弐
カーテンがかけられているためにやや薄暗く、カーテンを背に椅子に座る男性が一人。
テーブルにはパソコンが一台、それにいくつかの資料や本がテーブルの上で積み重なっており、その中から一枚の紙を手にとって男性は口を開いた。
「初めまして、私が大鰐清次だ。私がどういった人物かは口で説明するのは面倒だからインターネットでも使って検索してくれ」
「は、初めまして……えっと」
「君からの説明は不要だ、名前もね。君がどういった人物かはこの紙切れ一枚で十分に理解できる。厚さは一ミリ以下だが十数年を知れる紙切れだ」
」
俺という人物は紙切れ一枚で収められるくらいだと思うと悲しくなる。
「君は私に何か話したい事があるようだが、私も君に話したい事がある。私から話してもいいかな?」
「は、はい、どうぞ」
いけない、どんどん緊張して言葉が震えてきた。
「私の大切な娘が今どこにいるのか、誰の家で過ごしているのかを妻は言ってくれない。娘の友人に聞いて回ってもそれは不明だ、だから人を使って調べた」
その人というのは栄子さんだろう。
「するとどうだ、どこぞの馬の骨か知らん奴の家で寝泊りしているらしいじゃないか!」
「す、すみません……」
「しかも妻の携帯履歴を見てみれば貴様の名前で電話番号が登録されていた。私に内緒で妻と話をしてあわよくば懐柔とでも思っていたのだろう?」
「違います! ただ普通の話をしていただけで……」
清次さんの眉間にしわが寄り、彼の頭の上に不機嫌ゲージでも表示するなら半分ほどたまったところか。
「まあいい。一先ず私に直接話をしにこようとしたのは褒めてやる」
「あ、ありがとうございます」
「が、しかしだ。一ヶ月前に来るべきだと思わんかね? 私ならそう思うがな」
「すみません……」
あいつは何も話してくれなかったし、連絡する術も貴方がこの病院にいるのも解らなかったのだからそこらは見逃して欲しいものだ。
「娘は自分の意思で貴様の家にいるのか?」
「まあ……そうですね」
「貴様の意思が少しでもあるのなら誘拐とみなすぞ、素直に言え」
「い、いえ! 本当にあいつの意思でして!」
今思えば最初に姫子と会ったとき、病院に行くのを促したのに断られたのはこの人が絡んでくると思ったからなのかもしれない、しれないというよりそうだろう。
そんで看病したらいきなり引きこもられるんだから俺の意思なんて働く余地もない。
俺はむしろあいつを一人立ちさせたいくらいで自分の近くに置きたいなんて微塵も思わないね。
そうしたところで何になるっていうんだ。
「そうか、それならいい。では、君の話を聞こう」
腕を組み、清次さんは鋭い双眸で見てくる。
見てくるというか、睨んでくるので思わず視線を逸らした。
「君の話を聞くと言っている、私を見ろ」
「は、はい!」
恐る恐るではあるが俺はなんとか視線を向ける。
「よし、見るな。話せ」
何なんだ。
それにしても目のあたりや眉間のしわやらが姫子を彷彿させるな、やはり親子。
「えっとですね……二人で話し合う機会を設けてみてはと思いまして」
「そう言っても、娘は首輪でもつけて引きずってでもしないかぎり来ない。絶対にな」
確かに。
「強引に話し合う機会を設けても意味は無い、それは君も解るだろう?」
「ええ、ですが待ってるだけじゃ何時までもずっとこのままなのでは?」
「君が娘に話して連れてくればいい、連れてこれればの話だが」
確かに連れてくればいいだけの話だがしかし、絶対に連れてこれない、どうやったって、引きずろうとしたってあいつは連れてこれないと俺の本能がそう叫んでいた。
となればいつまでも姫子は俺の家で過ごす未来が待ちうけている、彼女のためにもそれは避けておきたい。
「しかし厳しすぎじゃないですか? ここに入院してる患者を外に連れ出しただけで病院の出入り禁止や、もしまたその子に会ったらその子の優遇措置を辞めるなんて……」
「優遇処置については娘から聞いたのか?」
はい、とやや小さめな声で俺は答えた。
眉の動きから、少し気分は不機嫌へと傾いたように感じられる。
こうしてただ話してるだけなのに威圧感が俺の心臓を締め付けて痛い。
「まったく、どこまで君が娘との問題を知っているかはどうでもいいが、君は娘の教育者か? いいや違うな。私が教育者であり、何より父親だ」
「そりゃあそうですけど……貴方が突きつけた条件は、その……」
教育というよりも強要だ。
本来ならここで机に両手で音を立てて叩いて睨みつけたいところではあるが、妄想から抜け出せずに口篭るのが現実。
「時に君はホモか? 若しくはゲイか?」
「えっ! い、いえっ! ノーマルです!」
唐突でしかも変な質問なもんだから、ただでさえいつもより早い心臓の鼓動がここで激しく脈動した。
「では娘がそういうものを好きだとして、君はそれを肯定できるか?」
「ひ、人の趣味はそれぞれですし……」
「なら君は将来一人娘が生まれて、大切に育てて成長したある日、部屋に入ってみると娘は男二人が交際しているようなよからぬゲームに没頭していると知っても趣味は人それぞれで片付けるのかね?」
誰の事なのかは聞かずとも、な。
「えっと……その……」
何とか反論をしたいところだが、言葉が中々見つからない。
打破しようにも、正論のどこを突付いて打破すればいいのやら。
「一人娘なのだよ、とても大切な、一人娘なのだ」
「それは解りますけど……」
「けど、なんだ?」
「……せめて、奏と会わせるくらいは許してもいいのでは?」
奏と過ごせるようになればあいつも怒りが引いて家に帰るかもしれないし、それなりに素直になるかも。
「あの子か……しかし今は色々とあってな」
「色々……?」
「そう、色々だ。それと風間浦奏への優遇処置は娘に言われたからではない、私が決めた事であり彼女はそれを受ける価値のある患者だ。だから安心していい、娘が彼女に会っても優遇処置を辞めるつもりはない、がしかし……娘には出来るだけ会わせたくはない。また何か問題を起こされたら困るからね」
清次さんは机の引き出しから分厚い紙の束を取り出すとそれらをぺらぺらと指でめくりながら、視線はその資料らしきものに向けつつも再び口を開いた。
「ただ、私としてはついカッとなって言い過ぎたのもある」
視線は机に落とし、深い溜め息をつく清次さん。
「娘に突きつけた条件は勢いで言ってしまってな」
「高校を卒業したら海外に留学して医者の道を進めとかいう話ですか?」
「ああ、そうだ。そうして欲しいだけの話だった、趣味に関しては本心で言ったがね」
将来についてはそうしろ、ではなくそうしてほしいだけと言い直して話すだけで姫子の機嫌は良くなりそうだ。
俺から話すべきか、連れてきて話し合いをさせるべきか……。
直接話し合わせたらまたぶつかり合う可能性も無いとは言えないが、話し合う機会は設けたほうがいいよなやっぱり。
趣味に関しては……俺は人の趣味はそれぞれだから、認めてあげてお互いの関係修復へと繋いだほうがいいと思う、俺はそう思うだけでこれ以上口は挟まないけど。
何か言ったら君は娘の教育者か! って怒られそうだし。
「どうしよう」
どうしようって言われましても。
「会ってじっくり話し合うしかないかと」
「今は駄目だ、絶対に」
その今はっていうのはどうしてなんだろう、お互いの関係修復を試みたいのならば今すぐにでも話をしたほうがいいと思うのだが。
「そうだ、君が娘に話してやればいい。それがいい、そうしよう。是非誤解を解いてくれ」
「面倒事を俺に押し付けようとしてません?」
俺に言わせて自分は安全なところから高みの見物みたいな。
「……そんな事はない!」
言葉は力強く、仰け反りそうにはなるものの視線を合わせてくれないのでやや迫力不足。
目は泳いでいて嘘を付いているのは明らかだ。
「まあ……機会があればさらっとだけ言ってはおきますよ、でも俺は貴方がそう言ってたとだけ、ほんの一部しか言わないと思います。貴方が言うからこそ意味がありますし」
「それもそうだな」
「よければ姫子を奏に今度会わせてやりたいのですが」
「……待て、考えている」
どうぞご自由に。
長考、秒針が五週ほどして、ちょっと立っているのも疲れたなあなんて思っていたところでようやく言葉が沈黙を破った。
「やはり不安要素はできるだけ無くしたい、会わせるわけにはいかないな」
「……どうしても、ですか?」
「あの子が退院したら会わせてやる。それまでは駄目だ」
奏は聞く限りだと重病を患っている患者じゃないのに、ただ姫子と会わせるだけでも不安要素扱いするわ価値のある患者とか言うわ、正直この人の考えがよく解らない。
といっても一生会えないわけじゃないし、とりあえず姫子には俺の口から言える事は言って退院まで大人しくしてもらうとするか?
いや……やっぱりさっき清次さんに言ったように、この人が言うからこそ意味がある。
「蟠りが大きくなってしまうかもしれませんよ」
「もしもそれが大きくなっていくとしたらその時は君が私の代わりに娘と話をしてくれ」
ていうか蟠りが現在進行形で大きくなってるからこそあいつは家に帰ろうとしないし学校にも行こうとしないと思うのですが。
ほんの少しだけでもあいつに話しておくのも一つの手段ではあるけど、難しい判断だ。
「こちらが落ち着いたら娘は向かえに行く、君の家にも迷惑になるからな」
「いえ、別に……」
まあ一室ほど占拠されてるけど。
「迎えに行く日が決まったら妻から連絡を入れさせるようにする、それまではよろしく頼む、がしかしだ」
しかし?
「娘とやましい関係には決してなるな」
「な、なりませんよ!」
「男らしいとは言えない外見、よくよく考えれば娘が好きになるはずもないな」
外見についてはほっといてくれませんかねえ。
俺だって好きでこんな外見になったわけじゃないし、男らしい外見や長身で筋肉のつきやすい体質や体つきが欲しかったんだから。
「そうそう、聞き忘れていた。風間浦奏から何か受け取ったりしなかったかね?」
「……いえ、特には」
何故そんな質問をするのだろう。
別に受け取ったものなど無く、もしかして受け取っていたとしてもすぐに思い浮かばないし思い出したとしても素直に言える気分ではないがな。
「本当に?」
「ええ、本当に」
どんなものなのか、どんな形なのか、どんな大きさなのか、受け取ったものといっても漠然としすぎていて考えるのも面倒だ。
「そうか。ではこれから何か受け取った場合教えてくれればありがたい。私からの話は以上だ」
結局、話し合った結果にて何かが変化したとか状況の良し悪しとかはまったく無く、平行線を辿ったまま俺は部屋を出た。
いや、姫子が奏と会っても優遇処置を取りやめる事は無いと解ったし監視役も俺の隣を歩いているし、平行線から少し足が出たかも。
しかし妙だ。
価値のある患者、それが引っ掛かる。
「どうしてあの人が奏にこだわるのですかね? もしも何か知ってたら教えてくれませんか?」
卑怯。ああ、俺は卑怯な奴だ。
現状にて俺と栄子さんの立場はというと、栄子さんは俺に対して非常に肩身が狭い。
もしも何か知ってたら教えてくれませんか? 俺は十秒前にそう質問した。
特に尖った言葉も甘えた言葉も用いていないごく普通のこんな質問も、栄子さんの心情を察すれば、何か知っていたら洗いざらい吐いてくださいと言っているのと等しい。
「奏ちゃんにこだわるというよりも……あの子の父親が関係してるのですよ」
「父親が?」
「衆議院議員からの頼みを快く受け入れれば、ね?」
あとは言わずとも、と栄子さんは言葉を省略。
「利益に繋がる……という事ですか」
姫子が奏を病院から連れ出して、しかも問題を起こしたとなれば清次さんにとって立場上よろしくない――だからこそ姫子を一方的に奏から突き放したのだろうな。
話を聞いているだけで気分が悪くなる。
奏は患者であって、交渉に役立つ道具ではない。
「この事を姫子は?」
「知らないわ、知ったらきっとまた波乱が起きるでしょうから……」
「言わないほうがいいですね」
俺も自らその波乱を呼び起こすつもりは無い。
お互いが向き合ってゆっくり話をして現状解決、それが俺の目的。
あとなるべくその間に姫子を更生させるのも目的の一つではあったが、こればかりは難しいね。
「でもどうして監視役なんかやってるんです? ……弱みでも握られてるとか!?」
俺の口から言う台詞ではないが。
「違いますわ、私の意思で監視役を務めてますの」
「そう、ですか……」
自分の意思で……か、もしかして姫子と仲が悪いのかな。
「私、妹がいるんです」
「妹?」
唐突になんだろう。
「妹は昔から体が弱くて、でもうちは裕福とは言えない家庭で満足の言える治療も受けさせられずにいまして……」
一瞬、躊躇するかのように栄子さんは言葉を喉で留める。
「……それで、妹をここの病院で最良の治療を受けさせるかわりに監視役をと頼まれて、私……」
そんな事情があったとはね……言いづらかっただろうが言わせてしまって今すごく罪悪感が心を突付いてる。
監視役を進んで務めるのは解らなくも無い、ランプを擦ったら魔人が出てきて夢を叶えてやるがとある人物を監視して欲しいと言われたら受け入れてしまうのは至極当然。
「私は汚い人間です」
「そんな事ないですよ」
「そんな事ありますよ」
「ないっす」
「あるっす」
この言い合いは拉致があかない。
「貴方も姫子が心配で監視役を引き受けた部分もあるでしょう? あるはずです、はずっていうより確実に」
「……その、なんと言いましょうか、えっと」
「深く考えなくていいと思いますよ。姫子が心配だから監視役を務めてる、それでいいじゃないですか」
妹想いな人、俺が真っ先に抱いたのはそんな印象。
少なくとも監視役を引き受けたのも姫子が心配だったからであろうし、この人を責める部分など一つも見当たらない。
「ありがとう、少し……楽になりました」
むしろ栄子さんの弱みを付けねらって監視役を引き受けさせた清次さんに、俺はなんていうか……汚い大人だと苛立ちを覚えた。
ロビーに出るまで栄子さんの口数は少なく、視線は床へ傾きがち。
中々重苦しい雰囲気を纏う彼女に、俺は何か気の聞いた言葉の一つでもとは思いつつも何も思い浮かばず結局平行線をなぞるだけ。
「じゃあ、私はここで」
ようやくして彼女の言葉が鼓膜に届き、重苦しさなど払拭した――と言っても平気だとアピールするべく明るい口調で話しかけてくれたのであろうがそれはそれで、少し安心させてくれる。
「妹さんに会いに行かないのですか?」
この際だから面会すればいいのに。
「いえ、こちらの受け入れる準備が終えていないので妹は前の病院にいるのですよ」
「そうなんですか。じゃあ今日はここで」
「ええ、またお会いしましょう」
色々と励ましの言葉でもとは思ったが、こうして今日はあっさりと別れるのが彼女のためになると思ったから言葉は付け足さなかった。
結構長く話をしていたために面会時間はやや短め。まあ廊下を染める橙色は一層色濃く、これから黒になる時間帯だ、致し方ない。
扉を二回叩き、小窓から中の様子を覗いてみるとベッドはこんもりとした山が乗っかっていて僅かに動いていた。
返事は無く、ここにいても仕方ないのでゆっくりと扉を開けて入室。
宗助はいると思ったが今日は来ていないのか、それか来ていたが先に帰ったかで姿は無い。
俺はベッドの近くにある椅子へ腰を下ろし、こんもりとした山を人差し指でつついてみる。
「あら」
小さな声は山の中から、何度かうねるような動きが見られると頭が一つ出てきた。
「よお、元気にしてた?」
「とても元気よ、師匠」
師匠って言うな。
しかしなんだろう、いつもの奏と雰囲気が違う気がする。
「これ姫子から預かってきたんだ」
忘れないうちにと俺は姫子から預かっていた写真を渡した。
「ありがとう、姫子ったら……私のために撮ってくれたのね」
言葉遣いや一つ一つの仕草に感じられたのは淑やかさ。
いつもの活発さとは違って、まるで年上のお嬢様と会話しているかのような錯覚をしてしまう。
紅茶でもあって、鼻腔を擽るような香りでも漂えばいここが病室ですら忘れてしまうに違いない。
「綺麗ね、うん、綺麗よ。私の思い出の場所……あそこを思い出すわ」
「それって昔皆で行ったあの丘?」
「そうよ、まだあるかな……? もう一度、叶うならもう一度……行ってみたいな」
奏の言う思い出の場所は俺の記憶の中にある丘で間違いないようだ、がそれより彼女の淑やかさが気になって仕方が無い。
外見は奏だが中身は別人なんじゃないかな? いいやそれは無いか。どうであれいつもと確実に様子が違うのは確かだ。
口調も奇異、雰囲気も奇異、兎に角奇異。
「今からでもいいから行かない? 駄目かな?」
「今からって、病院から勝手に出ちゃ駄目だろう?」
それにここからでは遠い、おそらく許可されない。
「……そうよね、でも行きたいよ。いつ何が起こるか解らないんだから、人生もこの身体も、この記憶も」
笑顔、確かに笑顔だったが奏のその笑顔はとても悲しげで、俺はきっと初めて、笑顔は笑顔でも見たくない笑顔だと思った、奏の笑顔なら何度でも見たいはずなのに。
でもやっぱりおかしい。
一つ一つの仕草、口調、雰囲気さえもこうして接していると違和感だけが目立ち始める。
「な、なあ……奏――」
「いつもと違う、そう思った? 感じた? それは正しい」
俺の言葉は強引に遮られた。
まるで先回りされたかのように、おそらくたどり着くであろう会話の結末を彼女は既に用意していた。
「完全に消えるかもしれない。それでいいの、それがいいの。そうしたいから、そうする事で私は楽になれる」
「待て待て、中々に謎々的なその台詞は解読が難しいからもっと解りやすく説明してくれ」
「え? 解りやすいでしょう? 私は解りやすいよ、貴方は? 貴方も解りやすいって私は思ってるから、私は解りやすいはずって思う」
随分と解って漢字多用したな。
俺の頭の中には残念ながら解は解でも不可解が漂ってるけどね。
「でも今は解らなくてもきっとそのうち解るかも」
「何が?」
「何かが」
言下に奏が見せた笑顔は、いつもの暖かさある笑顔で言葉を失ってしまった。
その笑顔、本当に卑怯だ。
「だから、おやすみ」
途端に彼女はベッドへ身を任せて瞳を閉じた。
「あ、おい……」
寝息を立てるのは実に早く、俺の呼びかけに奏はまったく反応せず。
ちょいと肩を突付いてみたりするが眉間が不機嫌そうに動く以外の動作は無く、もう寝ちまったのかよ……なんて心の中で呟いて、しかししばらくは席を立たず俺は奏の寝顔を眺め続けた。
窓の、カーテンの隙間から差し込む橙色の光が黒く濁り始めた頃に俺は、
「またな」
と、一言小声で彼女に言って病室を出た。
小声も、扉をゆっくりと静かに閉めるのも彼女が目を覚まさないための配慮だ。
病室を出ると同時に俺は小さく吐息を吐いた。
特に何かあったわけではないがすごく幸せな時間を過ごした、その証拠に俺の口元は緩んでいて気分は高揚している。
宗助と相談してあの丘に皆で行けたら行きたいな。
それにしても奏の事を考えると絡みつくかのように今日聞いた台詞が無意識に自動再生される、気になる、ああ、すごいとかとてもとかそういう一言で済ませられるほどではないくらい、あえて言葉を添えるなら超、つまり超気になるってやつ。
今日の奏は明らかに様子も変だった、さらに意味深な発言もあって粘着性のある記憶として頭の中に付着していた。
帰り道でもずっと奏の言葉を脳内再生させて、そのおかげで降りるべき場所で降り忘れてバスの車内で溜め息をつくはめに。




