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母の故郷で


 アルは引きちぎられそうな堪忍袋の緒を繋ぎ止めようと、全力で格闘していた。

「だめ?」

「駄目だ」

「どうしても?」

「駄目だったら駄目だ」

「…どうしても…?」

 小首を傾げ、涙をいっぱいに溜めた目で見上げてくる彼にとっての諸悪の根源、三姉弟の末弟であり新興貴族エルギン家の隠し子マティアスに、ついにアルは緒を繋ぎとめる努力を放棄した。

盛大な音を立てて堪忍袋の緒と、ついでに頭のどこかの血管が切れた。衝動のままに脳天に握り拳をぶち落とす。

拳骨を喰らう前から既に潤んでいたマティアスの両目からぼろぼろと雫が落ちる。

「いたいよー! ひどいよー!」

「ひどいのはお前だ!」

 おろおろとマティアスを心配する長女カザリンと眦を吊り上げた兄アドルフを無視し、アルは怒鳴った。

「何が『お母さんのふるさとを見たい…』だ! お前、お貴族様が探してやがる嫡子様ってのが自分だってわかってんのか! 我侭もたいがいにしろ!」

「でも、でも……」

「俺のことは百歩譲って置いといてやる。俺はいつでも逃げられるしな。だが、お前が見つかれば姉さんと兄さんも捕まる。二人は多分殺されるぞ。それ考えて言え。お前がやりたいことは、子どもの我侭で済まないことなんだ」

 ぐっと言葉に詰まり、それでもまだ口の中で舌を動かしながらぐずぐず啜り上げるマティアスに背を向け、アルはこの三日間で数え切れないほどついたため息を再び吐いた。

 宿場町フィルグを出発した夜から数えて3度目の夜明け。

ようやく一行は、ベリソルズの南端で、崖山脈を隔ててレアンゴー王国と接する町ヘンジのすぐ傍まで辿り着いた。

 途中でマティアスが足を痛めて背負うはめになったり、常備食だけでは物足りないので小刀でウサギを仕留めて子ども達を驚かせたり、夜の森が怖いとぐずるマティアスを叱り飛ばしたり、松明が欲しいという三姉弟に「敵に自らの場所を教えてどうする!」と雷を落としたり、思い返せばキリがないほどの苦労をしながら、なんとかヘンジが見えるところまでやって来た。

 世間知らずで山野知らず、そして生き残る術も知らない甘ったれたガキ三匹と旅をするのがこれほど大変だとは。

(くそっ……あのとき目的地まで付き合ってやるとか言うんじゃなかった…)

 上の二人、カザリンとアドルフはまだいい。

カザリンはいつも怯えたようにアルを窺い、アドルフはやたらこちらを警戒して敵対的な態度を取るが、理屈で話は通じる。

問題は、諸悪の根源のお子様である。

 今までの件は大陸の外全てを覆い尽くす大海ほど、心を広くしてやって許してもいい。だがここに来て、まさかの「ヘンジの中に入りたい」ときた。

三兄弟の両親はヘンジの領主に仕えていたが、父が病死し、メイドである母の収入だけでは生活が苦しくなったとき、屋敷を訪れた首都の新興貴族エルギン家の当主が倍の収入を提示して引き抜いた。母と姉兄を連れて首都に居を移した。

 ところが実際のところ、エルギンは端から三姉弟の母を手篭めにする気であり、ヘンジに戻ろうにもエルギンが巧妙に阻止し、結局妾とされてしまった。

 エルギンは気性の激しい奥方に内緒で女を屋敷に囲ったわけだが、子どもを身ごもったことがきっかけで三姉弟の母親が当主の妾だということが露見してしまい、激昂した奥方に母親は大きな腹と姉兄を抱えて放り出された。

 そして今に至るまで、エルギン家は三姉弟と母親を放置していた―――ということを、道すがらアルは聞いていた。

(ヘンジが親の出身地ってことは知られてる。子どもが行くことは真っ先に考える。しかもヘンジの領主とエルギンの当主は懇意にしてるんだ。手が回ってないはずながない)

 大変不本意ながらエルギン家末子の逃避行の護衛兼案内役となっているアルとしては、断固として許すわけにはいかない。危険すぎる。

「あの……」

 まだべそをかいているマティアスの頭を撫でながら、おずおずとカザリンがアルに声をかける。

「なんだ」

「変装とか、できませんか? 母が、ずっとヘンジはいいところだ、帰りたい、お前にも見せたいって…ずっとこの子に言ってたんです。だから……」

「どうしても、何とかならないか」

 捨てられた子犬の目が三対、じぃっとアルを見上げてくる。しかも二匹は涙目。

 アルは天を仰いだ。

 十三から一人旅を続けるアルは、自分は何もせず、何でも人に頼って叶えてもらおうとする、甘ったれが大嫌いだ。特に自分の器を見誤り、親の威光を笠にやりたい放題の貴族のガキなどはしばき倒したくなる。実際、過去にキレてぶちのめしたこともある。

 だが三姉弟は、自分の力量は正確に把握している。自分で考え、その中で最善を尽くして行動している。今はその上で、どうしても駄目かとお伺いを立てている。

現実は理解していても、切実な願いを諦めきれないのだ。

(………あーもう、なんで俺には良心とか人情とかあるんだ…くそっ)

 感情を交えず、任務だけを淡々と遂行してしまえば楽なのに。どうしてこう、自分を苦しめるようなことをしてしまうのだろうか。自虐癖はないはずなのだが。

 盛大に盛大に嘆息し、アルは腰に手を当てた。

「始めにも言ったが、俺は俺がどうにもできない事態になったら遠慮なく逃げるぞ。その後お前らが捕まろうが殺されようが拷問されようが、知ったこっちゃない。わかってるな?」

「……ああ」

「ヘンジの中に入ればそういうことが起こる可能性が極めて高いってことも、わかるな?」

「…わかります」

「それでも行くって言うんだな?」

「いきたい! おねがい、いかせて!」

 マティアスが潤んだ瞳で志願した。アルは憮然として頷いた。

「わかった。ちょっと待ってろ」

 言うが早いか、アルはするりと木立の奥に消え、しばらくして戻ってきた。

「…この木の実は?」

「人間は人を探すとき、特徴を目印にする。髪の色は遠目にもわかるから、まずはそこで選別するだろう。こいつはすり潰せば黒色の染料になる。長い間もつものじゃないが、半日くらいはお前らの髪を誤魔化してくれる」

 ヘンジはサントゥラール大陸の西北部にあるベリソルズの南端なので、南部の人間に多い黒っぽい暗い髪色と、北部に多い金から茶の明るい髪色が入り混じっている。これがもう少し北なら黒は逆に目立ってしまうが、ここなら問題ない。

 木の実を載せた木の葉を「さっさと受け取れ」と押し渡すと、カザリンがおっかなびっくり手を差し出した。

 と、がばりと腰に熱い体がまとわりついた。

「ありがとう! アルお兄ちゃん、ありがとう!」

「だーもう! 俺はどうなっても知らんからな!」

「うわーん! ありがとう! うれしいよー!」

「抱きついたまま泣くなー! 鼻水がつく!」

 かわいい顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにするマティアスをアルは必死で引き剥がそうとしたが、マティアスはなかなか離れようとはしなかった。




 すぐにでもヘンジの町に入りたがる三姉弟に「旅人ってのは昼下がりに町に入ることが多いんだ! こんな朝っぱらに行ったら怪しまれるに決まってるだろ!」と何度目かの雷を落とし、一行はまず休みを取った。

 夜通し歩いていた疲れがあったので、子ども達は横になるなり夢の世界へ旅立っていく。

(うらやましいこって)

 夏の太陽が木漏れ日となって心地よく肌を温める。子ども達は気持ち良さそうに眠っている。

その横で羊皮紙を広げながら、アルは欠伸をした。手紙を書いているのだ。

からっとして適度に暑いので、冬が長く厳しいサントゥラール大陸西北部のベリソルズでは夏が一番過ごしやすい季節だ。避暑にはは最適での気候ある。南部の同盟国の貴族が避暑にやってくるのも頷ける。

 手紙はレアンゴーの知り合いに宛てたものだ。大陸中を旅しているので、知り合いは多い。

(…ったく、なんで俺がこんなことまで…)

 ぶつぶつ文句を言いながら、最近の出来事や逃避行に巻き込まれた経緯を記し、子ども達のことを頼む。

人格者で通っている金持ちなので、何かと力になってくれるだろう。

(本性はなかなかえげつないけどな)

 脳裏に浮かんだ知り合いの顔に毒舌を吐きながら、アルはなかなか達筆な字で便りをしたため、くるくる丸めて蝋を溶かし、印章を押して封印する。

 ひゅっと短く口笛を吹くと、ぱたぱたと手のひらより大きいくらいの美しい鳥が二羽、肩に降り立った。

 山野育ちのアルが常に連れて旅をしている、フォーデルという種類の鳥だ。

孵ったときに目の前にいるものを母親や主人と認識する性質があり、『フォー』と『デル』というなんとも単純な名を付けた二羽を、アルは雛から育てて伝書鳥としてずっと使っている。

 濡れたような藍色の羽が美しいフォーデルは非常に頭が良く、音を使って一度記憶させた場所は忘れない。伝書鳥といえば鳩が一般的だが、鳩は鷹などに捕食される可能性がある。だがフォーデルは小型だが肉食で飛行速度も速いため、その心配がない。

 高山帯に棲息していてなかなか捕まえることができないため、大変貴重な益鳥なのである。

「よしよし、今日はデルに頼むな」

荷物に入れていた、手紙が入る大きさの筒に手紙を入れてきっちり蓋をし、頭に白い冠がある方のデルの首に取り付ける。

 デルはつぶらな瞳でアルを見上げ、アルはレアンゴーの首都を示す音を口笛で吹いた。デルはアルの肩を一度ぎゅっと掴んでさっと空に舞い上がる。

(あとはお子様達を遺跡の入口まで送り届ければ、一件落着だな)

 三兄弟は遺跡を抜けると言っていたが、さすがにそこまで付き合う義理はない。

夏はまだしばらく続くし、アルはベリソルズを出る気はなかった。

 欠伸がもう一つ出た。ずっと気を張っているので、そろそろ疲れが溜まってきている。

「さて、俺も寝るか」

 一番の難所がこの後に待っている。アルは万全の状態で臨むため、ごろりと草むらの上に体を伸ばした。




「ここがヘンジかあ!」

「大声出すな!」

 門をくぐって感極まって大きな声で感嘆したマティアスを、兄アドルフが叱り付ける。心配そうに辺りを見回すカザリンに、アルはあさっての方を見ながら小声で注意した。

「堂々としてろ。挙動不審なやつは見つかりやすい」

「……はい」

 それでも張り詰めた顔なのは、仕方がないだろう。レアンゴーまでの道のりで、ここが最大の山場である。アドルフも初対面のときぐらい険しい顔をしている。

 ヘンジは煉瓦造りの家や店が建ち並ぶ、川の端にある牧歌的な素朴な田舎の町だ。

主産業は酪農で、細々とだが葡萄酒も造っている。牛舎などは離れたところにあるようだが、どこか草と動物の匂いが漂っている。

土の性質か、煉瓦が白っぽいところ以外は他の町と変わりない。南北に走る大通りを中心に、放心円状に建物が広がっており、町の外周をぐるりと高い塀が取り囲む。よくある貴族居住地の町のなりだ。

(…この塀が厄介だな)

 初めて訪れたヘンジを観察しながら、アルは口の中で舌打ちした。

 単純なつくりなので、門の場所はわかりやすい。だが、わかりやすいため網を張りやすく、逃げにくい。追う側に圧倒的に優位な地形だ。

 予想していたことだが、至る所に歩哨がおり、町の住民や旅人に目を光らせている。

立ち方一つとっても野暮ったく全くなっていないが、この数の多さなら問題ない。

(あーくそ、やっぱ認めるんじゃなかった)

 がりがり頭をかいてはみたが、後悔先に立たずとはこのことである。

だが幸いにして、三兄弟が思いのほか『普通の旅人』のように振舞ってくれているのは僅かばかりだが救いだった。

 最初の歓声以外、マティアスは声は上げず、むしろじっくりと味わうように町を歩いている。この町で幼少期を過ごしたカザリンとアドルフもはじめこそ緊張していたものの、故郷に戻ってきた安堵から表情が和らぎ、感慨に浸るようにあちこち眺めている。

「買い物するから、あんま離れんなよ」

 見ることに集中している三姉弟にそう告げ、アルは大通りにぽつぽつ店を広げている露店で旅に必要そうなものを見繕いながら進んでいく。

 金茶と濃い亜麻色の髪は、カザリンが懸命にすり潰した木の実のお陰で黒に染まっていて、ヘンジの町では全く目立たない。これだけ普通の行動をしていれば、挙動と髪で目を付けられることはなさそうだ。

(でもなぁ、このまま終りそうな感じは全くしねぇっていう…)

 アルは自分の勘を信用している。町に入った瞬間から、何だか胸に凝るような嫌な予感を覚えていた。

 目に付いた果物を買っているアルの後ろで、マティアスがぽつりと尋ねた。

「…お母さんは、あそこにいたの? お父さんも?」

 マティアスは一際高い建物をじっと見つめていた。一つだけ石造りの建物。領主の館だ。

「そうだよ。領主さまのお屋敷にいたのよ」

「あの向こうの広場で、屋敷の子どもみんなで鬼ごっことかしたな」

「いいな。楽しそう」

「時間があいたら、お母さんが見に来てくれたね」

「…笑ってたな」

「……うん」

「きれいだった?」

「とってもきれいだったさ。だからあいつが…」

 ぐっとアドルフが拳を握り締めた。ちょうど店主が包みをくれたので、アルは「次行くぞ」と促した。

 誰かに会話を聞かれていないか冷や冷やしたが、歩き出しても付いてくる者はいない。大丈夫だったか、とアルは詰めていた息を吐き出した。こんなところで母親と屋敷の話をするなど不用意すぎる。舌打ちが漏れる。

 ―――次の瞬間、奇妙な浮遊感と共に辺りの人間が消えた。

 道や建物、露店の商品などもそのままだ。だが、アルと三姉弟以外の人間が誰一人としていない。

「え……?」

 子ども達は何が起きたのか全く理解できず、呆然とする。突然人間が消えるなど、有り得ない。

ただ一人、アルだけが正確に見抜いていた。

(結界、だと?!)

 アルは自分の想定を遥かに越えた事態に巻き込まれたことを覚った。

(たかが逃げ出した貴族の息子探しに呪法士(じゅほうし)だと?! 嘘だろ?!)

 人間でありながら『精霊や神の力を宿す者』が、時折生まれることがある。

 昔は国によって魔法使い、まじない師、奇跡の主など様々な呼ばれ方をしていたが、現在ではそういった者を総称し、『呪法士』と呼ぶ。

 呪法士は神々や精霊が司る領域、つまり自然現象や人智を超えた事象を操る力を持っている。たとえば風や炎を意のままに起こし操ることができる。更に力の強い者は精霊や神々を召喚し、天変地異を起こすことができるし、結界と呼ばれる異空間を作りだして人間を一時的に閉じ込めることもできる。――まさに今のように。

 カツン、革靴の音に反射で振り向く。

 爬虫類のような男だ。夏の昼下がりだというのに毛織の黒い外套で体をすっぽりと覆っている。のっぺりとした凹凸の少ない青白い顔の中で、糸のように細い眼がきょろりと三兄弟とアルを睥睨した。

「……なるほど、護衛がついていたか。しかも変装まで……どうりで街道の網にかからぬわけだ」

 アルは咄嗟に三兄弟を自分の背に回した。呪法士相手に後ろも前もないが、守る対象が前にいると気分的にやりにくい。

 呪法士はにやりと笑い、指を鳴らした。

「ひっ…!」

 カザリンが喉の奥で悲鳴を上げる。十二人の男が床からずるりと滑り出て、ぐるりとアル達を囲んだ。焦りながらも、アルは冷静に状況を分析した。

(エルギン家直属の私兵か…、ガキ連れじゃさすがに無理だな。この結界からしてあの蛇顔も相当な使い手だしな……くそ!)

 とにかくこの結界を脱出しなければ、なぶり殺し以外の未来はない。

「こんなお出迎えがあるとは思わなかったな。呪法士がこんなとこまでやって来るとは、そんなにおたくら暇なのかい?」

 必死に視線と思考を巡らせながら、アルは余裕を装って肩を竦めた。

「なに、どうせフィルグくんだりまで来ていたんだ。ここまで足を伸ばしたとて、さほど変わらん」

「くんだりってことは、首都かどっかから来たのか」

「まあそんなところだ」

「へえ、わざわざご苦労さんなこって。何故?」

「我が主の命だ」

「…主? 変だな、ベリソルズでは、呪法士は必ず士官させられるはずだけど」

 蛇顔が眉根を寄せた。失言に気付いたらしい。

 慎重そうな面構えだが、意外と口が軽いのかもしれない。アルはさりげなく突破口を探しながら、意識的に唇の端を吊り上げた。

「国に内緒で私的に呪法士を召し上げるなんて、エルギン家のご当主は何か後ろ暗いことでもなさろうとしていると思われるぜ?」

「……お前達が口を割らなければ済む話だ」

「あーそれ完全に口封じに殺すって言ってるのと同義だぜ」

「貴族の嫡子を誘拐するなどという愚行をなした割には、頭は悪くないようだな」

「ほっとけ」

 子どもの誘拐などしていない。むしろ誘拐されたのはアルの方である。

 細い目を更に細める蛇顔にアルはしかめっ面でそっけなく返し、さりげなく腰に手を当てた。後ろのカザリンが買い物したばかりのものを持っていた。

状況を打開する一手が、その袋の中に入っていることに思い当たったのだ。

(しかし、隙がな……)

 鍛えた者なら、戦わずして相手の強さは肌で感じられる。向こうも、アルが相当な手練であることはわかっているだろう。だから互いに間合いを計っているのだ。

 アルと蛇顔と睨み合う。アドルフは姉と弟を守るように構え、カザリンは買い物袋を片手に、マティアスを抱きしめる。緊迫した空気が場を支配する。どちらが先に動くか。

 隙は、思わぬところからやって来た。

「………なくなった物は、見つかりましたか」

 小さな、震える声が静寂を破った。アルの心臓を見えない手が握り潰す。

 カザリンだった。マティアスを庇いながら、必死に怯えを押し隠しながら、カザリンはそれでもまっすぐに蛇顔を見つめていた。

何を問うているのか、アルには見当もつかなかった。

だが兵士達がざわりと色めき立ち、蛇顔が目を剥いた。

「お前だったのか…!」

 蛇顔が忌々しげに吐いた。意識がアルからカザリンに逸れたその一度きりの好機を、アルが見逃しはしなかった。

 べちゃり! アルが投げた葡萄の房が、道の角にあった手のひらほどの石ころにぶつかって弾けた。果汁が染み出し、石と地面に垂れる。

 ぐうっと蛇顔が苦しげに襟元を掴んだ。術が破られて反動に襲われたのだ。

「葡萄、だと?! 貴様、なぜそんなことを知っている!」

 驚愕と憎悪が入り混じった表情で蛇顔が質した。アルは片頬を歪めた。

「場数は踏んでるもんでね」

 葡萄酒は神に奉げる酒だ。場や人を清め、穢れや呪法を打ち消す効果を持つ。

その材料である葡萄にも当然、呪法を強制的に解き、かけた呪法士に跳ね返す力がある。結界の要に房をぶつければ、異空間は融ける。

 刹那、喧騒と供に人間が戻ってきた。結界が壊れた。

「おのれ…! お前達、捕らえろ!」

「うわぁああ! 人が刺されたぞぉ! 兵士が人を刺したぞぉ!」

 怨嗟の唸りを漏らして蛇顔が配下に命じるのと、大仰な演技でアルが叫んだのは同時だった。だがアルの声の方が大きくよく通った。大通りの人間が一斉に振り返る。

 べちゃり! 再びアルが放ったトマトが、今度は蛇顔の胸に染みを作った。

 刺されたという声を聞いている人々は赤い跡を見て、誤解して悲鳴を上げる。何事かと野次馬が集まってくる。

「今だ、行くぞ!」

「あ、ちょっと! ドロボー!」

 近くにあった布屋の生成りの布を三枚失敬し、アルは号令をかけた。三姉弟が慌てて駆け出す。完全な火事場泥棒だが、命と窃盗なら命の方が重い。

 走りながら三姉弟に布を渡して被らせ、家が建ち並ぶ路地に入る。

 遺跡は町の南東だと言っていた。南の大門へ向かうより、南東の生活用の門を抜けた方が早い。

 時間との勝負だ。見つかったことはすぐに伝わるだろう。この狭い町で、兵士を門に配備するのに手間取るとは思えない。

「あっ!」

 マティアスが転んだ。じわりと涙が浮かんだが、すぐに立ち上がる。アドルフがその手を引いてまた走り出す。

 家の向こうに連なる塀の先に門の頭が見えた。もうすぐだ。間に合うか。

 角を曲がる。アルは唐突に立ち止まった。三兄弟が背中にぶつかる。

「さて、さて、さて。ここまで辿り着くとは全く予想外だったよ、マティアスや」

 なかなかの体格の男が、鎧の兵共を従えて門を塞いでいた。

 夜会などでは奥方達に人気そうな、目鼻立ちの整った快活そうな容貌だ。若く見えるが、確かもう六十近いはず。贅沢な飾りに彩られた絹の服を纏っている。だが、マティアスよりも薄い藤色の双眸に、隠しきれない残忍な光が浮かんでいる。

 目を丸くするマティアスを、真っ青になったカザリンが抱き寄せ、怒りで赤くなったアドルフが男の視線から弟達を庇うように仁王立ちした。

「……リカルド・エルギン…!」

「おや、おや、おや。小汚い小僧に呼び捨てにされるほど、儂は安くはないぞ」

 男が片手を上げると、ざっと後ろの兵士が剣を構えた。

 アルは目を眇めた。やはりこの男がマティアスの父である、首都の新興貴族エルギン家当主なのだ。

 アドルフは自分に向けられた切っ先に一歩も引かず、エルギン家当主を睨みつけている。だがかすかに震えているのが近くにいるアルには見えた。

(あー、こりゃほんとにまずいな。俺一人じゃどうしようもない)

 いつの間にか後ろも囲まれている。まさに八方塞がりだ。いくらアルが武術の達人でも、三人を守りながらこの人数とは戦えない。一人で逃げるなら何とかなるだろうが。

 選択のときかと観念しかけたとき、横にいるアドルフが歯噛みした。

「くそっ…! 遺跡にさえいければ…あいつらが言ってたのに…!」

 思わずアルはアドルフを横目で見た。眉間に更に皺が寄る。

(あいつらが言ってた? どういうことだ? ……遺跡に何かあるのか? おいおい、姉といいこいつといい、何隠してやがる…)

 そのときエルギンがふいにアルを凝視した。探るような値踏みするような、落ち着かない視線だ。何事かとアルは訝った。

 しばしの間。エルギンは信じられないといわんばかりの口調で問うた。

「土色の髪に、黒とも緑ともつかぬ目……お前、アルベール・ハインか」

 背筋を氷の手が撫ぜた。

 蛇顔の反応からして、逃避行を導いていたアルの存在をエルギン側は知らなかったはずだ。では何故、この男はアルの名を知っている?

 ひとまずアルは肩を竦めた。

「………さあて、誰のことかな」

「とぼけるということは間違いないな。お前が裏の世界では有名な、在野の呪法士アルベール・ハインか!」

 子ども達が目を瞠った。アルは眉一つ動かさない。

「士官を嫌って大陸の盟主レアンゴー王国の徴兵を逃れ、己の身一つで大陸中を逃げ回っている凄腕の呪法士であり、武人であり、密入国の常連として指名手配されている男がこんなところにいるとは! しかし、いやはや……見た目の小ささでは、人間の本性はわからぬものだな」

 最後は皮肉のつもりか。なっていない。

 舞台俳優のように大きく手を広げ、リカルド・エルギンは哄笑した。子ども達が不安げにアルとリカルドを交互に見つめる。

「今日はなんと良き日だ! 我が嫡子を取り戻し、たぶらかした血筋の劣る姉と兄、そして在野の呪法士をこの遺跡の町ヘンジで捕らえることができるとは! ―――お前も子どもの逃避行の手助けなどしなければ、道半ばで倒れることなどなかっただろうになぁ」

 大きな唇をにやりと下品に歪め、リカルドは軽蔑と満足の篭った視線でアルを舐めるように睥睨した。アルは脱力した。

 知られてしまったのならば、仕方がない。こんなところで死にたくはない。

「アルベール・ハイン、我が嫡子マティアス・エルギン誘拐の罪、並びにベリソルズ国不法入国の罪で拘束する」

「…あー、そりゃ困った。俺はまだまだ人生自由に楽しむつもりだってのに」

 心底だるそうな、全く切迫感のない口調にリカルド・エルギンが怪訝な顔になった。だが次の句を継ぐ前に、アルが機先を制す。

「エルギン家のご当主。この辺りに狼が生息していることを、御存知かな?」

「は?」

 突拍子もない問いかけに、エルギンも兵士も子ども達も一瞬止まった。

 アルは指を口に咥え、思いっきり息を吹き出した。ピイイイ! 甲高い指笛が空気を切り裂く。

「……お前、何をした?」

「おお、馬鹿にしないってことは、あんた、そこそこ頭回るらしいな。死にたくないなら、逃げた方がいいぜ? ほら、聞こえるだろ?」

 貴族相手に不遜に語りかけるアルを、誰も咎める余裕はなかった。

「獲物を求める、獰猛な狩人の足音が」

 言葉につられて門の外を振り返り、屈強な体格と技を誇るエルギン家自慢の私兵達が我知らず足を退く。

 狼の大群だ。それも並の狼ではない。

 崖山脈に棲息する、輝く銀の毛並みと牛ほどの体格を持つ、雪狼だ。

 驚愕に呑まれて鍛えた兵士さえ金縛りに遭う。

 雪狼の群れはあっという間に山肌を駆け下り、畑を飛び越え、ヘンジの門に突っ込んできた。

「うわぁあ!」

「ぎゃぁあああ!」

「た、たすけ…ひぃい!」

 雪狼たちは兵士を前足でなぎ倒し、歯を剥き出しにして唸る。あるものは鋭い爪で地面を何度も引っかく。血のような紅の眼で物色するように睨めつけるものもいる。

 足が動くようになった者から、兵士達は走って、あるいは這って逃げ出していく。

 群れの中で一際体格のいい雪狼が一頭、アルと三姉弟に駆け寄った。三姉弟が声もなく震え上がる。

 アルは友人にやるように、片手を上げて「よっ」と挨拶した。

「悪いな。こんなとこまで来てもらって」

『何の、山の善き友のためだ。してアルベール、いかがした』

「ちょっとこのガキ共連れて逃げたいんだ。乗せてくれねぇか」

『承知した』

 群の主である雪狼は一声吼えた。すぐに群れの中でも小さな雪狼が二頭やって来る。

 固まる三姉弟を振り返り、アルはくいっと親指で雪狼を指した。

「捕まりたくなきゃ乗れ」

 三姉弟は呪法士でもなんでもないので、アルが雪狼と話している内容は一切わからない。

だが確かに会話が成立していたらしいことは察していた。

 それでも目の前の恐ろしげな動物に姉と兄は躊躇したが、一番小さな体がすっくと立ち上がった。

「いこう。だいじょうぶだよ。アルお兄ちゃんがいってる」

 カザリンとアドルフは顔を見合わせ、頷き合っておずおずと雪狼に近付いた。雪狼は子ども達が乗れるように、地面に腹ばいになる。三姉弟はほっとしたようにアドルフとマティアスが一頭に、カザリンがもう一頭の背に乗った。

 自分は主に飛び乗り、アルは厳しい顔で告げた。

「遺跡が近くにあるだろう。そこに行ってくれ」

 西の空に太陽が沈もうとしていた。神々と精霊の時間が始まろうとしていた。




 真円の月が木立の間に見える。美しい満月の光に、夢見た遺跡が冴え冴えと浮かび上がっている。

 急な斜面に、大きな大きな、大人の倍ほどの大きさの黒く平らな鏡のような岩が二つ、門扉のように屹立している。それを取り囲むむように、白い砂岩が隙間なく組み重ねられている。精緻な紋様は風雨に削られていたが、年月を経た神秘的な威容を醸し出している。

 どうやって入るのだろうか。岩の扉を開けなければならないのだろうか。子どもの細腕ではもちろん、大人が束になっても開きそうにないが。

 どさりと音がして、アドルフはそちらを見た。

 アルが遺跡の前の石に腰を下ろし、顔を上げた。

 これまで雷を落とされたり小言を喰らったりしたことはあったが、三兄弟はアルを怖いと思ったことはなかった。

 だが今、確かに、彼に恐怖を感じている。

「俺を舐めるなよ」

 アルは開口一番、地を這う低い声で吐き捨てた。

 無表情の顔の中で、黒とも緑ともつかない不思議な色の双眸に怒りの炎が燃えている。びりびりと張り詰めた空気が、痛い。

「ここまで巻き込まれてやったんだ。ちゃんと事情を説明しろ。でなきゃ俺にも考えがある」

 考えとは何なのだろう。三姉弟は想像してみたがわからなかった。だが恐怖を煽るのには充分な言葉だった。

 カザリンは蒼白な顔で俯き、マティアスは目を潤ませてアドルフの裾を握っている。

 雪狼はもういない。崖山脈の中腹の森にある遺跡の前で四人を下ろし、帰っていった。見た目こそ獰猛だったが、体は温かく、走るときも落とさないように気を遣ってくれているのがわかった。安心した。

 だから雪狼より、今目の前にいる、数々の修羅場を潜り抜けてきたであろう在野の呪法士の方が、よっぽど怖かった。絞め殺しそうな眼で自分達を睨んでいる。

 マティアスは何も知らない。カザリンは声を出せそうもない。

(俺は男だ。二人を守るって、母さんと約束したんだ)

 覚悟を決めて、すうと息を吸い込み、アドルフは口を開いた。

「母さんが死んで、商人の家を追い出されて途方にくれてたとき、たまたまフィルグのホーエン家の一行と行きあったんだ。ヘンジの近くだし、ダメもとで雇ってくれないかって頼んだ。……頼まなきゃよかったんだ。エルギン家と仲良くしてるなんて、知らなかった」

「……行き合ったのは、仕組まれてたのか」

 声は尖ったままだが相槌を打ってくれたことに、少しだけ肩の力が抜ける。

 アドルフは悔しそうに頷いた。

「そうだ。でも気付いたのはエルギン家の息子どもが死んで、あの男がホーエン家に来たときだった」

 思い出すだけで鳥肌が立つ。

 今年の春、長い冬が終って花が咲き乱れる、ベリソルズの一番美しい時期のことだった。

 執事に三人でホーエン家の最上階にある一番いい客間に来いと命じられ、何事かと恐る恐る向かったら、あの男がふんぞり返って座っていた。

 やられた、と理解したときには遅かった。

「我が息子マティアスを、嫡子としてエルギン家に迎え入れる。お前達にはこれをやるから、どこへでも行くがよい」

 ぽんと放られた皮袋の中には、見たこともないほどたくさんの金貨が詰まっていた。これほどの金があれば、カザリンと二人なら小さな家を買って悠々と暮らしていけるだろう。

 だがアドルフは反射的に袋をリカルドに投げつけ、怒鳴った。

「弟はこんなに安くない! 母さんを捨てて、今まで弟も放っておいたお前に、弟は渡さない!」

「下男風情が。私は貴族だ。命令に逆らうなら、不敬罪で首を撥ねるぞ」

「そんなもん知るか! 弟はお前のものなんかじゃない、母さんの…ブリエル・イエナの息子で俺達の弟だ! マティアス・イエナだ!」

 怒声を叩きつけるが、リカルドは眉一つ動かさず、億劫そうに手を振った。

 するとアドルフの倍ほどの背丈の男が二人、音もなく現れてアドルフを床に引き倒した。カザリンとマティアスが悲鳴を上げる。

「お前くらいいつでも消せるが、それはそれで面倒が増える。私としては無用な殺生は好まんのだが、どうかな、マティアス?」

 突然話をマティアスに振ったリカルドにアドルフは「外道!」と叫んだ。

 悪戯好きだが心優しく、家族思いの弟が何と答えるかなど、わかりきったことだ。

「……お兄ちゃんを、はなしてください」

「では、我が嫡子としてエルギン家に入ってくれるな? そこの二人と、縁を切るな?」

 マティアスは真っ青になって震えながら、それでもはっきりと頷いた。

 カザリンがわっと泣き出して弟を抱きしめる。アドルフを押さえていた男達がすっと離れ、アドルフは奥歯を音がするほど噛み締めながら、小さな弟を抱きしめた。

(守るって、母さんと約束したのに…!)

 どうしてこんな男の都合に翻弄されなければいけないんだろう。貴族って何がそんなに偉いのだ。どうして自分はこんなに無力なんだろう。

 怒りと憤りと情けなさと虚しさが胸の中でぐちゃぐちゃに暴れ回る。

 リカルドは満足げに顎を撫ぜ、言った。

「まあ、私も情のない魔物ではないからな。死んだ息子や妻のこともあるし、あと三月ほどは待ってやろう。詳しい日取りはまた知らせる。それまで姉や兄と過ごすんだな」

 怒りに燃える目でアドルフは憎き男を睨みつけたが、できたのはそれだけだった。

 それからまもなく、リカルドは首都から遠く離れたホーエン家に度々訪ねてくるようになった。

マティアスのご機嫌伺いという名目らしいが、息子と対面するのはいつも僅かな時間だけ。ずっとホーエン家の当主と二人きりで何かしているらしかった。アドルフは不審に思った。

(もしかしたら、別の目的があるのか?)

 下男仲間に、屋敷の構造には詳しい者がいた。無口な男だが彼は三姉弟に同情的で、口も堅かった。

 アドルフは「弱みを握れたら弟を取り戻せるかもしれない」といって頼み込み、道を教えてもらってリカルドとホーエン家の当主が長い時間を過ごす、最上階の客間に忍び込んだ。

 聞こえてきたのは、アドルフの予想を遥かに越えた悪辣な企みだった。

「あの遺跡に魔物が封じられているのは、本当に確かなんでしょうな」

「間違いありません。ヘンジにも真裏にあたるレアンゴー側の町にもそういう伝承がある。それに内密に遺跡へ人をやって調べさせましたが、強い魔物の気配を感じる、と」

「なるほど。だが問題は、どうやって手に入れるかですな」

 二人はベリソルズ国に反感を持ち、遺跡に封じられているという魔物を従えて力に変え、王を斃して新しい国を打ち立てる計画を練っていたのだ。

 これは弱みどころの話ではない。表に出れば、エルギン家もホーエン家も累計に及ぶまで断絶される。

 公表すれば弟を守るどころか、殺してしまうことになる。

「だから姉貴と一緒に、必死で考えたんだ。どうすれば弟を守れるか。……それで遺跡を利用して、レアンゴーに行くことを思いついた。そもそも俺たちは、あの遺跡はもっと別のものだって聞いてたんだ」

「どういうことだ?」

 ずっと黙って傾聴していたアルが、怪訝そうに尋ねる。

「母さんは、あの遺跡は『試練の道』だって言ってた。あの遺跡には、願いを叶える精霊がまつられていて、本当に叶えたい願いごとがあるとき、命をかけて挑む。何とか精霊の前まで辿り着いて『正しき奉げ物』を差し出せば、願いを叶えてくれる。…俺たちはそう聞いた」

「……まあ精霊も魔物も、元をただせば同じものだからな。そういう齟齬はわからなくもない」

「せいれいとまものが同じ?」

 アルの呟きにマティアスが首を傾げた。

 しまったという顔をしてから嘆息し、アルが面倒くさそうに説明する。

「天地創造神話は知ってるな? 大地の女神エオルザ、天空の神ヘオフォン、蒼海の神ウェタールが大陸や動物など、様々なものを創った。そのとき精霊も共に生まれた。だが中には悪さを働く精霊もいて、それが後に魔物と呼ばれるようになったんだ」

「魔物は西の海の生まれじゃないのか?」

「聖教会はそう言うが、あいつらは都合の悪いことは色々隠してやがるんだ。西の海に本当に魔物がうようよしてるのかも実際には定かじゃない。誰も確かめたこともないしな。…で、話が逸れてる。続き」

 ぶすっと黙り込んだアルに、アドルフは少し考えて話を再開させた。

「母さんは、というかヘンジに昔から住んでいる人はみんな知っている童謡があるんだ。それが遺跡のことを歌ったものだって、母さんは言ってた。だから遺跡まで辿り着けば何とかなると思ったんだ。それからレアンゴーのことをこっそり調べたりして準備をしてたけど、ホーエン家の執事にばれてあの男に知られて、弟は地下室に閉じ込めらて、あの男がすぐに迎えに来ることになった」

「……で、助け出して今に至るってか。だがカザリン、お前、『なくした物は見つかりましたか?』っつったな。それはどういうことだ」

 カザリンは下を向いたまま、ぎゅっとスカートを握りしめた。無理もない。あんなこと、女として知られたくはないだろう。

 アドルフは姉の腕をゆるく掴み、「俺が話そうか」と言った。だがカザリンは首を振った。

 何度か深呼吸をし、体を守るように自分で自分を抱きしめ、カザリンは顔を上げた。血の気が全くない。今にも倒れそうだ。

「…弟が地下室に閉じ込められた後、ホーエン家のご主人が、私を客間に呼び出したんです。掃除が行き届いてない、って。それで…」

「……あーわかった。その先は言わんくていい。…大丈夫か?」

 片手でカザリンを制し、仏頂面を少し緩めてアルは気遣うようにカザリンに問いかけた。

 カザリンははっとしてアルを見つめ、ゆるゆると首を振った。

「『忘れ物をした』って言って、メイドの一人が飛び込んで来てくれて……大丈夫でした」

「……そうか」

「はい。そのとき、私……ご主人が腰のところに、小さな筒をつけているのが見えて……それで…」

 カザリンが続きを口にするのを躊躇った。

 あまり人に知られたくない特技を、カザリンは持っている。それは生活のために、弟二人を養うために身につけてしまったものだ。

 一度眉根を寄せ、アルはふいに目を見開いた。

「……まさか、掏ったのか?」

 こくりとカザリンが頷き、服の中に入れていた筒を取り出した。

 長い革紐の付いた、握り拳にすっぽり隠れてしまうくらいの小さな筒だ。真鍮製で繊細な細工が施され、蓋と筒の間には小さな紅い石が埋め込まれている。

 受け取って様々な角度から観察していたアルが、顔を顰めた。

「…呪法で封印をした文書筒だな。ということは、中身は見てないか」

「開けられませんでしたから。……でも少し日がたってから、ご主人がなくし物をしたと大騒ぎされたんです。何をなくされたかは誰も教えてもらえないのに、探せ探せって……」

「姉貴が俺にこれのことを話してくれて、俺はそういえばこんなやつを見たことあったって思い出したんだ。客間に忍び込んだとき、あの男がこんな銀色の筒みたいなやつを持って、『これは我らの誓いの証』だとかなんとか…」

「だからこれを持っていれば、捕まりそうになったとき、取引できると思ったんです。もう弟がエルギン家に連れて行かれるまで時間がありませんでしたから、とにかくすぐに逃げなきゃって…」

 尻すぼみにカザリンが話を結んだ。マティアスが気遣うようにカザリンの腰に抱きつく。少しだけ体の力を抜いて、カザリンは弟の頭を撫でた。

 アルは膝に肘をつき、組んだ手に顎を載せ、ぎゅっと眉間に皺を寄せて怖いほど真剣な表情で目を閉じた。

 怒りの気配は、もうない。すごい速度で何かを考えている。この三日間で何度となく見た顔だ。我知らずアドルフの緊張が緩む。

(……すごい男だな)

 ホーエン家の屋敷を抜け出すときも宿場町フィルグを抜けるときもその後も、彼は嫌々であっただろうが全力で助けてくれた。

 ときには敵を棍で打ち倒して。ときには囮を使って。ときには罠をしかけて欺いて。

(俺たちだけじゃ、マティアスを守りきれなかった。俺も姉貴も捕まって殺されてた…)

 たまたま行き合った『凄腕』だという男を脅したのは、本当に思いつきだ。どんな人間かもわからないまま、ただ逃げ延びられる確率を少しでも上げたくて、必死だった。

 本当は、マティアスを逃げても、貴族からは決して逃げ切れるものじゃないと、アドルフもカザリンも薄々気付いていた。

 だけどどうしても、母との約束を破るわけにはいかなかった。

『お願い…あの男に、マティアスを渡さないで…。三人で仲良く…しあわせに…自由に…暮らして…』

 今際の言葉を忘れることなんてできない。

 置いていくことが悲しくて悔しくて、だけど子どもを安心させようと、病でやせ細った母は懸命に微笑んだ。

 優しく、強い人だった。

 今ならわかる。貧しさに喘いだり雇い主に理不尽な扱いを受けても母は決して涙を見せず、いつも笑顔を心がけていた。疲れているだろうに、子どもに真摯に向き合い、溢れるほどの愛情を注いでくれていた。

 いなくなってどれほど大きな存在だったのか、カザリンもアドルフも痛感した。これほど誰かを守るのが大変なことなのだと、母がいなくなるまでは知らなかった。

 だから、全く無関係の自分達を、ここまで守り導いてくれたこの男が、どれほど強く、口で何を言おうとも優しいのかが、アドルフにはわかる。

 母が死んでから、大人は誰も信用できないと思っていた。

 だが、この男なら。

 ふっとアルが瞼を上げた。夜の森で今はほとんど黒に見える双眸が、有無を言わさぬ迫力で三姉弟を見つめる。

「…これは、俺が預かっておく」

 真鍮の文書筒を、アルは懐に入れた。

 不安げな眼差しでカザリンがアルを見上げる。

「これを、封じをした呪法士以外が中身を無事に取り出すのは熟練の呪法士でも難しい。できそうな知り合いはいる。だが取り出すのにしばらくかかるし、それから中身を確認して然るべきところへ提出し、対応がなされるまで時間はかかる。間違いなくあの貴族どもの罪は証明してやるが、それまで生き延びられるかはお前ら次第だ」

 アドルフ達が深く考える間を置かず、アルは短く鋭く口笛を吹く。すぐに藍色の美しい鳥が舞い降りてくる。あっとアドルフは声を上げた。

「フォーデル…」

 とても賢く文書鳥として最も格が高いが、希少なため国や大貴族しか使うことのできない鳥だ。なぜそんなものを、アルが使っているのだろう。

 アルは三姉弟の驚きなどは完全に無視し、荷物から光沢のある白い石ころ二つを取り出すと、一つずつ右手に握りこんで何やら口の中でぶつぶつ唱えてから、鳥の首に結わえ付けた。

 それから何度か節をつけた口笛を吹くと、フォーデルが一声啼いて、木々の間をすり抜けて夜の空へ飛び立った。

「お前らが聞いた企みは、ベリソルズだけじゃなく、レアンゴーにも脅威を与えるものだ。魔物を手に入れて一国を落としただけで、ああいう輩が満足するはずがないからな。あれは今日の夜のうちに、ヘンジと崖山脈を挟んで隣り合うスンドラーの町と首都レアンに着く。どっちにも知り合いがいる。事情を説明してお前らを保護してくれるように頼んである。向こうに着いたら、助けてもらえ」

 言われたことの意味を咀嚼するのに、少し時間を要した。

 向こうに着いたら助けてもらえ。それは、つまり。カザリンが再び青ざめる。

「ぼくたちをみすてるの?!」

 真っ先に問うたのはマティアスだった。アドルフも頭に血が昇っていく。ここまできて、折角この男なら信用できると思ったのに。どうして。

「―――甘えるな」

 背筋を氷塊が滑り落ちた。殺気にも似た怒りが、冷たく体に突き刺さる。

「俺はお前らの保護者じゃない。なりゆきで仕方なく付き合ってやってたが、ここまで事が大きくなったら俺の手には負えん。最初に言っただろ。『俺は俺の手に負えなくなった逃げる』ってな。自分のことくらい自分で守れ。最低限のことは教えてやったはずだ」

 フィルグからヘンジに至るまで、アルは何も知らない自分達に様々な知識を叩き込んでくれた。

どう隠れたらいいか、逃げるときに気をつけることは何か、森の中で食べてもいいものは何か。そんな基本的な知識を。そして簡単な護身術も授けてくれた。

 しかも、とアルは仏頂面で続けた。

「俺はそもそも不法入国者でお尋ね者だ。そうでなくても呪法士ってだけで馬鹿共が寄ってくるしな。正体がバレた以上、長くここにいることはできないし、レアンゴーに行ったら徴兵逃れの罪で国軍に連れていかれる。お前達のためにそこまでする義理はない」

 全くの正論に、取り縋る余地はなかった。

 助けてくれなければお前とその女を、誘拐犯だって言ってやる。そう脅したのはこちらだ。

 勿論、たとえ見捨てられて捕まったとしても、本当にそんなことをするつもりはなかった。ただ必死だっただけだ。

 だが今、確かにアドルフ達はアルを危険な目に遭わせている。そし面倒くさそうにだが全力で助けてくれるアルを、いつの間にか、当然自分達を助けてくれる人だと思い込んでいた。

 彼は脅されたから助けてくれていただけなのだ。彼があまりにも強くて優しいから、そんな肝心なことを忘れてしまっていた。

(……恥ずかしい)

 男として、姉と弟を守るつもりだったのに。いつしかよく知りもしない男に心の中で寄りかかっていたことを思い知らされ、アドルフは腸が煮えくり返りそうだった。

 がさり。茂みが動く音に四人は驚いて振り返った。音は遠かったが、やけにはっきりと静寂の森に響いた。

 次いで耳の奥にきぃんと鋭い痛みが奔る。

「しまった!」

 アルが舌打ちした。どうしたのか尋ねようとしたが、寒気を催す大音声に遮られた。

「油断したな、アルベール・ハイン!」

 高笑いと共に、坂の下の小さな広場にあの大嫌いなリカルド・エルギンが現れた。

 後ろには、蛇顔の呪法士が控えている。あの呪法士はエルギン家の配下だったのか。

「この辺り一帯に三重の結界を張った! 葡萄や狼などという小癪な手段は通用せん! もう逃げられんぞ!」

エルギンが尊大に勝ち誇った。元武器商人で若い頃は傭兵をやっていたこともあるだけに、なかなか腹に響く声だ。

 しかし、相手方に圧倒的優位なはずなのに様子が妙だ。

 二人が妙に緊張しているように見えるのは、気のせいか。

「大人しく投降しろ! …くれぐれも遺跡に触れるなよ!」

 こいつは阿呆だ。アドルフは呆れて半眼になった。

 次の瞬間、にっこり笑ったマティアスが、だっと駆け出した。

 カザリンもアドルフもエルギン達も、アルさえも虚を衝かれ、マティアスの小さな手が黒いつるりとした岩に触れるまで動くことができなかった。

 奇妙な沈黙が落ちた。

『我に挑む者か?』

 耳の奥に、唐突に声が入り込んだ。

 悠然とした口調だ。声質は少しざらついている。なんというか、低い声と高い声を同時に発し、洞窟の中で遠くから叫ぶ反響する声を、体の中にいる誰かが直接鼓膜に口をつけて話しているような、表現し難い感覚で聞こえてくる。

 奇妙な声にマティアスが元気よく返事をした。

「はいそうです! あなたにちょうせんします!」

『では、心してかかるがよい』

 あのヘンジの町中で結界に閉じ込められたときのような浮遊感が、再びアドルフ達を襲った。時間はあのときの比ではないほど長く感じられた。

 その浮いている間に、奇妙な声が語りかけた。

『我に挑む者よ。相応しい者であることを示すがよい。しかし、久方ぶりの挑戦者だの。しかも複数とは嬉しいことよ』

 どすん、と衝撃が体を突き抜けた。


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