15.野球仙...妖精登場
灰色の雲が、鈍く空を覆っていた。
その下、人気のない河川敷グラウンド。信長と勝家が黙々とピッチング練習を繰り返していた。
「……もっとインに寄せろ、勝家」
「いや、これ以上寄せたらデッドボールになります」
武田戦で掴みかけた“何か”を、言葉にせずとも伝えようとする信長。
それに応えるように、勝家も黙々とミットを構える。
浅井・朝倉との練習試合でお市から浴びせられた厳しい一言を、払拭するように。
投球を受けたミットから鈍い音が響き、勝家の手が震える。
「革命には破壊が必要だ。もっと鋭く、もっと尖らせる……!」
その時だった。
「――へぇ。言うねぇ、革命革命って、えらくご立派なこって」
乾いた声が飛んだ。
視線を向けると、グラウンドの端から、ひょこっと顔を覗かせるひとりの少女。
和洋折衷の風変わりな衣装。足元はスパイク。手には見慣れぬ木製バット。
「なんだ……野球コスプレの迷子か?」
勝家が眉をひそめた。
「お主ら……革命野球と吹聴するのぶながというやつかね。あの武田との試合で好投したと聞いておったが、その球、つまらぬのう。魂が込もっとらん」
「……誰だ、お前は」
信長が睨む。目は鋭く。
「ん? わし? 松永久秀。……このあたりじゃ、“野球仙人”と呼ばれとる」
ズカズカとグラウンドに入ってくるその足取りに、まるで遠慮がない。
「子供は向こうで草野球でもやってなさい」
「んぁ?」と久秀は肩をすくめ、
「ついでにそこの捕手、かついえとか言ったか。リードが甘い。読みも浅い。はっきり言って――」
ぴた、と言葉を切り、くるりとバットを回す。
「――退屈じゃ」
勝家の眉がピクリと動いた。
「……何者か知らんが、今は忙しい。去れ」
信長が切り捨てようとするが、久秀は聞いちゃいない。
「野球とはな、風であり、間であり、魂じゃ。
ピッチャーが腕を振る前、キャッチャーが構える前、もう勝負は決しておる。
球の回転数、重心のブレ、指先のクセ、相手のまばたき――」
延々とうんちくが続く。
「次の公式戦も、そろそろか」
信長がふと勝家に目をやる。
「まもなく決まると聞いております」
「それまでに形にするぞ」
「当然です」
「こらーッ!! ちゃんと聞けいッ!!」
仙人のチビ声が、河川敷に反響した。
「……やれやれ、現代の革命家は、人の話も聞けんのか」
肩をすくめると、バットを軽く一振り。
「――ならば、現実を見せてやろうかの。わしの球観、たっぷり味わってもらうぞ」
「ほう……いいだろう。かかってこい、チビ助」
信長は一瞬、目を細めた。
(大人げないが、こやつに構っている暇はない……)
内角高め、ぎりぎりを攻めて、さっさと追い払う。そう決めて、振りかぶる。
初球――
鋭い球が内角高めへ――しかし。
カキィィィィン!!
久秀はわずかにのけぞった体勢のまま、まるで撫でるようにバットを振り抜いた。
白球は静かに弧を描いてグラウンドの外へ消えていった。
「ひとつめ~。腰の甘さ、丸見えじゃ」
信長と勝家の顔が、ほんの一瞬、引きつる。
二球目――
信長は少しだけ重心を低く落とし、スライダー気味の球で外角を狙った。
しかし――
カキィィィィン!!
「ふたつめ~。今度は力みすぎじゃ。魂ってのはな、力で投げ込むもんじゃない」
打球は右中間へ。やたらと長い滞空時間を描き、雲を切り裂くかのように舞い上がる。
「……っ、なんだこの子……」
勝家がミットを下げ、思わず呟く。
「全部、読まれている……?」
信長の手元がかすかに震える。
三球目――
今度こそ打ち取るつもりで、信長は球種を変えた。
シュート回転気味の速球、タイミングを外して詰まらせる――はずだった。
カキィィィィィィン!!
高く、高く、青空に向かって舞い上がり――やがて、悠々とスタンドを越えた。
「みっつめ~。さすがにちょい打ちすぎたかな?」
沈黙。
投げた信長、構えた勝家――ともに言葉を失う。
「な、何者だあなた……」
ようやく勝家が絞り出すように声を漏らす。
「だから言うたじゃろ? 野球仙人、松永久秀。日の本中のスカウトが土下座しにくるんじゃぞ?」
その目は、底知れぬ“深み”と“笑み”をたたえていた。
「野球は、知と魂の融合じゃ。……おぬしら、それがまだ足りん」
――と、決め顔で言い切った直後。
「……あっ、まった!しまった、いかんいかん、今のナシ!」
くるりと振り返り、必死に手を振る久秀。
「あっ、いかんいかん! “仙人”じゃなくて、“野球妖精”と定着させるんじゃった!仙人だとなんかこう……ババくさくてのぅ……」
「言ってることと風貌が一致しとらんぞ……」
信長がボソリと漏らし、勝家が思わずうつむいて肩を震わせる。
空が、少しずつ晴れ始める。
新たな“覚醒”の兆しと共に――。
尾張デビルズ、信長不在の練習試合
その頃、尾張では──。
「ナイスバッテリー!またゼロに抑えたで!」
蜂須賀小六の快活な声が、グラウンドに響いた。尾張デビルズは、信長不在の中でも驚くほどの成長を遂げていた。練習試合の相手は【北伊勢キャッスルフォックス】──中部地方リーグ南部ブロックの常連チームで、尾張デビルズとはかつて同地区内でしのぎを削っていた“旧ライバル”。信長が中部リーグ上位進出を目指していた頃は、毎年のように地区代表権を争っていた因縁の相手である。
マウンドには明智光秀。キャッチャーには森長可。そのバッテリーは、信長・勝家とはまったく違うスタイルで打者を封じていた。徹底的な配球の緻密さ、精密機械のようなコントロール、そして森の強肩。
「……悪くない、どころか、かなり良い」
ベンチで斎藤道三が目を細める。彼が臨時監督としてチームを預かる中、尾張デビルズは三戦三勝と好調だった。
だが──その空気の中に、微かな不穏があった。
「信長さま、いつまでチームを離れているんですか……」
ぽつりと漏らしたのは、帰蝶だった。冷静沈着な斎藤家のエースにして、信長にだけ異常な執着を見せる投手。投球練習中の手が、一瞬止まる。
「光秀……あなた、楽しそうね」
視線の先では、光秀が勝ち誇ったように森長可と拳を合わせていた。
「信長さまの居ぬ間に……そんなに目立って……」
帰蝶の瞳に、ほんのわずかだが狂気の色が混じった。
「やっぱり……あなたを潰さなきゃ、信長さまの“居場所”が奪われる……」
その言葉は誰にも聞かれなかったが、グラウンドの空気が一瞬ひやりと凍った気がした。
──続く。
場面は再び、比叡山へ。
山深く、霧の立ちこめる石段を登る信長と勝家の姿があった。
「……まさか、ここまで山奥とはな」
勝家が息を切らしながら呟く。
「道なき道に、苔むした階段。まるで何かの修行漫画だな」
信長は眉一つ動かさず言った。
そんな二人の前で、ぴょこぴょこと軽やかに跳ねながら先導するのは、
「仙人コーチ」こと松永久秀。
「ふぉっふぉっふぉ。ついてこい、若造ども。
ここが“常識”を超えるための第一歩じゃ」
久秀の声が、霧の中に不気味に響いた。




