第1話 時計台にて
「どうだい?見事なもんだろ?」
背は曲がっているが、しっかりとした足取りの老年の男性が上ってきた。
ギシ、ギシと木製階段の軋む音は、まるで目の前の歯車の代わりに、痛みを叫んでいるように見えた。
「…いつから、こうして?」
男性は椅子に座り、羽ペンをインクに浸す。
日記を書くらしい。
「大したもんじゃないぞ。このでかさ、この年季からしたらな。」
ペンを浸したまま、彼は歯車を見上げる。
「10年だ。完成して動き始めてから10年。
静かだろう?完成するまでは煩くて敵わんかったが、完成してからは穏やかなもんだ。」
何かに納得したように、彼は厳かに頷き、ペン先を走らせ始めた。
「静かに暮らせるようになったと思ったんだがな。
工事と入れ替わりに、ジャックスが嫁を迎えおった。
毎日毎日、どっちもよく飽きないもんだ。」
彼は忌々しげに日記をなぞる。
『今日は”ガーベラ”だと。嫁がいてよく買い漁るもんだ。』と、
その内容が目に入ってしまい、私は目を逸らした。
「…これを。」
私は少し言い淀んだ。
言葉を伝えるだけ。
いや言葉と呼べるかも怪しい、予定を伝えるだけなのだ。
だが私には、それを淡々と告げるだけの度胸はなかった。
老人は顔も上げず私の声に応じもせず、ただ自分の言葉を綴っていた。
「これを、壊さなければなりません。」
きっぱりと言い切った。…はずだった。
言葉ではそうだ。
だが私はその中に、"逃げ"を感じた。
「そうかい。」
彼は顔を上げもせず返事をする。
そういう反応になるだろうなとは予測していた。
でも、やっぱり、寂しかった。
「ありがとう。とても良いお茶でした。」
私は彼から受け取った粗雑なマグを大事に抱え、そっと彼のテーブルに置いた。
「目利きがねぇな。安もんだよ。」
その笑いの混じった、嘲笑とも談笑とも取れぬ声は、淡白な優しさを含んでいるように感じる。
「いえ。…とても、良いお茶でした。」
「そうかい。あんたは気に入ったんだな。」
その会話を終わらせるための一言を、私は受け止めきれずにいた。
階段を降りていると、外から怒鳴り声が聞こえる。
「ガーベラ!ガーベラちゃんだって!?また楽しくお花を買ってきたの!?
まったくあんたはいつまでも!
うちに余裕がない事くらい分かってるでしょうに!」
『今日は”ガーベラ”だと。』さっき覗き見てしまった、彼の日記を思い出した。
あぁ。俗世だ。
そう感じると、ふと力が抜けて笑ってしまった。
私の仕事は、いつも世界から隔絶された気持ちになる。
でも、やっぱりここは、俗世なのだ。私は隔絶などされていない。
楽しく、醜く、面白く、めんどくさく、美しく、儚い世界。その中に確かにいるのだ。
「おーい、ローラ?準備は終わったか?」
エクレシア。世界と私を繋ぐ大事な人。
彼女の美しさもまた、この世界の輪郭を浮かび上がらせる。
純朴で力強くて、静かなワインレッドの優しい瞳。
誠実な落ち着きを持つブロンドのショートヘア。
彼女自身の強さを象徴するようなディテールだと、私は常々思う。
「はい、もう…大丈夫です。ヴィシャは?」
「あいつは最後に得物見てくるってさ。ローラ、得物は大丈夫なんだろうな?」
エクレシアは三節棍を伸ばしたり整えたりしている。
気だるげだが、その動きにブレは無い。
年季の入った鎧は、彼女の動きに音も無く追従していた。
「えぇ、問題ないわ。じゃあ、行きましょう。」
私が時計台に向き直ると、ヴィシャは大きな狙撃銃を持ってひょこひょこと現れた。
アッシュグレーの肩まで伸びた髪を揺らし、同じように銃を揺らしながら寄ってくる。
幼さを残したままの彼女の立ち振る舞いに、私は安心を覚える。
尤も、その巨大な得物に見慣れているおかげではあるが。
そしてヴィシャと時を同じくして、先程の老人が時計台から出てくる。
相変わらず、しっかりとした足取りだ。
でもその力強さは、さっきとはまた違った”意思”を感じる態度に見える。
「ハイン様。最終警告をさせていただきます。
時計台を教団にお譲りください。我々に危害を加える意図はありません。
必ずや教団の教えに則り、皆様を保護し、安寧なる生活をお約束いたします。」
私は腰に差した剣を2本抜き、逆手に持つ。
最終警告。なんと形骸的なものか。
剣を抜いたならばその後に取る行動は、一つしかない。
振るうだけ。
切先がどんなにか弱いものに向いても。
どれだけ強大な存在に向いても。
結末はどうあれ、次の行動は決まっているのだ。
「イプシアム教団とやらも随分暇なようだな。こんな井戸端会議に興じる余裕があるとは。」
その調子は、先程と変わらなかった。
だがはっきりとその響きには、敵意が籠っていた。
「我々は生憎、暇じゃないんでね。」
ハイン氏はそう言い切るが先か言い切らぬが先か、手に持った杖を機敏に翳す。
刹那閃く閃光。
杖の先から迸る雷光にも似たエネルギーの光線は、真っ直ぐ私を貫こうとした。
だが、私には届かない。
我々騎士団を守る"加護"が、その光を真っ二つに割り、周囲へと受け流す。
背後で建物が凄まじい衝撃音を上げていたが、悲鳴の一つも聞こえない。
時計台の周りの群衆と、痩せ細ったこの地に点在する民家の中からは、どよめきの代わりに冷たい視線が我々へと向けられていた。
「暇なのではありません。少しでも、犠牲を減らしたいだけです。」
込み上げる激情か悔恨か、何か分からない感情を剣の柄ですり潰し、言葉へ繋げる。
私の言葉に、周りの民からは舌打ちや、私の激情と同じか、それ以上の怒りの視線が降り注いだ。
「…変わらんな。同じ事だ。」
ハイン氏は構えたまま、再度魔術を放つ。
後方へ目を向けると、ヴィシャは無機質なその青い目を彼に向け、その場から避けもせず真っ直ぐ銃を構えていた。
その様子を見て、私は諦めを覚えてしまった。
我々が信用されてるのか、疑わしいと思われているのか。
制圧部隊の到着は迅速だった。
教団直属の騎士団が、各々が持つ得物を翳し、突きつけ、民の頭を地に付ける。
同じく騎士団である私も、本来なら同じようにハイン氏を制圧していたはずだ。
だがそれは不可能だった。
彼には今、地に付ける頭が無いのだから。
「…ヴィシャ。確かに生死は問わないとは言われてたけどよ。
何も言わずに頭吹っ飛ばすこたねーだろ。」
もう、直前の姿を知らぬ限り、ハイン氏だとは分からぬ彼を見て、エクレシアは低くたしなめた。
「でも、すぐに攻撃してきたし…私たち危なかったよ?」
不思議そうな顔をして、ヴィシャはエクレシアに向かい首をかしげている。
「激しい抵抗がありました。
”加護”が無ければ我々は一網打尽にされていた可能性もあります。
ヴィシャの取った行動に間違いはありません。」
私は慎重に言葉を選び、ようやく言い切ると、そっとため息をついた。
俯いた視界に入る自身の栗色の髪が、妙に鬱陶しい。
彼女達を置き去りにして、生きていてほしかったなどと、私が言えるはずもない。
「ほら、ローラもそう言ってるし!死んでもらうしかなかったじゃん!」
ヴィシャは少し頬を膨らませ、彼女に抗議する。
「…おい、ヴィシャ。」
その言葉を聞いて、堪えきれぬ怒りを滲ませて、エクレシアが一歩詰め寄る。
私も今の言葉には、少し反応してしまった。
「…もう、いい。ローラ、仕上げだろ。」
「あ、あぁ…そうね。」
ヴィシャは、変わらずふくれっ面をしていた。
彼女の顔をあまり見ないようにして、私は膝立ちから立ち上がる。
時計台の破壊が終われば、私たちは帰れる。
そうすれば頭を飛ばされた彼も、酷く軽蔑の目を向ける群衆も関係ない。
次の”交渉”へと切り替えられる。
そう思っても、時計台と対峙した私の手は酷く重かった。
ようやく持ち上げた腕は、速やかに背中に負った聖剣を抜き、天を衝く。
「代行者、ローラが今誓います。
この堕ちた遺物に断罪を。遺物に魅入られし子羊に救済を。
御身の御力を振るうこと、ひとときだけお赦しください。」
祈りを込め宣誓する。
雷鳴が轟く。
一筋の雷光が天より放たれ、手にした聖剣を打った。
何度も繰り返したこの準備だが、未だにこの感覚は慣れない。
超常なこの感覚よりも、この身に溢れる”制御が保障されない力”が恐ろしい。
早く終わらせたい。
その一心で、あれだけ破壊を拒んだ時計台に向けて剣閃を放つ。
聖剣より放たれた斬撃は古びた時計台を貫き、役目を終えたかのように、その時計台は轟音を立てて崩れ去った。
不自然なほど静かだった時計台の、激しい崩落音は、私に大きな爪痕を残したように感じられた。




