26.浅井・朝倉、真の姿
五回表、マウンドにはついに尾張デビルズの革命的エース・織田信長が立つ。
冷たい風が球場を撫で、観客席がざわめく。
ベンチからゆっくりとマスクをかぶり、捕手の位置についたのは――松永久秀。
「ふむ。わしがその球、受け止めてやろうぞ」
ひらひらと手を振りながらも、その目は既に野球仙人のそれ――否、自称“野球妖精”としての本気に満ちていた。
先頭バッターは―
―浅井・朝倉ベースボールクラブ、6番レフト・前波吉継。
ミート力に長け、要所で勝負強さを見せる打者。静かな闘志が打席に立つ。
初球――信長の投じたボールは、低めギリギリを射抜く変化球。
キレのあるスライダーに、前波は思わずバットを止める。
「ストライク……ッ!」
球審の声と同時に、松永のミットが乾いた音を立てた。
続く二球目、内角速球。前波は体をのけぞらせながら見送り、再びストライク。
三球目、落ちる球――チェンジアップに近い軌道に、バットがわずかに泳ぐ。
かすったように見えた打球は、セカンドの前に転がるも間に合わず、前波は執念の内野安打で出塁。
「ふふ……さすが粘りよるわ」
松永は軽く頷くが、その表情に焦りはない。
続く7番、赤尾清綱。安定感あるベテランらしく構えるが、信長のテンポに飲まれていく。
ファウルで粘るも、最後は鋭く落ちるスライダーにバットが空を切った。
「スリー・スリー・スリー……三振ッ!」
場内に響くコール。ベンチの光秀が拳を握り締める。この短い間に鋭く違和感を感じ取っていた。
8番、山本義次。守備の鬼と称される職人タイプだが、この場面では繋ぐ意識を見せる。
初球、バントの構えから外すと、松永が読み切って外角低めへ速球。詰まらせた打球はマウンド前。
信長が素早く処理し、一塁送球で二死。
そして9番、小川祐忠。機動力と意外性のある若手。
光秀が投げていた時とは比べ物にならないほど激しく振ってくる。
二球目、鋭い当たりが三塁線を襲う――
しかし、半兵衛が横っ飛びで好捕! そのまま一塁送球、スリーアウト。
松永はマスク越しに信長へ低く告げる。
チェンジ。だが、ベンチへ戻る信長の瞳は鋭さを増している。
「フッ……」
マスクを外しながら、久秀がぽつりと口を開いた。
「おぬし……気づいておるか?」
「――ああ。当然だ」
信長は帽子のつばを押さえながら言う。
「明智が悪いとは言わん。だが……あいつら、まだ本気ではなかったな。手を抜いていたまではいかんが……明らかに温存していた。振りの鋭さ、打球の角度、スイングスピード……何もかも違っていた」
「ふむ……浅井・朝倉は層が厚い。下位打線などは無いに等しいが....」
「次の回は一番から――本番じゃぞ」
久秀が微笑を浮かべる。どこか楽しげに。
信長は目だけで頷く。あの瞳には、既に獲物を狙う者の光が宿っていた。
ベンチ。
水を飲む手を止め、光秀はじっとマウンドを見つめていた。
(……あの時、全力で抑えたはずなのに……)
握りしめた拳が震える。
浅井・朝倉のベンチに向けられる、鋭い視線。
一人だけ、別の次元の試合をしていたのではないかと――その思いが、光秀のプライドをズタズタに傷つけた。
「私の時とは、まるで違うじゃないか……!」
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──尾張デビルズ、ついに本気の浅井・朝倉ベースボールクラブと対峙する時が来た。
五回裏尾張デビルスの攻撃。
打順は六番、木下藤吉郎。
ベンチから送り出される瞬間、竹中半兵衛が小声で耳打ちする。
「……いいですか、次は――」
「んふふ〜♪ 任せてよ、半兵衛ちゃん。ぜーんぶうまくやっちゃうから♪」
軽くウインクして打席へ向かう藤吉郎。
その笑顔は妙に自信に満ちていたが――
(……明瞭かつ明確に伝えましたつもりでしたが…。この返事……もしかして)
半兵衛の背中を冷や汗が伝う。
マウンドには浅井軍のピッチャー・お市。
キャッチャーは天才捕手、浅井長政。
藤吉郎は初球前から、にこにこ顔でやたらと話しかけた。
「お市ちゃ〜ん、今日なんかキラキラしてるねぇ。あ、新しい髪飾り? わぁ似合ってる〜♪」
「長政く〜ん、そのマスクかっこいいじゃん。え、わざわざ鏡見て角度決めた? だよね〜、そういうとこ好きだよ♪」
観客席がクスクス笑い始める中、藤吉郎は急に腰を落とし、両手をひらひら――。
「……ふむ、ふむ……うむなかなか良い球じゃの」
それは、長政が苦手とする松永久秀の独特な微笑と仕草の完コピだった。
長政の眉間にわずかな皺が寄る。
藤吉郎は、わざとストライクゾーンぎりぎりの球に対し、タイミングを半拍ずらして空振り――。
「……ほぉ〜……今の球……実に惜しいのぅ。もう少し……そう、ほんの少しだけ……甘ければ……儂のバットで天まで飛んでおったわ……のぅ? お市やぁ……ふふふふ……」
(……違う。絶対違う。やっぱり何もわかってませんね……)
半兵衛が額を押さえる。
それでも藤吉郎は、にやにやしながらカウントを稼ぎ、最後は低めのボールを見切ってちゃっかり四球をもぎ取った。
(ふっふっふ……揺さぶりってこういうことなんだよねぇ〜♪)
露骨すぎる揺さぶりに、観客席もざわつく。
ベンチでは信長が眉をひそめた。
「……あいつは何をやっているんだ?」
横にいたマネージャー蘭丸が平然と言う。
「半兵衛殿の指示です」
「違います!」
半兵衛が即座に否定した。
続く七番、佐々成政。
藤吉郎の打席での様子を、バッターサークルから成政はじっと観察していた。
(……ふむ、ああいうふうに相手を揺さぶるのか。なるほど、やってやろうじゃないか)
打席に入った成政は、明らかに不自然な笑顔を作り、お市に向かって声をかけた。
「お、お市……えっと……今日は……いい天気だな!」
やたら間を空け、言葉が上ずる。
お市は一瞬まばたきしただけで、淡々とサインを受ける。
その後も成政は、
「長政……えーと、その……キャッチャー似合ってるぞ」
と続け――
なぜか、全く似ていない松永久秀のモノマネを突然披露。
「……おぬしの捕球、まことに……あっぱれじゃのう……ふぉっふぉっふぉ!」
長政は冷ややかな視線を送り、返事すらしない。
ベンチの久秀本人は、ベンチ奥で団子を頬張り、
「ん〜……これ、やっぱりタレの香りが絶妙じゃな……」
と目を細め、もぐもぐ。
自分が今まさに真似されていることなど、露ほども気づいていない。
そして――
「ストライーク、バッターアウト!」
バットは空を切り、あっけなく三振。
成政は顔を真っ赤にして、うつむき加減でベンチへ戻った。
ベンチ全員、無言。
信長もまた、一瞥もくれず、黙って水を飲むだけ。
その静けさが、成政の心にじわじわと刺さる。
一方、半兵衛はというと――
頭を抱えながら小声でぶつぶつ。
「……なぜこうなった……そもそも私は『久秀様の一撃で動揺しているところを一気呵成に攻めるべし』と言っただけなのに……
なぜ褒め殺しと世間話大会に……いや、私の説明不足か……ああ、いやしかし……」
片手で顔を覆い、もう片方の手で机をとんとん叩きながら、自分との内なる裁判を続ける半兵衛。
一塁上の藤吉郎は遠くから、首をかしげるように、
「……成政ちゃん、えっと、なにがしたかったのかな……?」
成政はベンチ奥に腰を下ろし、グラブで顔をすっぽり覆った。
ベンチには、成政の打席の余韻がまだ重く残っていた。
誰も口には出さないが、視線はどこか泳ぎ、グラウンドの音だけがやけに鮮明に響く。
しかし、その微妙な空気など存在しないかのように、信長は静かに立ち上がった。
バットを手に取り、グラブをベンチの端に置く。
その仕草には一切の迷いがなく、ただ次の一球に集中する者の動きだった。
「……行くぞ」
短くそう呟き、ゆっくりと打席へ向かう。スタンドの喧騒が近づくにつれ、背筋はさらに伸び、視線は一点、マウンドのお市だけを捉えている。
その背中を見送りながら、ベンチの面々は言葉を飲み込んだ。
この流れを変える一打を放つのは、やはりこの女なのだという予感だけが、全員の胸に重く沈んでいた。




