猫の手というか(2)
「何だ?」
激しい違和感を覚えて、ゆずるは本から顔を上げた。
「ナニかが結界に触れたみたい」
返された声の方に視線を送ると、いとこも険しい表情で警戒をあらわにしている。
「僕が行ってくるよ、ゆずるは夢魔について調べてて。そっちが優先」
和久がにこりと微笑んだ。
確かに、和久ほどの力を持っていれば、並大抵の妖魔は敵わない。現時点では、一族の中でゆずるに次ぐ力の持ち主だった。
「何かあれば、すぐに呼べよ?」
「了解」
ヒラヒラと手をふる和久を見送ると、ゆずるは再び書物に視線を落とした。
それにしても、この九堂一族の本拠地に踏み込もうとする妖が存在しようとは。
(よっぽどの大物か、ただのバカか、どっちかだな……)
ゆずるの予想通り、大物でもありバカでもある直久は、玄関の前で呆然としていた。
(いや、俺ってばそんなに嫌われてるわけ? ええ、どんだけ!? だって孫だよ? あのクソジジーと、モウロクババァの孫でしょう? あれ、違ったのかなぁ? いやいや、違わないでしょう! 孫、孫、孫っ!!)
まさか、玄関に行く手を阻まれようとは、思ってもみなかった。
この結界は、不出来な孫を近付けないように張られたものだったのか?
嘘だろう?
『生きる価値なし』の文字が頭の中を、グルングルンと回転しだす。
(ま、待て、落ち着け)
そうだ。
まさか、そんなはずない。
自分が妖魔と同じ扱いを受けるわけがない。
(もう一回……やってみようよ、ねえ直ちゃん……こ、今度は大丈夫だよ。うん、そうだ)
もはや、人格崩壊ギミな直久ではあったが、祈るように一度目を伏せると、ゆっくりゆっくり引き戸へと手を伸ばした。
大丈夫。
自信を持て。
俺は可愛い孫だ。
自分にそう言い聞かせながら。
心なしか、指先が震えているように見えなくもない。いや、キノセイか。
あと数センチで触れそうになったその時。
「あれ、直ちゃん?」
双子の弟によって、門戸はあっけなく開かれた。
完全に脱力している兄に、和久はぽかんとなった。
「何してんの? 早く入ったら?」
「ほっといて」
「ははん、分かった! お祖父様が出てくると思ってビビったんでしょう?」
すると、兄はその存在を忘れていた、と言わんばかりにこちらを振り返った。
「あれ、ちがうの? 変な直ちゃん」
そう言って和久は笑った。
「大丈夫、今、お祖父様はいないよ。京都だって」
「京都? なんでまた?」
「毎年この時期になるとお出かけになるんだよ。ほら、春だから」
「春だから?」
「魔物がうじゃうじゃ出てくるから……稼ぎ時ってやつかな?」
「なんだよ、そりゃー。魔物っていうのは、蛙の親戚か?」
ふてくされたようにつぶやいた兄に、和久は、なるほど、と笑った。
「魔物は冬眠しないけどね。単に、春は人間の方が浮かれているから、付け込みやすいんだよ」
言いながら、兄を屋敷の中へと促す。
すると、兄はどういうわけか、一瞬、玄関の敷居を跨ぐのを躊躇った。
「どうしたの?」
すかさず和久が声をかけたので、はっとしたように兄は、何でもないと頭を振る。そしてゆっくりと敷居の中に足を進めた。
完全に体が玄関の中に入り込むと、兄は、小さく息を吐いた顔を見せた。明らかに、ほっとしている。
(なんか変だな……どうしたんだろう?)
不審すぎる。
でも、何がおかしいか、まではわからない。
(だいたい、さっきの違和感は何だったんだろ)
明らかに結界を犯す妖魔の存在を感じた。だが、その気配をたどって、行きついた先に居たのは兄だった。
和久は、薄黒い靄が漂って視界を邪魔しているような、そんな嫌な感覚に襲われる。
「ゆずるは?」
はっとなって兄を見た。兄の表情は、すでにいつもと変わらないものだった。
切り替えが早いのは長所。心配性の自分にはまねできない。
「書庫にいるよ」
なんとか取り繕って、兄に笑顔を向けた。大丈夫、兄は気が付かない。
(最近……何かがおかしい……)
兄の周りで起きる異変に。
気が付いているのは、きっと自分だけに違いない。
「行こう。ゆずるが待ってるよ.。猫の手も借りたいみたいだから」
「俺は猫かよ」
「猫に失礼だね、それ」
「俺は猫以下かっ!」
今度はちゃんと笑えた、と和久は思った。
微笑み返してくれた兄に、少しだけ胸が痛んだ。