序
サントゥラール大陸。それは神々と精霊の加護を受けた『神聖にして唯一の大地』であった。
混沌より誕生した創造三神――大地の女神エオルザ、天空の神ヘオフォン、蒼海の神ウェタールは力を合わせ、このサントゥラール大陸をお創りになられた。創造の過程で生まれた種々の神々と多彩な精霊をはじめ、種々の動植物が息づく緑豊かな大陸であった。
しかしその平穏は長くは続かなかった。
三神の子であるはずの一人の邪神とその配下によって、大陸は屍と血に埋め尽くされ、悉く荒廃した。かろうじて善き神々と精霊達は邪神とその配下を退けたが、大地そのものである女神エオルザは指一本動かせないほどに傷つき苦しんでいた。一刻も早く大陸を元に戻し、女神を癒し慈しむために、神々は人間をお創りになった。
人間はよく働き、神々の予想よりも遥かに早く大地は再び力を取り戻した。そしてほどなく、以前よりも更に素晴らしい恵みが溢れる楽園となった。
神々はその功績を讃え、人間の中でも特によく働いた五人の若者に、土地と他の人を管理する役目を与え、大陸を任せることにした。
その五人はそれぞれ名の国を興し、その発展に心血を注ぎ込んだ。
五人は王として素晴らしく国を治めた。大陸はますます豊かになった。
しかし――時の流れは残酷であった。
爆発的に増えた人間はやがて傲慢さと醜い欲望を露に互いに奪い合い争うようになり、果ては集団で殺し合うようになった。
五人だった王は今は四十余人を数え、新古問わず様々な国が群雄割拠し栄枯盛衰し、日々小競り合いや戦を繰り返していた。
新興国の一つに、ベリソルズという小国があった。
三十年ほど前に地方の一貴族だった男が自らの王を斃して玉座を奪い取り、この国を打ち立てた。だが先年代替わりしたばかりの第二代ベリソルズ王は才気煥発だった父王の子とは思えないほど小者で、家臣に誅されるのはあと何年後か、いや隣国に滅ぼされる方が先か、と民は国情に不安を隠せないまま日々暮らしていた。
このベリソルズ国南部の宿場町、フィルグからこの物語は始まる。
真円には少し足りない月に照らされた町は、昼間よりもずっと物寂しく見えた。
夏の宿場町とは思えないほどしんと静まり返り、人っ子一人見当たらない。普通なら聞こえてくる乾杯の笑い声や嬌声すらなく、野良猫が小さく鳴きながらとぼとぼと歩くだけである。通りの最奥にある頑強な石造りの舘も貴族の邸宅にしては燈火が少なく、目立たぬように息を潜めているようだ。
「よっとらせ、っと」
その舘を囲む灰色がかった煉瓦塀の、下生えの茂みに覆い隠されたごく小さな穴を、一つの影が匍匐前進で潜り抜けた。
闇に紛れる黒い外套に身を包んだ、成人男性というにはいささか小柄な影は、夜の帳に覆われて視界の悪い広大な庭の樹木や花の間をいとも容易くするするとすり抜けていく。
「おっと」
影は喉で呟いて、白い花が咲き乱れる低木の茂みに裏にさっと身を隠した。影と同化するように息を殺す。
私兵がすぐ脇を欠伸をしながら通り過ぎた。影に気づきもせず、角を曲がってあっさり視界から消える。この家の私兵は数ばかり多いが雑兵の集まりで見回りが甘いとはわかっていたが、こうも簡単に見逃されるとは。影がにやりとほくそ笑む。
機敏な動作で左右を確認すると、先程兵が消えた角の部屋の窓を三度叩き、一拍置いて再び三度叩いた。約束の合図だ。
勢いよく部屋のカーテンが開いた。窓の向こうに現われた女の顔女がぱっと輝く。
「アル!」
影が手振りで入れてくれと示すと、女はできるだけ音を立てないように慎重に窓を押し上げた。
指で脇へ退くように伝え、影は自分の肩よりも高い窓の桟に手をかけると、猫を思わせる機敏さとしなやかさでするりと部屋の中へと降り立った。その身のこなしに思わず女が感嘆の声を漏らす。
「まあ、本当に猫みたい。ここに忍び込めたのも道理だわ」
「小さいからって馬鹿にしてると痛い目見るぞって言っただろ?」
影が――男が薄く笑って、それに、と外套を解きながらゆるりと笑った。
「こんな美人が待ってるんだ。失敗なんかできるはずないさ」
少々掠れた、しかし柔らかく落ち着いた声で囁かれる甘い言葉に思わず女が頬を緩める。男が外套を近くの卓に投げると、ようやく蝋燭の光にその姿が浮かび上がった。
男にしては随分と小柄だが、均整がとれ、鍛え抜かれた惚れ惚れするような身体。好き勝手に跳ねる濃い土色の髪。くっきりと際立つ眉と鼻筋。何より印象的なのは目だ。光の加減で黒とも緑とも見える色の双眸が、今は燈火の灯で熱っぽくきらめく。
世間一般にいう美男子とは程遠い。しかし謎めいた引力のある顔貌だった。
うっとりと見入っていた女が、嘆息を漏らす。
「本当に不思議な目…。孔雀石と黒曜石が一つになったみたい」
「君にそんなに気に入ってもらえるなら、昔いじめられたこの目を持って生まれて本当に良かったよ」
「まあ、そんなことがあったの? なんてこと。こんな宝石みたいな美しい目を…」
「そこまで」
男が――アルが、女の唇に人差し指を当てて続きを封じた。その指を滑らせ、宝石を扱うようにやさしく女の肌を撫でる。
「俺にこそ褒め言葉を許してほしいんだ。女神モネの柔らかな光の下の君は、昼間とは違うね。美しく……妖しい」
橙の光にもわかるほど、女が顔を朱に染めた。低く、切なさを訴えて女を落とすときの声を作ってアルは囁く。
「いけない人だ……俺の心をこんなにかき乱すなんて…」
「そんな…」
「もう、いい? 君が欲しくてたまらない」
女がはっと顔を上げると同時、強引に女を引き寄せて口付けた。ほとんど背丈の変らないアルの胸を女が必死に押すが、びくともしない呼吸さえ奪うほど深く、貪る。
最初のこれが肝心なのだ。女は大抵慎み深いふりをし、嫌がる演技をする。だから素早く強引に、一気に押しまくる。
絡み合ったまま、すぐ脇にある巨大な寝台に女を押し倒す。
何度も唇を触れ合わせながら、首元の襟の釦に手をかけ、慌てて抵抗しようとする女の手を退けて一つ、二つと外していく。
ふいに口付けをやめると、もうとろけきっている女の目が疑問を含んでこちらを見上げた。完全に落ちた。アルは内心で拳を握る。
爽やかにではなく切なげに微笑み、続けようと手を動かした、そのとき。
普通の人間よりも鋭敏なアルの聴覚が、不審な物音を捕らえた。
「……どうしたの?」
急に意識を逸らして眉根を寄せたアルに、女が首を傾げる。アルは困った表情をして、人差し指を唇に当てた。耳を澄ませる。
足音だ。なっていない忍び歩きで石の床を進む音。
(……床下? 三人か。しかも、これは…)
どんどん近付いてくるその足音に女も遅れてようやく気付き、怯えたように身を竦める。
「なに? なんなの?」
もう耳を澄まさずとも聞こえるほど大きくなった足音は、寝台の真下でぴたりと止まった。アルはいつでも動けるよう、寝台の上で油断なく身構える。
寝台の下で重い音がした。錆びた蝶番の鈍い音。黴臭い、地下の空気が漏れ出してくる。
気配を必死に殺しているらしい動作で誰かが這い上がってきた。辺りを探るような間の後、寝台の下からぬっと金茶の頭が突き出てきた。
「きゃっ……!」
声を上げた女の口をアルは慌てて押さえる。出てきた頭がこちらを振り返る。
少年だ。年の頃は十より二つ三つ上か。月光に輝く金茶の髪に、宵の空の紺色の瞳。なかなか整った顔立ちをしている。切れ長の釣り目がちな瞳を、落ちそうなほど見開いた。
互いに先に動きかねて睨み合っていると、下から別の声が割って入った。
「お兄ちゃん? どうしたの?」
「こら、マティアス!」
「バカ! 声出すなって言っただろ!」
「……え? カザリン? カザリンなの?」
「マリルさん?」
寝台の下から更に幼い子どもと少女の声がし、女がはっとして呼びかけた。少女の声が応え、物音の後にひょいと二つの顔が現れた。
「マリルさん、どうして客間に…? それにどうして襟元が…?」
「そ、そんなことはいいじゃない。それよりカザリン、なんでそんなところから出てきたの? しかもその子って、地下室にいるはずじゃ…」
少女も十より少し上程度か。少年と同じ金茶の髪に紺色の目。だが少年と対象的に気の弱そうな下がり眉だ。女と同じ服を着ているので、この屋敷のメイドらしい。
さすがに男を連れ込んでいるとは言えず、誤魔化して質問を返した女に、少女はおろおろと少年に視線をやった。
だが先に口を開いたのは子どもだった。
「お兄ちゃんとお姉ちゃんが、ぼくをたすけてくれたんだ。ちかしつからここまで、かくしつうろがあるのを、お兄ちゃんがしってたんだ」
子どもは紫がかった青い瞳でまっすぐに女を見て言った。多少舌足らずだが、話はしっかりしている。
髪は濃い亜麻色。顔の造作は兄姉と似ているが、一人だけ色味が違う。
「隠し通路? そんなもの、聞いたことないわよ」
「……あるんだよ。たぶん、客の避難用に。前に倉庫の整理させられたときに見つけた」
この屋敷のメイドである女が知らないなら、ほとんど認知されていないものなのだろう。
少年少女のくもの巣や埃だらけの憐れな姿を見れば、使用や手入れは全くされていないことは一目瞭然だ。
「でも、その子、エルギン家のご当主様の御子息なんでしょう? 明日、お迎えが来るって聞いたわよ」
「……だから、です。あの人に、弟を渡すわけにはいかないんです。あんな人、この子の父親じゃありません」
「姉貴」
子どもの肩を守るように抱く少女を、少年がきつい口調で呼んでアルを一瞥する。少女が慌てて口を噤み、下を向いた。
どうやら少年が弟らしい。逆に見えるのだが。
ふいにまた寝台の下の通路から音が響いてきた。ガキが消えたぞ、どこだ、探せ、などと野太い声が遠くで怒鳴っている。少年達の身体が強張る。
(………なるほど)
町で声をかけた女に夜這いに来た、全く屋敷と無関係のアルにもようやく状況が読めてきた。
エルギン家といえば、このベリソルズ国の新興貴族だ。
軍に強い影響力を持つが、最近三人の息子が跡継ぎ争いで相次いで死亡した。他に子どもはなく、事情が事情だけに早速お家取り潰しかと騒がれていたが、隠し子がいたらしい。それが目の前の子どもなのだ。
姉の言葉から察するに、末弟だけがエルギン家の当主の子種なのだろう。元々あまりいい噂は聞かないが、まだ十過ぎの兄姉が幼い弟を連れて逃げようとするほど、二人にとっては嫌な男らしい。
そしてこの屋敷の主であるホーエン家の当主も、エルギン家に協力していて、素直に引き渡さなかった兄姉から弟を引き離して地下室に閉じ込めた。それを兄姉が救出して、アルと女がいちゃついていた客間に逃げてきた、というわけだ。
「………あ、そういえばマリルさん、凄腕の男と知り合ったのよって言ってましたよね。それがこの人ですか?」
「凄腕の男?」
ぎろりと少年がアルを睨んだ。値踏みするような視線だ。アルは慌てて女を振り返る。女が後ろめたそうに目を逸らす。
確かに町で声をかけたとき、どうしても落としたくして「小柄だからって見くびらないほうがいいぞ? 夜の腕は見かけじゃわかんないんだぜ。夢の世界へ連れて行ってやるよ」と囁いた。
だがそれはあくまで『閨の技術が凄い』ということであって、明らかに少女達が誤解している、通常の『凄腕』の意味ではない。
嫌な予感を覚えて訂正しようとアルが三姉弟に向き直ると、少年が機先を制した。
「お前、助けてくれ。でないと、お前とそいつが俺達を誘拐したってエルギンの奴に言ってやる」
「はあ?!」
思わず素っ頓狂な声が喉から飛び出した。
少年はぎらぎらと眼を血走らせ、アルを睨めつけている。十ばかりの少年とは思えない、有無を言わさぬ迫力だ。それだけ必死なのだ。
だがアルは撥ねつけた。
「断る! 相手が誰だかわかってんのか? この国一番の私兵軍団を持つエルギン家だぞ? しかもこの屋敷の主ホーエン家もこの一帯に顔が利く名家だ。まず間違いなく包囲網を抜ける前に捕まる。そんな分の悪い賭けに乗れるか!」
「ちょっとアル! 助けてあげてよ! じゃないと私、打ち首になる!」
「はあ?!」
「エルギン家のご当主はこの屋敷に来て、粗相した使用人がここの者でも、鞭打ちするような奴なのよ! 隠し子を誘拐したなんて言われたら、それが嘘か真かなんて関係なく処刑されるわ! そんなの嫌よ、お願い助けて!」
体を寄せて涙目で頼み込む女に、アルはくらりと眩暈を覚えた。
(俺はどっち選んでも捕まったら処刑で、俺がガキどもを助ければこいつは安全ってか…)
あまりにも理不尽な二択である。
しかし自分が女の立場なら、間違いなく同じ事を言う。人間みな自分のことが一番かわいいのだ。それがあまり深い関係がない相手なら尚更。
実際のところ、アルは自分だけなら、エルギン家やホーエン家がアルを指名手配する頃には手の届かないところに脱出することができる。
だがその結果、弟は家族と引き離され、そしてこの目の前のメイド、運が悪ければ姉兄も処刑される。やるせないことこの上ない。
アルに残された道はたった一つ。子ども達を連れて、何とか無事にエルギン家の手の届かないところに逃がす。それだけだ。
深い深い、陰気くさいこと極まりないため息を吐き、アルは諦めた。
承諾の返事をするのは癪なので代わりに質問を投げる。
「……一応聞くが、逃げるあてはあるのか」
姉がほっとしたように肩の力を抜き、弟がぱあっと破顔する。兄も険しい表情のまま、明らかに安堵している。
仏頂面でアルは腕を組んだ。
「勘違いするなよ。俺はお前らに脅されて、仕方なく手助けするんだ。とりあえずこのフィルグの町の外までは確実に連れて行ってやる。その後も目的地があるなら、そこまで付き合って捕まらんように最善を尽くしてやる」
「……本当に?」
上目遣いで疑うように見上げてくる姉に、アルは鼻息を荒くした。
「目指すところがあるのに別れて、その後辿り着かずにお前らが捕まったら俺の寝覚めが悪すぎるからな。…だが、フィルグを脱出した後は、お前らが捕まったとしても、俺にどうにもできない事態になったら俺は一人で逃げる。だが絶対に俺やこの女に誘拐されたなんて言うな。わかったか」
アルとしては、逃避行の旅に付き合ってやるだけで大盤振る舞いなのだ。それなのに最後に妙なおまけがついたら洒落にならない。
三姉弟は互いに目配せをし、兄が口を開いた。
「わかりました。無事にここから脱出できたら、あなた達のことは誰にも言いません」
「絶対だな」
「大地の女神エオルザ、天空の神ヘオフォン、蒼海の神ウェタールにかけて誓います」
念を押すと、姉が胸に手を当てて応えた。
世界の創造三神にかけての宣誓は、命をかけての絶対死守を意味する。アルは頷いた。後ろで女が肺が空になるほど息を吐き出す。
エルギン家の当主の罰は本当に容赦がないのだろうと覚り、アルのこめかみが痛んだ。
だがそれを気にしている余裕は全くない。何せ地下からだけでなく、屋敷全体が騒がしくなってきている。そろそろ動かねばならない。
「で、どこに向かうつもりなんだ」
「目的地は屋敷を抜け出したら話します」
兄はちらりとメイドの女を見た。情報漏れを怖れているのだろう。
間違った判断ではないが、もう少し融通は利かせてほしい。
「用心深いのはいいが、とりあえず東西南北でどっちかだけ教えてくれ。脱出方法が変わってくるんだ」
このやりとりの間にも、屋敷の騒ぎは大きくなってきている。外に兵士が完璧に配備されるのも時間の問題だ。
さっさと言えと眼で脅すと、兄は観念した。
「……南、です」
「南か。わかった。…マリル、お前、客まで俺と会うって誰にも言ってないよな?」
「ええ、だってどこから漏れるかわからないもの」
「じゃあ寝台を整えて、今のうちに自分の部屋に戻ってくれ。見つかったら『騒がしいから目が覚めたんですが、どうしたんですか?』で、何も知らないフリを貫き通せ。それで絶対に大丈夫だから」
「……わかったわ」
「頼むぞ。…俺、今死にたくないんだ。だいたい、お前と一緒になれないまま死ぬなんて耐えられない」
切なげに微笑んでそっと頬に触れると、青かった女の顔にさっと紅が差す。「アルもお願いだから無事でいてね」と涙目で見つめる女の額に、仕上げに口付けを落とすと女は完全に煮上がった。
(よし、これでこいつは問題なし)
冷静に頭の中の演算を実現させ、アルは呆気に取られている三姉弟に号令を下す。
「死にたくなかったら、死に物狂いで付いて来い」
強がっていてもまだ子どもだ。姉や弟はもとより、兄もすがりつくようにアルを見つめてこくこくと首を振る。ため息を懸命に押し殺す。
(なんでこんなことに…)
人生楽しく、お気楽ご気楽に過ごしたいから根無し草をやっているというのに、どうしてこう、向こうから面倒事が飛び込んでくるのか。
どこぞの占い師が「あんたは人助けの星の下に生まれたんだよ」とか何とかほざいていたが、そんなもので納得できるものではない。
(あーもう、とにかくこの場を切り抜けなきゃ俺に明日はねぇ!)
ぼさぼさの髪をがりがりと掻き毟り、どうやったら足手まといのガキ三匹を屋敷の外へ、ひいては町の外へ連れ出せるかをアルは高速で思考し始めた。
朝日が目に染みる。
こんなに嬉しくない夜明けは久しぶりである。
「ヘンジぃ? お前ら、あんなとこに行ってどうすんだ」
体力的にはまだ平気だが、精神的に疲労困憊したアルは、怪訝な気持ちを隠しもせずに思いっきり顔に出した。
子ども相手でもこれくらい許されるはずだ。許されなければ割に合わない。
女の許へ忍んで行ったのが夜半前。
あれよあれよという間に年端もゆかない三人姉弟に脅されて逃避行に巻き込まれ、思い出したくもないほど何度も肝を潰し、命からがらなんとか大宿場町フィルグを脱出することには成功した。
肝を潰すという表現が比喩でなければ、アルは間違いなく十回は死んでいる。
そしてアルでなければ、間違いなく町を出る前に三姉弟と手助けした人間は捕まって死ぬ目に遭わされていただろう。子どもに向かって皮肉げに心の中で呟く。
(ほんっと、俺が『本物の凄腕』でよかったな)
実際、アルは凄腕の武人だった。
山奥で厳しく、人だけでなく時には動物も相手にしながら育てられたため、普通の兵士なら束になっても敵わぬほどの力を持っている。しかも攻撃だけではなく、逃げるための技術も叩き込まれていた。
ゆえに子ども達がヘマをする度に、誤魔化したり追っ手を気絶させたり囮を使ったりと様々な手を尽くし、夜が深いうちに何とか町を抜けた出せた。
その時点で子ども達はふらふらだったが、暗いうちにできるだけ距離を稼いでおかねばならない。アルは子ども達を叱りつけて、貴族の手が回りやすい街道ではなく、森の中の小川沿いの道を歩かせた。
だが空が白じみ始めたとき、ついに弟が転んで地面に突っ伏したまま眠ってしまい、兄や姉も明らかに限界を超えていたので、アルが弟を担いで森の開けたところを探して休憩することにして、今に至る。
ちなみに末弟は防水布の上に丸くなって眠っている。姉兄も靴を脱いで布の上に上がり、酷使した足を空気に晒していた。
「………母の、生まれ故郷なんです」
「だがヘンジはベリソルズの南端で、崖山脈があるから国境越えもできないぞ。どうするつもりだ。一目見たら捕まってもいいってか? そんなんだったら俺は今すぐ消えるぞ」
「バカにするな。そんなんじゃない」
はっと鼻で笑うと、鈍い動作で鹿の干し肉を噛んでいた兄がぎろりとアルを睨んだ。
小柄で童顔なので十代半ばに見られるが、これでもアルは二十三で、十三のときから世界を放浪しているのでそれなりに場数は踏んでいる。眠気と戦っているガキのメンチなど痛くも痒くもない。
アルの宿が町の領主ホーエン家の屋敷の南側にあったので、町を逃げ出す行程の途中で荷物が拾えたのは不幸中の幸いだった。
旅暮らしの根無し草なので、気が向けばいつでも出発できるよう、常備食や防水布など必要なものは常時袋に詰めてある。
宿の近くに子どもを隠して部屋に行き、荷棒代わりにもなる棍に袋の紐を引っ掛けて通りに戻るまで、ほとんど時間はかからなかった。
食欲を満たすものは旅には当然必須だが、あの時間に買い物できる店などありはしないし、買い物する余裕はもっとない。なにせ目的地もようやく今聞けたくらいである。ここは天に感謝しておくところか。
(……いや巻き込まれたこと自体が天災みたいなもんだから、微妙なとこだな)
独りごちていると、炒った木の実をちびちび齧りながら、アルを天災級の面倒事に巻き込んだ三姉弟の長女、カザリンが質問した。
「…ヘンジに遺跡があるのは、知っていますか?」
「遺跡? なんじゃそりゃ」
「古い、いつの時代のものかもわからない遺跡です。精霊が作ったとも、魔物が作ったとも、言われています」
「その遺跡を抜ければ、レアンゴーに辿り着くって母さんが言ってた」
「あー、そういうことな」
自分も干し肉を咀嚼しながら、アルは半眼になった。
ベリソルズは、蝶のような形をしたサントゥラール大陸の西北部に位置する小国である。
小国といっても、そもそもサントゥラール大陸の中には五十ほどの国が群雄割拠しているので、他の国とそう変わるわけではない。
横に長い、若干右肩が下がった楕円形がベリソルズの国土である。
楕円の下と右側は複数の山脈が走り、天然の要塞となっている。
折り重なる山脈の一つに、通称崖山脈と呼ばれるものがある。高度はさほどないが、山の中腹から山頂にかけて岩肌がむき出しになった、ほぼ垂直の崖になっており、とても登れるものではない。山育ちのアルですら不可能だ。
崖山脈の向こうには、神々と精霊を祀る聖教会総本山を戴く大陸の盟主、レアンゴー王国がある。
神代より続く王族が治め、さほど広くない国土全てが山に守られているため他国からの侵略を受けたことがなく、また他国を侵略することもしない『中立』を掲げる唯一の国である。そのため治安がよく、世界一文化が発達している文明国でもある。
子ども達が夢を見て行きたがるのもわからなくはない。
「運よくレアンゴーに行けたとして、どうするんだ? あの国の入国審査は厳しい。遺跡を通るなんてのは立派な不法入国だ。見つかれば捕まるぞ」
「……捕まっても、身寄りがない場合は、きちんと罪を償えば、国民として認められると聞きました」
「…一応確認するが、お前達のご両親は?」
「父は八年前に、母は去年死にました。祖父母ももういませんし、おじやおばも私が知る限りいないです」
「そうか。………罪人になってまで、弟を父親に渡したくないのか」
「当たり前だ。弟はあいつの息子なんかじゃない。俺たちの弟だ。母さんを捨てて野たれ死なせて、俺たちを今まで放っておいて、何が『我が子マティアスを嫡子として迎え入れる』だ。ヘドが出る!」
三兄弟の長男、アドルフが吐き捨てた。憎しみ、怒り、憤り、そんなもので顔がひどく歪んでいる。相当溜まりに溜まった鬱憤があるらしい。
そのあたりの事情を聞くつもりはないアルは、話の軌道を修正する。
「覚悟があるのはわかった。お前達は十五歳未満だな?」
「はい。私が十三、アドルフが十二、マティアスが七つです」
「十五歳未満ならレアンゴーの法律で子どもとして定義される。子どもだけの不法入国で、身寄りがなく、レアンゴー国民となりたいと希望するなら、教会の運営する少年院で何年か奉仕活動をしながら過ごせば、不法入国の罪は消えて晴れてレアンゴー国民になれる。男女別だったはずだから一時期別れるかもしれないが、それくらいはいいな?」
「そんなくらいで済むんなら、喜んでやってやるさ」
「私もです。……アルさん、くわしいですね」
「旅してりゃ色々詳しくなるさ。レアンゴーへ亡命したいってのは腐るほど聞く話だからな。じゃ、とりあえず寝るか。夕方になったらまた歩くぞ。しっかり休んどけ」
カザリンが不思議そうに首を傾げたが、アルはさらりと流して手枕でごろりと地面に転がって欠伸をした。
「アルさん、上にかける物がないんじゃ…」
「夏だし昼だからいらん。お前らはちゃんとくるまれよ。野宿慣れてないんだから、風邪引くぞ。身体壊しやがったら置いてくからな」
ぶっきらぼうに言い放ち、アルは背を向けて、すぐに寝息を立て始めた。
アドルフとカザリンは顔を見合わせた。ベリソルズは夏の日中でも木陰なら涼しい。ましてやここは森の中である。二人には、少し肌寒いくらいだ。慣れているとはいえ、掛け布はほしいだろう。
大きな外套も防水布も三人に渡してくれた。その事実が、心に染みていく。
「……よかった」
「…ああ」
「本当に、逃げられるかな」
「わかんない。でも、運は良かった、と、思う」
「……そうだね。今まで悪かった分、神さまが恵んでくれたのかな」
「…だったらいいな」
アルと話しているときとは比べ物にならないほど柔らかい声で、アドルフは願うように相槌を打った。
どちらともなく防水布の上に、弟を挟んで川の字に寝転がる。うとうとしかけたとき、夢を見るような口調でカザリンが呟いた。
「……遺跡にも、ついてきてくれるかな」
「それは…どうだろ。……でも、あいつらの言うことを当てにしなきゃならないんだな」
「しかたないよ。それしか手がないもの。…どんなことをしても、母さんの代わりに、マティアスを守るの。母さんに約束したもの」
「…うん。そうだな。約束…」
「そうだよ。約束…」
尻すぼみに声が消え、代わりに三つの寝息が静かな森の中に吸い込まれていった。




