第38話 絶海の孤島④
「じゃあ、あの2人は避難する人達とは真逆の所に居るのか!?」
思わず大声を上げる春樹に、バックナーの表情が険しくなる。
沙羅は、春樹との合流を目指しながら、情報収集も並行しておこなっていた。
その途中で、米兵の誘導に従い避難する集団に遭遇した。その中に居合わせた桐子が、走り去る真人と花梨の姿を覚えていた。
「うん。……茜ちゃんに追い掛けられて、ね」
「……そうか。なら、急いで助けないとな」
「マジかよ。真逆ってのが本当なら、あいつ等の向こう側だろ? 正気の沙汰とは思えん」
感染者の群れは、今も増え続けている。
バックナーが射殺した死体も同様に増え続け、今ではちょっとした死体の山が形成されつつある。
「危険過ぎる! 持ち出した弾薬も、もう半分は使っちまった。それに、今から行ったところで間に合うかどうかもわからん。
仮に無事助けたとしてもだ。そこからまたここに戻って来て、改めて脱出かよ。
感染者がウヨウヨするだだっ広い空母を、一体何往復するつもりだ!?」
「……何とかしますよ。わたしが居れば、多分大丈夫」
「ああ!?」
バックナーが反論しようとしたその刹那。
ゴツン、という鈍い音。いつの間にか彼の目の前に迫っていた若い男の感染者が、視界から消失した。
無造作に振るわれた沙羅の裏拳が、その側頭部を捉えていた。
吹っ飛んだ感染者はそのまま壁に頭から打ち付けられ、そこに赤い花を咲かせた後、ぴくりとも動かなくなった。
「行きましょう」
「……なんてこった。お前の恋人は、こんなに猟奇的な女だったのか」
「……」
拳銃で武装した屈強な米兵に、拳銃と弾薬を詰め込んだバックパックを背負う民間人の男と、ラフな服装の丸腰の女。
先頭を丸腰の女が務め、3人は感染者の群れに正面から戦いを挑むのだった。
バックナーは発砲出来ない。相手の数もさる事ながら、状況がそれを許さない。
彼と春樹の前方約3メートル。そこで起こっているのは乱戦だった。
沙羅の身長は162センチ。襲い来る感染者の多くは彼女より大柄だ。にも関わらず、彼我の間には戦いらしい戦いすら起こる事無く、一方的に感染者だけが屠られていく。
感染者は同士討ちをしない。
彼女を素通りし、後ろに居る春樹とバックナーに殺到したい感染者達は、沙羅の攻撃を無防備に受ける。
沙羅の作った死屍累々を、後ろの2人は注意深く避けながら歩いて行く。
死に損なった者が、何度か2人に向かって手を伸ばしたが、バックナーによって頭を撃ち抜かれた。
それを見た沙羅は、仕損じを無くす為に創意工夫を凝らしているらしい。
次第に討ち漏らしは数を減らしていき、今ではバックナーは失業状態だ。
「……日本人が勤勉ってのは、本当だったんだな。つくづく恐れ入るぜ」
「あんたの軽口もな。どんなにシリアスな場面でも、めげずにジョークを挟もうとするんだから」
「精神衛生上、非常に重要な事なんだぜ? 全部真面目に受け止めてたら身が保たん」
「ああ、そうだな。俺も、これからのサラとどう向き合っていくか、考えを纏めておかないと」
「そうそう、その調子だ。意外にセンスあるじゃないか!」
映画に出てくる陽気なヒーローの様に、豪快に笑い出すバックナー。春樹も笑顔だったが、全然楽しそうなものではなかった。
猟奇的と揶揄された沙羅は、転ばせた感染者の頭を容赦無く踏み潰していた。
桐子の目撃情報に従って、3人は通路を戻って行く。逃げ出した子ども2人が潜伏するとして、一番適した場所は何処か?
寝室は駄目だ。狭い上に出入り口が1つしかない。感染者が鉄扉さえも破れる膂力がある事は周知の事実だから、そこに篭ればそれだけで詰んでしまう。
真人と花梨がそれを分かっていると仮定するならば、この先に2人が隠れられる場所は、食堂しかない。
バックナーの推理に沙羅と春樹も異論は無く、3人は真っ直ぐにそこを目指す事にした。
この地方の方言に、「すーみー」という言葉がある。その意味は、隙間から覗き見る・こっそりと盗み見る事。
この行為は、少なからず忌むべきものとして捉えられている。倫理的観点はもちろん、危機管理的な視点からも。
盗み見るとは、一見気付かれ難い印象の行動だが、『見る』行為からは気配が漏れ出す。
極限まで気配を押し殺していても、全神経を探索に集中させている相手には、それが命取りになる事も多い。
彼女が食堂に入ってきてから、まだ5分と経っていない。
テーブルクロスを片っ端から捲り上げていくその姿は、いたずらを楽しむ純粋な子どもの様でもある。
自分達が隠れている場所に到達するのはいつになるのか。緊張の糸が極限まで張り詰められていく。
バサリ!
また1枚、クロスが勢いよく宙を舞う。激しく動悸する心臓の音が、どうかあの子に届きませんように。
真人は、花梨は、ただそれだけを祈るばかりだった。
バサリ!
また1枚、テーブルクロスを勢いよく引っこ抜く。『私』が、今一番夢中になっている作業だ。
何だか、楽しくなってきた。返り血に汚れた青白い顔は、もしかすると笑みを浮かべているのかも知れない。
男の子と女の子を追い掛け始めて、しばらく経った頃。
何かに気付いた女の子は、半歩ほど前を走っていた男の子の手を引き、一際大きな扉を開けて中に入って行った。
その直後、中から鍵を掛けたらしい。私の侵入を拒む鉄扉。ちょっとだけ機嫌が悪くなった。
一刻も早く2人に会いたい私は、その扉に精一杯身体を叩き付けた。
数十回ほど同じ事を繰り返す。内側にたわみ始めた鉄扉にようやく成果を見出した私は、より一層頑張る事にした。
ふと、うまく手が動かせない事に気付いた。扉から両手に視線を移すと、10本の指の大半が変な方向に曲がっている。
左手の肘からは、今までに見た事も無い骨が突き出していた。血もたくさん出ている。
でも、動かそうと思えば動かせるし、全く支障は感じられない。
さあ、続けよう。どうしてかは知らないけれど、こんなの全然痛くないし。
さあ、続けよう。いつまでも待たせては、あの2人が可哀相だ。
さあ、続けよう。早く、早く、早く、早く、早く、早く……
ドカァン! 轟音をあげて扉が倒れる。悠然と足を踏み入れると、そこは静まり返っていた。
鬼ごっこの次はかくれんぼか。ああ、早く探さなきゃ。
大小様々なテーブルが無数にある。真っ白なクロスが、清潔感を際立たせる。
あの子達は、この下に隠れているのかな?
もう、何枚目? 一向にあの子達が見付からない。
見当違いだったのかな? でも、他に目に付く所も無い。もうちょっと、もうちょっとだけ続けてみよう。
そう思った矢先。視界の端で、少しだけ動くものがあった。
嬉々としてそこに駆け付ける。今、このテーブルの下で、確かに何かが動いた。誰か、居るのかな?
私は、足音を殺し、息を殺す。自分の気配を、極限まで無に近付ける。
クロスを引き抜きたい衝動を、ぐっと堪える。
ここでそれをやってしまったら、このかくれんぼは台無しだ。そんな無粋な真似はしたくない。
だって、相手は大真面目に隠れているのだから。
かくれんぼは、相手を見付けてからが本番だ。少なくとも、私はそう思っている。
隠れている人を見付けた時、鬼はそこを暴く。でも、それをしたら、そのかくれんぼは終わってしまう。
だから私は、鬼をやる時は、隠れている人に見付けた事を悟らせない。
鬼である私を恐れて、鬼である私に怯えて、鬼である私に抗って。
一生懸命に気配を押し殺すその姿は、私に何とも言えない恍惚感をもたらしてくれる。
獲物を捕る事だけを目的とする様な動物には、この感覚は到底理解出来まい。
さあ、私はあなたを見付けたよ? あなたは、その事に気付いてる?
外の様子が気にならない? この隙間から、ちょっとだけ外を覗いて見たくはない?
「ねえ。もう結構な距離を進んだと思うんですけど。まだですか?」
老人とは思えない程確かな足取りで、沙羅の目の前を横切ろうとする感染者の頭を捕まえる。無造作にそれを1回転させると、ごとりと崩れ落ちた彼は、そのまま動かなくなった。
「その突き当りを、左に曲がった先だ。気を付けろ。さっきまであんなにうるさかったあの音が、少し前から全く聞こえて来なくなっちまった」
「……ええ、急ぎましょう」
通路一面に横たわる死体。それでも、次から次へと現れては行く手を阻む感染者達。
帰りもこの道を通るのかと思うと気が滅入ってくる。
「まったく……」
思わず春樹がぼやきかけると、後方の警戒をしていたバックナーが苦々しそうに舌を打つ。
「チッ……ああ、そうだよな。そりゃ、いつかはこうなるよな……」
「え? 何を言って……」
つられて後ろを見た春樹はその光景に愕然とする。自分達が来た方向から、無数の感染者がゆらゆらと歩いて来る。
今までは、感染者の群れは前方にのみ展開していた。沙羅は、今もその連中を忙しなく処理している真っ最中。
そこに、後方からの群れ。狭い通路ではその規模は把握出来ないが、恐らく前に居る連中とそう大差無い人数が居る事は間違い無いだろう。
「……心配するな。今までがうまくいき過ぎてたんだ。目の前のコレは、そのツケってだけの事さ」
「おい! それって、全く現状のフォローになってないぞ」
騒ぎ始めた2人の様子に、後ろを振り返った沙羅も挟み撃ちの現状を即座に理解する。
彼女の決断は早かった。
「2人とも。前はわたしが拓くから、後ろの連中を食い止めて。とりあえず、食堂に逃げ込みましょう」
自身と同じくらいの体格の女性を片手で乱暴に投げ飛ばしながら、それでも彼女の前進は止まらない。
首肯するバックナーに促されて、春樹も腰に差していた拳銃を手に取る。
「さあ、デビュー戦だ。間違ってもオレは撃つなよ」
言い終わる前に、既にバックナーは初弾を発砲していた。
目が合った。テーブルクロスの隙間から、1つだけ眼球が姿を見せる。
ばあ!
だけどそこには、私の顔がある。目と鼻の先で見つめ合う様な格好だ。
「ひいっ!!」
びっくりした彼は、慌ててテーブルをひっくり返して立ち上がろうとする。
そこを、捕まえた。
「う、うわあっ! あああああああごっ!?」
悲鳴はもういい。聞き飽きた。何より、騒がしいのはもうたくさんだ。なので、右手を口の中に突っ込んだ。
ちょうど人差し指と中指が喉の奥に入ったので、入り損ねた親指と併せて下顎をがっちりと掴む。
「んっ! んぐぅぅぅぅぅっ!!」
彼は両手で私の右手を掻き毟り、なんとか逃れようともがく。食いしばろうとする歯は私の指に深く食い込み、さらなる出血を強いた。
面倒臭い。もう、いいか。
彼への興味を無くした私は、空いていた左手で顔を掴み、持ち上げる。そこから、顎を掴んだままの右手を、思いっきり振り下ろした。
ブヅンッ!
「~~~っ!? ごっ、ごぼっ……ひゅーっ、ひゅーっ、ごぼっ……」
下顎を、無理矢理毟り取ってやった。夥しい量の血液が噴き出す。露出した気管も、喉の肉をもぎ取られたはずみで損傷したらしい。そこから空気が漏れて、間の抜けた音を響かせた。
両の眼からは、血にも負けない勢いで涙が滴り落ちている。
知らなかったな。人って、顎を無くすだけでこんなに人相が分からなくなるものなんだ。
彼がどんな表情をしているのか、今の私には見当も付かない。
その内に、噴き出した血液が気管に詰まりだしたらしい。空気の漏れる音が不規則になってきた。
陸の上に居るというのに、彼は海で溺れているのだ。自分が作り出した、血の海の中で。
ああ、そうそう。あの子もね、海で溺れたんだよ。
? あの子? あの子って、誰……?
しばらくの間、記憶を辿るべく目を閉じてみた。だが、何にも思い至る事は無かった。その間も、私の足下には水溜りが広がっていく。
血液だけでなく、涙や鼻水、糞尿といったあらゆる体液を、彼は全て垂れ流しにしている。
泣き濡れて恨みがましくこちらを睨んでいた両の目も、次第に光を失っていく。
後には、小刻みに痙攣を繰り返す四肢だけが、その体の生命の痕跡を物語っていた。
……死んじゃった。
何の感情も湧いて来ない。あんなに執着していたのに。あんなに、必死に追い掛けて……
「なあんだ。こんな所に居たんだね。随分探したよ」
不意に、背後から声を掛けられた。
哀れな死体を左手で宙吊りにしたまま、私はゆっくりと後ろを振り返った。
トッ
軽い音。
「ごぼっ」
途端に、口から血液が溢れ出る。
……え?
少しだけ視線を下げると、私の胸の中央、ちょうど心臓がある位置に、人差し指が根元まで差し込まれていた。




