アナログVS非科学(2)
◇◆
「……いつから?」
ゆずるは苦々しい表情で、ベッドの上で静かに寝息を立てる少女を見下ろしていた。いくら呼んでも、揺すっても、起きる気配がない。
「十七時半頃かしら……」
そう答えたのは、三十代半とはいえ、まだまだ少女のような印象を残す美しい女性だった。娘を心配した青ざめた表情は、よりいっそう彼女の儚さを強調する。
「だから、あれほど日没までに家に帰れと言ったんだ」
ゆずるは忌々しそうに言った。
「ごめんなさい。今日は友達の家に寄って帰ると言って聞かなくて。誕生日パーティーにお呼ばれして……でも、やっぱり止めるべきだったわね……」
「あなたを責めているわけではありませんよ、母さん。ただ、この娘は他とは違うんだ。それを、自分で自覚しないからこうなるんだ」
「……でも、この娘はまだ六歳よ。それなのに自己責任だと言われても、理解できるわけないわ」
「母さん」
ゆずるはオロオロと嘆くばかりの母をまっすぐに見つめた。
「妖怪たちに、“幼い”なんていう理由は通じない。弱い者は強いものに狩られる。それが自然の摂理だ。今日はまだいい。こうして優香は、“生きて”帰ってこれた。たとえ意識がなくてもね。だけど次は分からない。自分の身は自分で守らないと、髪の毛一本、この世に残らない。あとかたも無く食べられてしまう。そんな弱肉強食の中に俺たちは生きているんだ」
最悪の事態を想像し、ますます青ざめた顔で、へなへなとその場に崩れ落ちる母親の姿を、ゆずるは冷めた気持ちで見下ろした。
きれいごとを言うつもりはない。
自分たち血族は確かに、身を守る力を持ち合わせていた。
たいていの妖怪や霊、悪魔ならば、一瞬で吹き飛ばすなんてことは朝飯前だ。そもそも、ほとんどは、自分たちの周りに張られた目に見えない結界によって、近寄ることもできないし、己の弱さを知っている少しの賢さを持ち合わせたモノならば、自ら逃げていく。
だが、いくら自分に、人並み外れた破魔、除霊の力を持っていたとしても、その力を簡単に凌駕する敵はいくらでもいる。
ヤツラは、虎視眈眈と機会を狙う。
独りになった時。
力が弱まっている時。
その心に影が見えた時――。
無防備な姿をさらせば、すぐさま入り込んでくる。それとは悟られることなく、いつの間にか餌食になってしまうのだ。
我先に、我先にと。
ヤツラは群がってくる。
それほどに、一族が狙われるのには理由があった。
ヤツラにとって、ゆずるたち一族の血肉は、御馳走。ヒトという高級料理の中でも、強大な力を閉じ込めたその小さな肉体は、珍味中の珍味。それに食べれば、強力な霊力も手に入る。魔物や妖怪たちの長い一生の中で、出会うことが奇跡とすら囁かれるほどの、一石三鳥というべき代物だった。
ゆずる自身も、いつ命を落とすか分からない、そんな綱渡りな毎日にいた。
妹の優香は、なお悪い状況下にある。
一族の能力は、母親の胎内にいる時から発揮される。だが、その力を使いこなせるようになるには、訓練が必要とされた。だから、物心つく前から一族の子供たちは、大切にそして厳しく、能力の使い方を養成されていく。
力の使い方が安定しない幼子が、一族の敷地を出ることは、自殺行為に等しい。内なる能力が強ければ強いほど、ヤツラの餌食とされるのだから。
それなのに、日本では、六歳という養成途中のもっとも不安定な時期に、義務教育なる名目で、外の世界へ強制的に送り出さねばならない。
子供たちは、一族の当主による強力な結界を身にまとい、登校せざるを得ない。
今、ゆずるの目の前にいる妹の優香もそんな子供の一人だった。
だが、いくら結界を張っても、気休め程度にしかならないのは、一族の誰もが知っていた。わかっているのだ。こうして、結界をいとも簡単にすり抜けたヤツラによって命を落とす子供は、今までだって何人もいたのだから。
自らの身は、自らで守るしか、すべはない。
いつも、神経をとがらせ、心に隙を作らず……強くあるしかない。
そうやって自分は生きてきた。
だから、生き残ってこれた。
(だから、あれほど、日が暮れる前に家に帰れと言ったんだ。ヤツラの力が弱まっている昼間のうちに……)
ゆずるは、静かに寝息を立てる妹の額にそっと触れた。その厳しい目の奥に、かすかに愛おしさが見え隠れしていた。
ゆずるが、唯一、心安らげる存在。
可愛い、いとしい――妹。
ゆずるの持っていないものを全て持って生まれ、彼女が望むものは何でも与えられ、誰からも可愛がられて育った――たった一人の妹。
「待ってろ。俺が必ず助けてやる」
ゆずるは、妹の額を撫でながらそう言うと、眩しそうに目を細め、優しい笑顔になった。
◆◇
「ゆずる……優香ちゃんは……」
優香の部屋の外へ出ると、ゆずるは優しげな面持ちの少年に出迎えられた。いとこの双子の片割れ、弟の和久だ。
「たぶん夢魔だ」
「夢魔……西洋の悪魔だね。僕は、西洋系にはあんまり詳しくないからなぁ……」
「ちゃんと調べてみないと、確かなことは言えないさ。違うかもしれないし、退治法もわからない」
「そうか……じゃあ、本家に行かないとね」
「そうだな。……直を呼んでくれ」
「直ちゃんを?」
まるで珍しいものでも見た、とでも言いたげに、和久が目を丸くして覗き込んできた。その視線から逃れるように、すっと背を向ける。
「いつもは、邪魔だっていて呼ばないじゃない」
ニヤニヤと、含みのある笑みまで浮かべている。
「くだらないことを言うな。今は猫の手も借りたい。時間が惜しい。先にいくぞ」
五秒後、二つの人影が一瞬にして消えた。