもりも無いけど」
「ちょ、ちょっと待って!」
「解った、待つよ……よし、四秒待った。はい行くよー」
俺の腕や服をを引っ張って妨害してくるも所詮女の力、この程度で俺は止まらない。
ついた勢いを衰えさせずそのまま俺は姫子の部屋の前にたどり着き、扉を開けて中へ。
「……なんじゃこりゃあ」
と、口を終始開けたまま俺はそんな台詞を阿呆っぽく言った。
予想よりも酷い散らかりようだ、何が掃除はしばらく必要御座いませんだこの野郎。
足の踏み場などありゃあしない、俺の部屋から持ち出したであろう漫画本、食べ終えたスナック菓子の空き袋、日替わりで着てるジャージは洗濯機へ入れるのを忘れていたのか、無残にもしわしわになって床に放置されていた。
前回掃除したのはいつだったかな、何週間っていう単位ではない気がする。
五日、いや六日前ほどかも。
たったそれしか日にちは経過していないのに世紀末でも迎えてしまったかのような荒れ様。
しかもカーテンは閉めたままで部屋は薄暗く、後押しするかのように重苦しい雰囲気が室内に居座っていた。
部屋がこれほどまでに荒れているにも関わらず、ここまで放置するには何か理由があったから……と、考えるべきかな。
「入ったら殺すから!」
「どうか命だけは勘弁してくださいお願いします」
俺はそう言って何のためらいもなく部屋に入る。
「おいごるぁ!」
足元に注意して歩かなければ何か踏んづけてしまいそうだ。
「入るなって言ってるでしょ!」
聞かなかった事にしよう。
中央には布団が敷かれており、枕元にはノートパソコン。
寝転がりながらパソコンをやってる姫子の姿が目に浮かぶね。
「まあまあ、晩御飯は君の好きなもの用意するから」
「くっ……そんなのに釣られないクマー」
ならどうしてあれほど抵抗して俺の手を掴んでたのに途端に手を離したんだい?
それはいいとして姫子が部屋に何かを隠しており、奏が関わるものとなれば……なんて考えても何も思い浮かばず、とりあえず怪しそうなものをと室内を一瞥。
ついでに姫子の様子も窺ってみる。
俺が右側へ移動しても今のところ反応無し。
使ってないクローゼット、最初に何かを隠すならここが怪しいと思ったが無反応なのは調べられても問題ないからかも。
次に左側へと移動するや姫子の腕が一瞬、ほんの一瞬だったがぴくりと動いた。
唇を軽く噛んで、それだけで動揺していると判断するには十分だ。
以前と比べて部屋の変化といっても大きな変化は特に無い、俺の視線の先にある壁に置いてある黒いゴミ袋以外は。
うちで使ってるゴミ袋は青い奴だ、黒いゴミ袋は使わない。
それにゴミ袋は常に切らさないよう補充してるので姫子がゴミ袋を必要としたのならうちのを使えばいい、それなのにあえて黒いゴミ袋を購入若しくはどこかで手に入れたのは妙だ。
俺が黒いゴミ袋へと近づくや姫子は慌てて俺の前へ立ちはだかる。
「……何?」
「いや、別に」
下手な口笛がちょっとむかつく。
「どいてくれないかな?」
「え? 何?」
聞こえてただろ馬鹿野郎。
しかも何か物を動かす音ががさがさ五月蝿いなと思ったらこいつ、足でゴミ袋を移動させてやがる。
すぐさま俺は姫子の頭にでこピンを一撃。
「いでっ! 何しやがるごるあ!」
「なら下手な動きを見せるな、って痛いっ」
反撃にローキックは如何に。
ゴミ袋から足が離れたのでその隙を見逃さず俺はゴミ袋を確保。
「返せ!」
「離せ!」
お互いゴミ袋を掴んで引っ張り合うが、ゴミ袋の耐久性はたかが知れている。
一瞬で破けて中身が飛び出し宙を舞い、その時点で把握したのはスニーカー一足と地図、それに金槌。
捕捉できなかったものは床に落ちてから確認。
頑丈そうな縄、スタンガン、双眼鏡、ちょいと物騒な物が出てきたな。
「これさ、何?」
「……空から降ってきたのを拾い集めた」
「不思議だね」
あえて言葉数は少なくした、それが彼女へ向ける効果的な威圧だと判断したからだ。
「不思――」
「不思議だね」
食い込み気味に言葉を重ねてさらに威圧を、そりゃあもう菓子折り持って挨拶するかのような親切さでお伝えしたつもりだ。
沈黙は五分ほど続いた。
姫子は引きつった表情で両手の人差し指を合わせてずっともじもじってやつ。
俺は彼女が口を開くまでこちらからは口を開くつもりはないという姿勢でいたが、姫子は依然口を開かず様子見してるや彼女の額から冷や汗が頬へ滴っていた。
「正直に言ったら怒らない?」
「さあね、内容次第」
多分、怒ると思う。
姫子は観念したかのように深い溜め息をつき、おどおどとしながら俺の目を二、三回見るや、もう一度溜め息をついてから口を開いた。
「えっと、奏をね? 病院から脱走させて思い出の場所に行こうとしたのよね、どう? この準備、完璧じゃない? いつでもブーンできるお」
「自慢すんな」
軽く頭を叩いて粛正。
脱走させるには先ず奏に走りやすいもの、だからスニーカー一足は納得。靴のサイズもおそらくちゃんと奏の足のサイズに合わせているであろう。
地図は思い出の場所でも探して歩き回って迷子にならないように用意したのかな。
それらは解らなくも無いが、問題は金槌、頑丈そうな縄、スタンガンの三つ。
用途は? と聞くべきなんだとは思うが聞きたくない、聞いたとしても聞かなかった事にするね。
「これは没収します」
口調は先生風に。
「は? 日本語でオーケーなんですけど」
日本語なんですけど。
「脱走させるのも賛成できないし、ましてや凶器と呼べるものを持ち歩くのはもっと賛成できない」
「凶器? ああ、金槌は人に使わないわよ、主に物を壊すときに使うわ」
「器物損壊罪って知ってる?」
「いつまでも法に囚われているようじゃ駄目よ、束縛を解いて羽ばたかないと」
「お願いだから羽ばたかないで」
羽ばたいてしまったらきっと君の両手に鉄製の冷たい束縛がされるから。
それから数十分間、足場の悪い室内で俺達は床に落ちた道具を巡って奪い合い。
先ず俺が手に取ったのはスタンガンだ、これさえ取り上げれば脅威は去ったと言っても過言ではない。
しかしながら、
「返せクソ野郎! もやし! ゴミクズ! 蛆虫! 残念系男子!」
姫子の罵声が心に響く、そりゃもう心臓を針で突付かれてるかのような気分。特に最後の悪口は効いたぜ。
思わずスタンガンのスイッチを入れて、電流の音を聞かせてあげた。
ぴたりと言葉が止み、しばらく室内には電流の音だけが響き渡る。
「……調子こきました」
硬直した姫子は自分の状況が非常によろしくないのを悟り、素直に謝罪。
「解ればよろしい」
俺は姫子が戦意喪失したと判断して奏を脱走させるために必要と思われる道具を拾い上げて回収。
ゴミ袋が真っ二つになって使い物にならないので持てるだけ持つとする。
「……でも、でもさ」
その際、姫子は震えた声で俺に声を掛けた。
それはとっても、なんていうか……小さくて聞き取りづらかったけど耳を傾けなければっていう意思が、そう……簡単に説明すると本能、かな。
それが俺の中で働いたからこそ手を止めたんだと思う。
「このままでいいの? 奏、消えちゃうんだよ? もしかしたら次に会ったら奏は奏だけど、違う奏かもしれないよ? それならまだしももう心がなくなってるって可能性もあるんだよ?」
「それは……」
口篭るしかなかった。
奏という人格が消えてしまうまであとどれくらい時間があるのか、それははっきりとしていない。
清次さんは退院する頃には奏の人格は消えると予想しているが、予想は予想。確定ではないのだから思ったほど残された時間は無いとも考えられる。
「せめて奏の願いだけは叶えたいの」
「まあ、その気持ちは解らなくもない」
「解るなら手伝えよ」
そうきたか。
「ついでにスタンガン返せよ」
「それは駄目」
手を伸ばしてきたので俺は慌ててスタンガンを持つ手を後ろに回して死守。
油断ならない奴だ。
一先ずここは危険性を伴う道具だけを回収して俺は姫子に取られないよう自分の部屋の机の引き出しへ入れて、さらに鍵付きなのできちんと鍵を掛けてその鍵は棚に並べてある辞書の中に突っ込んだ。
これなら絶対に見つからない、うちの本棚は漫画本をどっさりと入れた列もあればこうして辞書や高校受験のために使った参考書などが詰め込まれた列もある。
当然、この列は姫子がうちに来てからこれらの本を取られたなどという動きは無いので見向きしていないのは確実。
完璧だ、俺の部屋に先ほどの引き出しに入れた危険物を探しに来ようとも絶対に見つけられない。
「よっしゃ、これでいいだろ。いいに決まってる」
自信を持って俺は居間へ。
姫子は完全に機嫌を損ねたようで、俺が自分用に買ったアイスを勝手に食べて、しかも俺と目が合うや睨んでくる。
「あの……そのアイス」
「あ? なんすか? 何か文句あるんすか?」
「……いいえ、どうぞ」
あまり刺激しないようにしよう、アイスで少しは機嫌を直してくれるなら何も文句は言うまい。
さらに姫子はアイスを食べ終えると、
「あんたはどうしたいのさ」
自分の部屋へ戻る際に、俺へそう言うと返答を待たず出て行った。
水道の蛇口をひねり、コップに半分ほど水を入れる。
喉へやや冷たい水を流し込んで、小さな溜め息。
どうしたいかって?
そりゃあ……決まってるだろ。
俺は――
あっ……そういえば姫子に親父さんと話したってのを言うの忘れてたな。




