第37話 絶海の孤島③
かつて志喜屋茜と呼ばれていた少女のカタチをしたものは、ぼんやりと虚空を見つめていた。
目が覚めると、知らない部屋のベッドの上だった。
なんで私は、こんなところにいるんだろう。そもそも、私は誰だっけ?
……『私』って何だったっけ?
知らない女の人が、私を見ている。
何か言っているけれど、よく聞こえない。わからない。
女の人が私の顔をのぞきこむ。そこで気付いた。私には、欲しいものが、あったんだ。
……ああ、欲しい。どうにも衝動を抑えられそうにない。
首筋に噛り付く。喉仏ごと首の肉を噛み千切ったので、彼女が悲鳴をあげる事は無い。
痙攣する身体が私の邪魔をするので、無理やり押さえつけた。この人が動かなくなったら、続きを進めよう。
くちゃくちゃと咀嚼してみるが、気持ち悪いだけだった。
むせ返る様な鉄の臭い。次から次へと溢れてくる液体は、温かいけれどべたべたして体にまとわりついてくるので、なんだか煩わしい。
飲んでみようかと試みたが、喉に引っ掛かるばかりで渇きを癒してはくれなかった。
違う。私が欲しいのは、コレじゃない。もっと別の、違う『何か』。
ベッドから起き上がった後も、同じ事を何度も繰り返した。
……やっぱり違う。あの人も、この人も、私が欲しい『何か』じゃない。
ここには居ないのかな?
さっきから周りの人達が大声をあげて走り回っている。騒々しいし、別の部屋に行ってみよう。
入り口を出て、通路へと出る。ここは何処なんだろう?
いくつか扉を開けて中を確認する。まばらに人が居るみたいだけれど、『何か』は見付からなかった。
まあ、いいか。ここにはたくさん人が居るみたいだから、そのうち見付かるだろう。
人がたくさん居る。皆、こちらを見て怯えている様だ。逃げ惑ったり、手近な物を武器にして向かって来たり……
私がやる事は変わらない。咀嚼して、吐き出して、打ち捨てる。
そうこうしている内に、人ではない者も増えてきた。私みたいな、何かを探す者達だ。
何度も何度も、すれ違う。
意思の疎通は叶わない。私も彼らも、何も喋らないから。
ただ、何となく思う。探し物が見付かると良いですね。向こうもそう思ってくれていたら、嬉しいな。
数えるのも面倒なほど同じ事を繰り返した頃、ようやく私の目の前に変化が訪れた。
どこかで見た事のある人達が居る。でも思い出せない。あの2人は、誰だっけ?
自分と同じくらいの背格好。自分と同じくらいの年齢。そんな2人が、自分と同じ様な表情でこちらを見ている。
私の事を知っているんだろうな。そう思った。
「走れ!」
突然、男の子が短く叫ぶと、隣の女の子の手を取って駆け出して行った。
ちょっと待って。確かめたい事があるの。気になった私は、2人を追い掛ける事にした。
花梨の手を掴んだまま、真人は全速力で船内を走る。避難誘導に従っていた多くの人間の列を掻き分けて、反対方向へと駆けて行く。何処へ向かっているのかは彼自身にも分からない。
ただ、後ろを振り返る気にはとてもなれなかった。アレは、自分達のクラスメイトなどでは、ない。
服に血が付いていた。髪に、体に、両手に血が付いていた。いや、付いているというよりも、全身が血まみれだ。
赤黒く染まったその姿は、彼女がここに来るまでに何をしていたのかを、如実に物語っている。
今まで散々見てきた。アレは感染者だ。
それに、あの目。明らかにこちらに興味を示していた。あのままでは、自分か花梨のどちらかが間違いなく襲われていただろう。
後ろからは避難民達の叫び声が上がっていたが、真人の耳には全く入って来なかった。
どのくらい走り続けただろうか?
5分? 10分? 300メートル? 500メートル? ……いや、いくらこの船が大きくても、そこまでの距離は有り得ないか。
いくつ角を曲がったのか、それすらも定かではないが、肺が酸素を求めて悲鳴をあげている。
物騒な世の中になってそれなりの時が経っている。運動不足などとは無縁の生活を送ってきたつもりだが、緊張や恐怖といったストレスが影響しているのだろうか。とにかく、真人の身体は休息を欲していた。
咄嗟の行動とはいえ、悪い判断ではなかった筈だ。これだけ距離を取ってしまえば、アイツだってもう追っては来れまい。
そう思った真人が速度を緩め、後ろを振り向こうとしたその時。
「駄目! 真人、まだ来てる!!」
立ち止まりかけた真人を追い抜きながら花梨が叫ぶ。2人の手は繋がれたままなので、当然真人の体は無理矢理前に引っ張られる形になる。
「え、ええっ!?」
転びかけた体を寸でのところで持ち直し、慌てて疾走を再開する真人。その際に、どうしても気になった背後をちらりと見てしまった。
彼女が追って来ていた。長い黒髪を振り乱し、大きく両の腕を振り、力強いストライドでこちらに追い縋る。
あれだけ大きな動きなのに、その表情は冷たいほどに何の喜怒哀楽も宿していない。
おぞましい。彼女の様子は、その一言に尽きる。彼我の距離は、僅か5メートルほど。
「な、何で!?」
「わかんないよ! いいから、走って!」
あれだけ走ったのに、殆ど距離が開いていない。という事は、彼女は最初から自分達だけを追い掛けている。
2人の思考は混乱を極めていた。何で? 感染者は、手近な人間から手をつける習性があった筈だ。
少なくとも、今までに遭遇してきた者達はそうだった。それに、その動きも極めて鈍重。
だからこそ、距離を取れば簡単に逃げられたし、時には誰かが囮になってくれたりもした。
……好き好んでそうなった人は1人もいないと思うけれど。
とにかく、捕まったら間違いなく死ぬ。命懸けの鬼ごっこは続く。
鼓膜をつんざく様に刺激してくる乾いた銃声が響く度に、思わず春樹は顔を顰める。
自分よりも一歩分だけ前に居るバックナーは、慣れた手つきで同じ作業を繰り返す。
彼が引き金を絞る度に甲高い音が鳴る。僅かに遅れて、銃身から排出された薬莢が床に落ちて、鈴の様な小さな音を立てる。
それが断続的に続く。何度も、何度も。
警報が船内に鳴り響いた直後。一刻も早く真人・花梨と合流を果たそうと焦った春樹だったが、同行者のバックナーはよりにもよって2人の居る居住スペースとは反対の方向に走り出した。
文句を言ったが全く聞き入れて貰えない。それどころか、
「いいから、ちょっと付き合え!」
無理矢理同行させられた。今は、軍人の後ろで荷物当番だ。
船の船底奥深くまで、下に下に降りて行く。その先にあったのは、今までに見たどの扉よりも重厚な鉄扉。
プレートも何も無かったため、当初そこが何の為の部屋なのか見当も付かなかったが、入ってみてすぐに悟った。武器弾薬庫だ。
映画でしか見たことの無い様なライフルやサブマシンガン、重機関銃に至るまでありとあらゆる武器が揃っていたが、バックナーがそこから持ち出したのは4挺の拳銃と8個の弾倉(ボックスマガジンと言うらしい)、.380 ACPと書かれた弾薬ケースを10箱。それだけだった。
「オレ達が一番乗りみたいだな。必要な分を確保出来て良かったぜ」
「それだけで良いのか? ライフルとかもあるみたいだが……」
「敵がガチガチに武装した軍人ゾンビってんなら必要にもなるだろうが、奴等相手には無用の長物だ。いいから、早く上に戻るぞ」
喋りながらも、バックナーは運搬用のバックパックに手早く武器・弾薬を詰め込んでいく。1挺の拳銃を腰に差し、2個の弾倉を軍服のポケットにねじ込むと、バックパックを春樹に押し付けた。
「俺は荷物持ちか」
「適材適所ってヤツだ」
そうして元の場所に戻って来たのが10分ほど前。
想像以上に重い荷物と度重なる階段昇降に体力を奪われ、汗だくでようやく帰って来てみれば、パンデミック。
もう何度見たか数える気にもならないが、おなじみの感染者の大行進だった。
「だから言っただろう! どうするんだよ、コレ?」
「今更どうにもならん事をグダグダ言うな。目的地はこいつらの群れの向こうなんだ。気合入れろよ!」
手前の何人かを射殺し、バックナーが道を作る。その道が閉じてしまう前に春樹がそこを駆け抜ける。
群れを追い越し、空母内にあるハンガーまであと少しという所に差し掛かると、避難をおこなっていた生存者達のグループの最後尾に到達した。
そのまま、感染者を足止めする役目を負う羽目になってしまった。
「真人と花梨は無事なのか!?」
『何を言っているんだ!? 避難誘導の邪魔をするな!』
銃声に負けない様、大声を張り上げて誘導する兵士の1人に問い掛ける。しかし、この兵士は日本語を離せなかった。返って来る言葉は全て英語。
「おい、クラタ! 荷物を持ったままあまり離れるんじゃねえ!!」
そこに、バックナーの怒鳴り声が響く。その間も、彼の手の中の拳銃は休む事無く吼え続ける。
「……くそっ!」
結局、その場を動く事が出来ない。ゆっくりと進む避難民達の後を追う様に、少しずつ後退する。
感染者の群れは、先頭の仲間が次々と倒れても気にする様子は無い。
バックナーに最も近い者から射殺されていく。それは、まるで死の順番待ちだった。
「クラタ! 人手が足りねえ。お前も手伝え!」
春樹の背負うバックパックに左手を突っ込み、器用に6個目の弾倉を取り出しながらバックナーが叫ぶ。
「え? 銃なんて撃った事無いぞ?」
「それはいい、オレがやる。お前は、空になったマガジンに弾を込めてくれ。上から1個ずつ押し込めば簡単に入る」
「わ、わかった!」
春樹は、背負っていたバックパックを床に置き、空になった弾倉と弾薬箱を取り出す。プラスチックで作られた箱の中には100発の銃弾が規則正しく上を向いて並んでいる。
弾倉に入らなくなるまで弾を押し込み、バックナーに渡す。入れ替わりに空になった弾倉を渡され、また1つずつ弾を込めていく。
流石に慣れてきたのか、鳴り響く銃声にもストレスを感じなくなっていた。
弾込めに掛かる時間も大分短縮され、淀み無く春樹の手が動く様になったのを見て、バックナーはぽつりと呟いた。
「……念の為、お前も1挺持っておけ」
別の拳銃を取り出し、弾倉を差し込むと、念入りに安全装置を確認した後に春樹の胸に押し付ける。
「そいつを腰に差したら、オレの撃ち方をよく見ておくんだ。少々解説も加えてやる」
先程から陽気な軍人は軽口を叩かなくなっていた。つまり、それだけ切迫した状況だという事だ。そう理解した春樹は、突き出された拳銃を黙って受け取ると、そのまま次の言葉を待った。
「それで良い。いいか? 右利きのお前なら左足が前、右足が後ろだ。
右手で銃を持ったら、グリップの底に左手を添えろ。コーヒーカップと皿だ。
右腕を突き出す様に、左手はそれを引き込む様に構える。それで銃口のブレと撃つ時の反動は最小限に抑えられる。
照準に関しては、そこまで神経質になる必要は無い。ただし、目標を撃つのは5メートル以内に近付いた時だけにしろ。
狙うのは、的が大きい胴体だ。映画みたいにヘッドショットなんか狙うんじゃねえ。奴等の前進を少しでも遅らせる事が出来れば、それで上等だと思え。
最後に、コイツの装弾数は13発だ。弾が無くなるまで撃つな。弾切れでパニックになったら、もう助からない。
大体こんなところだ。わかったな?」
……説明が大雑把過ぎる。渋い表情を浮かべた春樹だが、反論が許される雰囲気ではない。
講義の最中もバックナーの発砲は続いていたので、彼の銃も程無くして弾切れになる。
弾倉を引き抜く動作を見て、慌てて次の弾倉を渡す。
同じ作業が延々と続いている様に見えるが、実際はじりじりと後退を余儀なくされている。
避難民の殿を務めているのだから、後退は予定通りなのだが、感染者とバックナーの距離は確実に迫ってきている。
「な、なあ。大丈夫なのか?」
「お前はまだ何もするな。いいから、早く次のマガジンをよこせ」
僅か2メートルほど先まで来ていた若い女性の頭を撃ち抜きながらも、バックナーは冷静だった。
春樹が後ろを振り返ると、避難民達は大分先まで移動したのか、誰の背中も見えなかった。
「よし、オレ達も下がるぞ。荷物をまとめろ」
掴みかかろうとする男の鳩尾に前蹴りを叩き込みながら、バックナーが言う。
「ああ。準備はとっくに出来てる」
「撃ちながら下がる。先に行け」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
先行しようと春樹が足を踏み出すと、前方から足音が聞こえてきた。硬く無機質な鉄の床が靴音を甲高く響かせている。音の間隔が狭い事から、こちらに向かって走っているらしい事が窺える。
「あ? 前で何かあったのか?」
呟きながらも後方の警戒を怠らないバックナーは、空にした2本目の弾倉を銃から引き抜くところだった。
その間も足音はこちらにどんどん近付いてくる。10秒もしない内に、彼女は角を曲がって2人の前に現れた。
「いたいた。こんな所に居たんだね、ずいぶん探しちゃったじゃない」
「あ、ああ。久しぶりだな、サラ」
大分投稿が遅れてしまい、申し訳ありません。
忙しさもようやく落ち着いてきたので、これからはもう少し短い間隔で話を進めていきたいと思います。
読んで頂けたら嬉しいですm(_ _)m




