第1話:俺は叫んだ。
ふいに温かな空気が顔を包み込み、それと同時に、中学生たちのあの聞き慣れた賑やかな話し声が耳に飛び込んできた。眩しい日差しに思わず目をしばたたきながら、自分の手を見つめる。本来あるべき姿よりも、奇妙なほど小さく見えた。
な、な、何だ……? 俺は本当に……過去に戻ってきたのか……? これって……現実なのか……? でも……どうしてこんなことが……。
生徒たちは何事にも煩わされることなく、中庭を駆け回っていた。追いかけっこをする者、廊下で談笑する者、校庭のベンチに座る者、そして古木の木陰に集まり、些細なことで笑い合う者たち。いつの間にか、俺はその古木の木陰にある木製のベンチに座っていた。そこは、俺の記憶にある通りの場所だった。
「でしょ? あ、そういえば知ってる? レンくん。誰かと長い間じっと目を見つめ合うと、それは『好き』ってことなんだって! 試してみる?」
彼女の輝くような瞳が俺を捉え、決して視線を外そうとはしなかった。
横から声をかけられ、驚いてそちらを向くと、俺は咄嗟に愛想笑いを浮かべた。
ア、アイラちゃん……? 俺、本当に時間を……巻き戻したのか……? でも……彼女、一体何を……しようとしてるんだ……?
何もかもが理解できなかった。隣にいる少女は、どうやら俺を「にらめっこ」に誘っているようで、俺はその状況にひどく戸惑っていた。
「うん! やろうよ、アイラちゃん!」
俺は無邪気な笑顔を輝かせながら、両の拳を胸の前でぎゅっと握りしめた。
「へへっ、先に目をそらした人の罰ゲームはどうする?」
彼女はクスクスと笑い、その瞳を茶目っ気たっぷりに輝かせた。そして、何かを深く考えているかのように、左手の人差し指をあごに当てた。
「うーん、俺、選ぶの苦手なんだよね」
俺は一生懸命考えているふりをして、首の後ろをかいた。
「でも! これはどうかな―」
その時だった。なぜか俺の小さな体が勝手に駆け出し、彼女の目の前で止まった。木漏れ日が俺の右半身を照らし、校庭には子供たちの笑い声が響いている。穏やかな風が刈りたての草の香りを運び、すべてが……胸が痛くなるほど懐かしく、背筋にゾクッとするような感覚を覚えた。
そして、俺の意思に反して、両腕を大きく広げ、くるりと向き直ってしまった。
「ハグ……し合おう!! そして、負けた方は勝った人の言うことを何でも聞くの!」
俺は満面の笑みで彼女に言っていた。
えっ?! 俺、そんなこと言うつもりなんてないのに! なんだこれ、身体が勝手に過去の行動を再現してるのか?!
「わあ、いい考え!」
彼女は胸の前でパンと手を合わせた。
「でも……ハグ?」
そう言うと、彼女は少し照れたように頬を染めた。
「うん!!!」
「よし、負けないからね、レンくん」
アイラは小さな拳を胸の前で握りしめ、挑戦的な笑みを浮かべた。
「それじゃあ……いくよ!!」
彼女が目を閉じ始め、俺もそれに続いた。
「いち」
アイラが目を閉じたまま数え始めた。だが突然、何の前触れもなく空気が張り詰めた。周囲の空気が一瞬で冷たくなり、木々の葉が揺れるのをやめた。
「に」
俺も続いて数えた。しかし、風が止むと同時に、ついさっきまで校庭を満たしていた笑い声が、予兆もなく消え失せた。その突然の静寂に鳥肌が立ち、俺は少し恐怖を覚えた。
「さ……」
二人で声を合わせた。日差しの温もりが消え、雲が瞬く間に空を覆い、地面には不自然に長い影が伸びた。何者かに見られているような気配に、背筋を冷たいものが走る。さっきまで鳴いていた鳥たちさえも沈黙し、一秒一秒がひどく長く感じられた。
この静寂に耐えきれず、俺はゆっくりと片目を開けた。だが―
「さーーーーーんっ!!!」
えっ……?誰かの悲鳴が静寂を切り裂き、俺は即座に目を見開いた。
「アハハハハハッ、これでもくらえっ!!!」
ブシュッ……
グチャッ……
布地を無理やり引き裂いたかのような不気味な音が、俺の左右の耳元で生々しく響き渡る。それと同時に、そこから激しく血が噴き出すのが見えた。
な、何……? これ、どういう……意味だ……?
ゴトッ……ゴトゴトッ……。
少女の首が転がり、止まった。俺の目の前に。う、嘘だろ……? 首……? ま、まさか……アイラ……?
何が起きたのか理解できなかった。あまりにも近く、あまりにも残酷なほど近くで、その光景をはっきりと見てしまったからだ。切断された首の無残な断面、草を染めるどす黒い血、引いていく生気、そして大きく見開かれたまま俺を見つめ返す瞳。
「ねえ……」
「……」
「ねえ……」
俺の極めて小さな囁きは、誰にも届かなかったかもしれない。いや……そんな……ありえない。嘘だ……これは……嘘なんだ……。
いや……これは現実じゃない、ありえないはずだ。それなのに、俺の視線はその首に釘付けになったまま、信じられない光景を前に凍りついていた。
嘘……嘘だ……。
ありえない……。
そんなの、ありえない……。
いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや……
「いやぁぁぁ!!!」
「アイラァァァ!!! あぁぁあアアアアイラァァァアアアア阿阿阿阿!!!」
俺は喉が張り裂けんばかりに絶叫した。何度も、何度も泣き叫んだが、その目の前の黒い悲劇から視線を外すことさえできなかった。
「ハハハハ! どうしたぁ? ~ なんでそんなに怯えたツラをしてやがる、坊主 ~ ォ」
その男は狂気に満ちた目をギラつかせ、邪悪にせせら笑った。
「 ハハハ、ハハハハハハ!」
「ハハハハハハハハハハハハハハハッ!!!」
「ふふっ……あらあら、可愛らしい小さな女の子ですこと。わたくしのコレクションにぴったりの逸品ですわ。この世界の人間は、存外とても価値の高い素材ばかりでしてよ?」
男の隣に立つ、純白のドレスに身を包んだ女がくすくすと笑いながら呟いた。
彼女は地面に転がり、赤黒い血に染まったアイラの首を、まるで珍しい玩具でも拾い上げるかのように軽々と持ち上げた。
吐き気がするほど不快で、胸の奥から激しい怒りと憎悪が吹き荒れる。今すぐあいつらを噛み殺してやりたい。あらゆる感情を爆発させて叫び散らかしたい。……だが、今の俺にはそれを成し遂げるだけの力も、抗う術すらもなかった。
「……そちらの出来損ないの首も、早く渡しなさいな」
「ははッ、申し訳ございません、我が偉大なる女神様。聞こえましたかしら、小さき人間さん?」
「悪ぃな。お前の時間はここまでだ ~ ハハハ、ハハハハハハ!」
「ハハハハハハハハハハハハハハハッ!!!」
男の笑い声に総毛立ち、魂の底から震えが走る。
「地獄に落ちても、精一杯抗えよ。なぁ?ヒッ、イヤァァァアアア―」
血に染まった剣が、真っ直ぐに俺の顔面へと突き出された。叫ぼうとしたが、声が出ない。身体が動くことを拒絶している。嫌だ……そんなの、嫌だ……。だが、鋭い刃が俺の視界のすべてを埋め尽くしていく。
「ま……ま、待っ―」
視界が、ガラガラと崩れ去る。
アイラの死という絶望に脳が焼き切れる直前、世界がぐにゃりと歪んだ。暗闇が意識を呑み込み次の瞬間、耳をつんざく金属音が鼓膜をぶち破った。
TANGG!!!
生臭い血の匂いは、一瞬にして散る火花の焦げ臭さへと塗り替えられる。
視界が切り替わった先で繰り広げられていたのは、壮絶な死闘だった。そこにいたのは、ボロボロになりながら剣を振るう一人の勇者。奴の攻撃に耐えかね、必死の様相で刃を交えている。
「どうした、勇者様よぉ! 我が偉大なる女神様に選ばれた、この世界最高峰の英雄が……その程度の力なのか!?」
あざ笑うような言葉と共に、ライは容赦なく怒涛の斬撃を叩き込み続ける。
◆◆◆◆
へぇ……何故勇者ともあろう者が、あの偽りの女神の使者に刃を向けている? 本来なら、奴こそが俺の復讐の第一標的であるはずなのだがな
夜空に浮かぶ月を背に受けながら、俺は遥か上空から静かに二人を見下ろしていた。
世界を救うはずの勇者が、なぜ自らの神に刃を向けているのか、俺には分からない。だが……ボロボロになりながらも折れぬその瞳を見て、俺はなんとなく理解できた気がした。
「黙れ、この外道がぁぁぁッ!!」
勇者は全身の力を込め、敵の心臓を穿つべくまっすぐに剣を突き出した。
ガキィィンッ!
だが、その渾身の一撃は、敵の剣ガードによってあっけなく受け流されてしまう。
「アマいぞ、勇者様よぉ! これでも喰らいな!!」
敵の身線が円を描くように翻る。体を一回転させながら繰り出された凶悪な斬撃が、勇者の側部から鋭く迫る!
キンッ!
「くっ……!」
間一髪で刃を受け止めるも、勇者の体勢は大きく崩れた。
「ハッ……ハッ……ハッ……」
限界を迎えた勇者の息が荒く乱れる。
ガキィィンッ!
だが、虚しくも俺の渾身の一撃は、敵の剣ガードによってたやすく受け流されてしまう。
「アマいぞ、坊主! これでも喰らいな!!」
敵の身線が円を描くように翻る。体を一回転させながら繰り出された斬撃が、俺の側部から鋭く迫る―!
キンッ!
「くっ……!」
間一髪で刃を受け止め、受け流す。
◆◆◆◆
「ハッ……ハッ……ハッ……」
「何だ? そんな息を荒げて、本気で俺とやり合うつもりか? 冗談だろ?……ふははっ、笑わせるな……喰らえぇぇッ!」
キンッ! ガンッ! タンッ! ツンッ!
「くあッ……この野郎……!」
怒涛の連続攻撃を前に、俺は歯を食いしばるしかなかった。圧倒的な手数。一見すると狂暴な乱打に見えるが……違う。目を凝らせば凝らすほど分かる。こいつは剣で『踊って』いるのだ。そして俺は、その残酷な舞踏の試練台(実験台)に過ぎない。
キンッ! ガンッ! タンッ! ツンッ!
一秒の間に数十、数百と繰り出される剣戟。完全に後手に回らされ、追い詰められていく。それでも俺は、死に物狂いで刃を合わせ続けた。
こんなところで……押されるわけにはいかない……! ハッ、ハッ……!
肺が焼けるように熱い。呼吸が乱れ、視界が明滅する。防戦一方の状況で、俺にできるのはただひたすら耐え、敵の隙を見つけ出すことだけだった。
キンッ! ガンッ!
「ハハハハハ! どうした坊主!? さっきから視線が泳いでるぞ! 目の前の敵に集中しろッ!!」
シュフゥゥン……ッ!
手応えがあったと思った瞬間、敵の姿が掻き消えた。同時に周囲へ立ち込める濃密な霧。急激に視界が奪われていく。
「言ったはずだぜ……目の前の敵に集中しろ、とな―」
シュインッ!
「くッ……!?」
死角からの急襲。正面から放たれた目にも留まらぬ速さの突き。
世界が、遅くなる。
鋭利な刃の先が、俺の腹部へと迫るのがはっきりと見えた。だが、疲弊しきった俺の体は、それに反応することを拒絶する。
しまっ―……
TAAANGG!!!
ヒュウッ……!!
「ハハハッ! 隙ありだなぁ、坊主ッ!」
ザシュッ……!!!
「ガハッ……!?」
胸元を冷たい刃が深く切り裂く。焼けるような激痛と, 視界を染め上げる真っ赤な血。体が崩れ落ち、意識が暗闇へと落ちていく中で、俺は強く叫んだ。
ザクッ……! ドスッ……!
「あぁぁぁぁぁっ!!!」
ドスッ! グサッ……!
全身を何度も、何度も刃で穿たれる。だが、奴は俺をすぐに殺そうとはしなかった。まるで、この敗北の屈辱と激痛をじっくりと噛み締めさせるかのように。
ドスッ……!
「ガハッ……!?」
冷たい刃が胸の中央を貫き、地面に伏した俺の体を縫い留める。重い靴底が、虫ケラでも踏みつぶすかのように俺の胸元を踏みにじる。すべてを終わらせようとするかのように。
「まったく……哀れな男だ」
見下ろしてくる男の瞳には、はっきりと失望の色が浮かんでいた。
「なあ? あの一件の復讐をしたいのなら……もっと……」
シュインッ……!
胸に刺さっていた剣が引き抜かれ、その刃先が俺の頭部へと向けられる。
「もっと努力するべきだったな―」
「俺は……ッ!!!」
敗北が確定したこの状況でありながら、なぜかアドレナリンが沸騰し、口が勝手に叫びを上げていた。
死ねない……こんなところで……あいつ偽りの女神をぶち殺すまでは……っ!
「俺は……絶対に……お前たちをぶち殺すッ!!」
全身を焼く激痛と絶望の中でも、溢れ出る殺意と怒りが俺の胸を突き動かした。
「もし……もしも俺がもっと早く奴らの本性に気づいていれば……あんなにも多くの犠牲を出さずに済んだのに……! 許さない……神だろうが何だろうが、絶対に屠ってやる!!ガハッ……! ハァ……ハァ……!」
◆◆◆◆
全身を駆け巡る激痛に耐えながら、勇者は血の混じった唾を吐き捨て、泥にまみれた剣を握り直す。
どれほど痛めつけられようとも、その瞳に宿る怒りと不屈の意志だけは消えていなかった。
ほう……あの女神を裏切ったというわけか。奴が抗う理由も、なんとなく分かった気がするな
俺は口元に微かな笑みを浮かべ、手に握られた黒剣の柄に力を込めた。
さて……そろそろ俺の出番と行こうか
「殺す……殺す殺す殺す……! 全員残らず、俺が殺してやるぇぁぁぁぁッ!!」
震える体に鞭を打ち、血みどろの体で泥を舐めながら、俺は再び立ち上がろうと抗った。恐怖と怒り、そして全身を駆け巡る血の匂いが視界を覆う。
「ハァ……お前実にしぶとい男だな」
ドスッ! グサッ……!!
「ガハッ……!?」
だが、残酷な現実が再び俺の体を穿つ。深々と突き立てられた刃が、俺の肉を、骨を削り取っていく。
「いい加減、早く止めを刺しなさい、ライ。世界の全てを司る女神として、このような見苦しい哀れな姿を見続けるのは耐えられませんわ」
純白のドレスを纏った女が、心底蔑むような視線を向けながら吐き捨てた。
「我が女神様は真の偽善者であらせられる。あの娘の首をコレクションにしたのは、他ならぬ貴女様でしょうに」
「わたくしに口答えするつもりかしら?」
「滅相もございません、我が偉大なる女神様」
「ごふッ……ハッ……」
口から大量の血が溢れ出し、体中に穿たれた穴からは、まるで赤黒いインクのように絶え間なく鮮血が噴き出していた。
「ハァ……本当ならもう少しこの絶望を楽しみたいところだが……」
ライと呼ばれた男が、血に濡れた剣の先を俺の額へと向け直す。
振り下ろされる刃。体に伝わる恐怖の振動が、俺の声を奪っていく。叫びたくても、もう声すら出ない。
「ハァーーーーー!!!」
ドガァァァンッ……! バリバリガラガラッ……! パリンッ……キィィンッ……!
「なっ……!?」
「な……なにごとですの……!? わたくしの美しい神殿が……!?」
突如として建物の天井が凄まじい音と共に粉々に砕け散った。何が起きたのか理解が追いつかない。だが確実に言えるのは、その衝撃で辺り一帯の視界が完全に遮られたということだ。
舞い散るガラスの破片、崩れ落ちる瓦礫、そして部屋中に充満する猛烈な煙塵。俺が倒れ伏すこの広間全体が、一瞬にして混沌へと包み込まれていく。
◆◆◆◆
「な、なんだ!? 一体何が起きている……!?」
予期せぬ異常事態に、それまで余裕をかましていたライの顔が焦りで歪む。何の前触れもなく天井が跡形もなく吹き飛び、閉ざされていたはずの夜空が広間全体へと一気に露わになったのだから無理もない。
「お前の相手は、この俺だッ!!!!」
シュインッ……!
「くっ……!? しまっ―」
キンンッ……!
煙を切り裂いて放たれた不可視の急襲。ライは間一髪でそれを刃で受け止めたものの、襲撃者はそこで攻勢の手を緩めようとはしなかった。目にも留まらぬ速度で、怒涛の連続攻撃がライへと浴びせられる。
キンッ! ガキィンッ! ザシュッ……! ガンッ! タンッ! シュラッ……!
「ぐあぁっ……!? き、貴様……一体何者だ……!?」
一瞬の交戦で幾重もの斬撃を刻み込まれ、ライは血を撒き散らしながら戦慄の声を上げた。
優雅さを保っていた女神の顔が、一瞬にして驚愕と屈辱で引きつる。完璧だったはずの領域を土足で踏みにじられ、声に焦りを隠しきれていない。
「ライ! 何をしているのです、早くその無礼者を排除しなさい!!」




