05.さいごに母の願いを託されたようです
八歳になって、しばらく。
その日、屋敷中がどこか慌ただしかった。
母の寝室には、何人もの医師や治癒魔法師が出入りをし、使用人たちも沈んだ顔をしている。
廊下には薬草の匂いが漂い、普段なら聞こえる使用人たちの笑い声もなかった。
私はみんなの邪魔にならないよう、廊下の隅で落ち着かない気持ちのまま立っていた。
なんだか胸騒ぎがする。
使用人たちは私と目が合うと、慌てて視線を逸らした。
皆が何かを知っている気がした。
嫌な想像が頭をよぎる。
私はそれを振り払うように、小さく首を横に振った。
そこで、乳母から声がかかった。
「ルシア様、お母様がお呼びです」
乳母に連れられ、母の寝室に入った。
部屋には父と姉と兄もいた。珍しく家族全員が揃っていた。
いまは学院の休暇ではないようだが、一週間ほど前に、父が姉と兄を呼び寄せたそうだった。
母の身体に日光はよくないらしく、窓には厚い布がかけられている。
部屋の中はほのかに薄暗く、厚い布の隙間から差し込む細い光だけが、寝台の白い寝具を淡く照らしていた。
寝台に横たわる母は、いつもよりずっと細く、小さく見えた。
母の調子が良いときに、寝台のそばでお喋りをした日々を思い出す。
侍女に、「そろそろお時間です」と遮られるまで、話をしていた。
母は、修道院や慈善事業の話、シルフィアのお母様との交友話、父と初めて会った時の話など、身の上話をよく聞かせてくれた。
今になって思えば、公爵夫人としての生き方を教えようとしてくれていたのかもしれない。
「お母様、ルシアです」
そう呼びかけると、母はゆっくりと目を開き、いつものように優しい微笑みを浮かべた。
「ルシア……」
とても弱い、小さな声だった。
私は寝台のそばへ歩み寄った。
母は震える手で、私の頬に触れた。
その手は驚くほど細く、少し冷たかった。
私はその手をそっと両手で包み込んだ。
「大きくなりましたね」
「お母様のおかげです」
そう答えると、母は小さく笑った。
その笑みはすぐに寂しげなものへと変わる。
「私はあなたのことが心配です」
母は少しだけ息を整えた。
「最近は神子候補として騒がれているけれど……」
少し俯いた後、母はゆっくりと顔を上げた。
「あなたは、私の大切な娘です」
蒼い瞳が、私をまっすぐ見つめる。
「国よりも、教会よりも、神託よりも……」
母の手が少し強くなる。
「私は、あなたが幸せでいてくれることだけを願っています」
「お母さま……」
「だから――」
母はゆっくり微笑んだ。
「どうか、長生きしてくださいね」
「え?」
「どんなことがあっても、自分を大切にしてください」
私は母の言葉に、なぜだか胸がざわついた。
どうしてそんなことを言うのだろう。
理由は分からない。
それでも胸の奥が締め付けられた。
――長生きする。自分を大切にする。
当たり前のはずのその言葉が、妙に心に引っかかった。
それでも、母が望むのなら。
「はい」
母の視線に対し、私もまっすぐ見つめて言葉を返した。
私の返事を聞いた母は、満足そうに目を細めた。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
その手から、ふっと力が抜けた。
眠る前と何も変わらない、穏やかな表情だった。
誰一人、声を発する者はいなかった。
部屋には薬草の香りだけが残っていた。
誰も何も言わないまま、部屋の空気が静かに変わっていった。
姉が顔を覆い、兄が唇を噛む。
父は母の手を握ったまま動かなかった。
その肩だけが、ほんのわずかに震えていた。
どこからか、誰かの泣き声が聞こえた。
やがて司祭様が静かに祈りを捧げ始めた。
その時になってようやく、私は理解した。
――母はもう、目を開けないのだと。
涙は出なかった。
母が亡くなった。そう理解したはずなのに、どこか現実味がなかった。
――どうか、長生きしてくださいね。
母のその言葉だけが、いつまでも私の耳に残って離れなかった。
その言葉の意味を知るのは、ずっと先のことだった。




