31.緊迫の七回表
【尾張デビルズvs浅井・朝倉ベースボールクラブ 七回表2-2】
お市が三振に倒れ、まずはワンアウト。観客席が「さすが信長!」と沸き立ち、スタンドの赤い旗が一斉に揺れる。だが、バッターボックスにはすでに六番・前波吉継の姿。勝家のミットが内を示したその瞬間――信長の瞳がわずかに細まる。
「……外を突くべき場面だろうに」
投じられたのは外角低めのストレート。狙い澄ました前波が、力まず柔らかくバットを合わせる。
――快音。打球はセカンド・恒興の横を、鋭いライナーで切り裂いていく。思わず身を投げた恒興のグラブの先を、白球は無情にかすめ、右前ヒット。
「チッ……」
信長の表情は変わらない。だが、その胸奥に小さなざらつきが残る。ベンチの空気もぴりりと張りつめ、スタンドには不穏なざわめきが広がった。続く七番・赤尾清綱。ベテランらしい落ち着いた構え、目は冷静に信長の球筋を射抜いている。
初球、低めのスライダーを悠然と見送り。
二球目――勝家が要求した外角直球。
「甘い……!」
スイングは短く、しかし研ぎ澄まされた刃のようにコンパクト。打球は一、二塁間を鋭く割る。
「なっ……!」
一塁側スタンドが一斉にざわめき、走者が一気に二塁へ。ベテランの赤尾が、勝家の配球を読み切ったかのような一撃。信長の球は依然として冴えている。だが、打線の目が変わっている。
「球質ではなく、リードを攻略すればよい」
――そんな意図が、彼らのスイングから伝わってくるようだった。信長の球速も切れも衰えていない。むしろ、いまが最も冴えている。だが――勝家のサインは、ことごとく狙い撃ちされていた。
ベンチ。
マスクを外した久秀が、腕を組み、ただ無言でマウンドと本塁を見つめている。その銀の瞳には、わずかな翳りが差していた。
八番・山本義次。「守備の鬼」と呼ばれる彼は、打撃面では脇役に過ぎないはずだった。だがこの場面では、あくまで「繋ぎ役」として役目を果たそうとする鋭い目をしている。
初球、真ん中低めの直球をファウル。
二球目、外角スライダーを強引に引っ張り――打球は高く、鋭くレフト前へ舞い上がった。
「……まずい!」
スタンドがどよめく中、レフト・佐々成政が一直線に前進。スパイクが芝を深々と抉り、荒々しい脚力で地を裂くように駆け抜ける。
落下点に間に合わぬか――誰もが息を呑んだ刹那、成政は迷いなく身体ごと滑り込んだ。砂煙を巻き上げ、伸ばしたグラブの先端で――白球を掴み取る!一瞬の静寂のあと、スタンドが大きく割れた。歓声に包まれながら成政は立ち上がり、胸をどんと叩く。
「さっきの打席の件は、これで帳消しってやつだ!」
荒々しい笑みを浮かべながらボールを内野へ返す姿は、凡退を引きずらず、己の身体ひとつで流れを繋ぎ止める野獣そのものだった!
「おおおおおっ!!」
観客席が地鳴りのように沸き立つ。しかし。
その間にランナーは二塁から三塁へ、そして一塁から二塁へとそれぞれ進塁。結果、ツーアウト二、三塁。マウンド上の信長は、なおも表情を崩さない。黄金の瞳はただ前を射抜き、微動だにしない。
ただ一度、額を伝った汗を袖で拭った。その所作に、表情の揺らぎは一切ない。わずかな仕草が、普段なら決して見せぬ重圧を、このマウンドに漂わせていた。
だが――押し殺したようなざわめきが、内野から外野、スタンドの隅々にまで伝播していく。
ベンチの久秀も、守備陣の仲間も、観客も、誰もが悟っていた。いま、この試合の流れが傾きかけていることを。
――均衡が、崩れ始めている。




