12.赤い支配、蒼き反撃
プレイボールのサイレンが鳴り響いた瞬間――
三方ヶ原球場には、まるで重たい霧が立ち込めたかのような緊張が走った。
「ストライク……ボール……ボール……ボール……」
徳川の先発投手・松平康親が投じる球は、ことごとくコースを外れた。
浮ついた制球。抜ける変化球。――初回から満塁のピンチ。
「っ、大丈夫、康親! 落ち着いて!」
キャッチャー・家康がマウンドへ駆け寄るも、康親の瞳は震えていた。
「わかっております……だけど、あの“眼”が……」
彼の視線の先――
武田信玄。
ベンチで腕を組み、冷静に打順と走者の配置を読み切る“軍師捕手”。
その指示は最小限。されど鋭く、明確に刺さる。
「次、バントから強攻。三遊間に揺さぶりを」
「外野の返球が逸れたら一気に三塁。判断は一瞬で下せ」
わずかな指先の動き、ベンチ内の短い合図。それだけで、レッドドラゴンズの選手たちは全てを理解し、完璧に実行した。
初回、真田幸村の絶妙なセーフティバントから始まり――
山県昌景、馬場信春、春日虎綱らが怒涛の連打を繋げる。
一度火がついた“赤い軍勢”は、手がつけられなかった。
初回:3点
二回:1点
三回:2点(この時点で康親は力尽き、降板)
四回:無得点(だがなおも満塁まで攻め込む)
五回:4点
――合計10失点。
二番手として三回から登板した徳川の若手右腕も、武田のプレッシャーの前に呑まれ、次第にストライクゾーンを見失っていった。
「す、すみません……家康さま……」
五回裏、息も絶え絶えにベンチへ戻ってきた二人目の投手が、悔しさを滲ませる。
「投げる前から読まれてるんです……構えも、間も、全部……」
「打者の目が……こっちの弱気を測ってるみたいで……」
少しのイニングのはずなのに、投手は疲労困憊している。
ベンチに重い沈黙が流れた。
家康は、無言で帽子を深くかぶり直す。
「……わかってる。俺たちは“ただ打たれた”んじゃない」
「心まで支配されてるんだ。あれが……信玄様の野球か……」
その頃、ベンチの隅で、信盛はじっとスコアボードと武田ベンチの動きを見つめていた。
「(……強い。ほんと、強い……でも、信長さまは――)」
彼女は、いつもなら漏らす“ふぇぇ”を今日は胸の奥にしまい込んだまま、グラウンド全体を冷静に観察していた。
一方、プレーを睨む信長の瞳もまた、鋭く細められていた。
(完膚なきまでの実力差。支配されているのはフィールド全体……)
(だが、崩れない戦術など存在しない。必ず、どこかに“綻び”はある)
「――ピッチャー交代。六番、投手・織田信長」
その瞬間、空気がわずかに変わった。
ベンチを静かに立ち、マウンドへ向かう信長。
五回裏、反撃ののろしは、まだ煙の中にあった。
だが確かに、静かに――火が灯り始めていた。
五回裏――
スコアは10-2。
なおも劣勢の徳川ベンチに、わずかに風が変わる瞬間が訪れた。
「ピッチャー交代。六番、投手・織田」
アナウンスの声にざわめく観客。
静かにマウンドへと歩み出るのは――織田信長。
尾張デビルズの主将にして、“革命野球”の体現者。
マウンドに立ったその瞬間。球場全体がざわつく。
キャッチャーミットを構えながら、家康が声をかける。
「サインは、大丈夫ね?」
「問題ない」
信長は小さくうなずき、視線を上げた。
――その目が捉えたのは、武田信玄。
ベンチからゆったりと歩み、打席に入るその姿は、王の風格そのものだった。
まるで大名行列のごとく、何者も畏れぬ足取り。
そして――視線が交錯する。
「ほう……生意気にこの儂をにらみつけておるのは、誰じゃ?」
信玄が薄く笑う。
「ふむ……あれは“革命野球”とやらを標榜する、尾張の若造か。織田信長。面白い。だが――」
その眼差しには、わずかな侮りがあった。
「……まあ、大したことはなかろう」
初球――。
信長はわずかに呼吸を整え、高めにストレートを投げ込んだ。
様子見の一球。だが――
「――甘い」
快音。
信玄のバットが放った打球は、悠々と左中間を割り、滞空時間の長いアーチを描いた。
スタンドに突き刺さるツーランホームラン。
ベンチで仁王のように立ち尽くす尾張の面々。
それでも、信玄は悠然とダイヤモンドを回り、ホームベースを踏むと、軽く帽子を取って一礼。
「ざっとこんなもんじゃ♪ さて……あと何回、もつかのう。そなたの“革命”とやらは」
その背を、信長はただ、無言で見送った。
冷たい炎のような眼差しで。
歩み寄ろうとする家康を、手で制す。
「……気にするな。まだ、始まったばかりだ」
その後、ヒットを何本か許すも、三振と内野ゴロで切り抜け、失点はなし。
信長の表情は終始変わらず、冷静さの中に燃える意志を宿していた。
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六回表――
反撃の糸口を探る徳川軍。
この回の先頭は忠勝。
豪快なスイングでセンターオーバーの二塁打を放ち、球場を沸かせた。
続く打者の進塁打で三塁へ。
なんとか1点を返すが、スコアは依然として12-3。
ベンチ内に、まだ重い空気が漂う。________________________________________
六回裏――
一死一塁。
武田の走者がセーフティバント。
一塁手・榊原康政が捕球し、カバーへ走るも――
「うわっ!」
武田の走者と交錯。肩から激しく地面に叩きつけられた康政は、苦痛に顔を歪めたまま立ち上がれなかった。
ベンチがざわめく。
駆け寄る家康、そしてトレーナー。
「ダメだ、肩……抜けてる」
「交代だ……誰か、一塁守れる者は!」
すると、ひょいとベンチから手が挙がった。
「はーい! はーい! 私行けまーす★」
軽やかな声と共に、佐久間信盛が立ち上がる。
ぽわんとした雰囲気。だけど、その目だけは鋭く光っていた。
「待ってました~。ずっとベンチで武田軍の打ち方、走り方、クセ、たくさん見てました~★
赤い人たちも……もう怖くありませんし~」
彼の“脱力系観察眼”は、決して侮れなかった。
「信盛ちゃん、頼むね」
家康が念を押すと、
「はーい~♪ ここからは、私のターンですよぉ~」
にこにこしながらグラブをはめ、一塁へ向かって小走りで駆けていく。
球場に不思議な緊張と期待が走る。
七回表――
信盛が最初にバットを持つ場面がやってくる。
一死一塁。追撃にはまだまだ点が欲しい場面。
打席に入った信盛は、のらりくらりとした構えを取る。
相手バッテリーは、いまいち間が取りづらそうだった。
「え~っと……たぶんこの投手、三球目にスライダー入れてくるなぁ~」
小声でボソッとつぶやきながら――
三球目、予告通りの外角スライダーを逆らわず流し打ち。
打球は一・二塁間を抜けるクリーンヒット!
走者は三塁へ! 一死一・三塁とチャンスが広がる!
ベンチが沸く中、信盛はヘルメットを直しながらニッコリ。
「ほらほら、こういうのって“リズム”ですから~。これ、流れきてますよぉ~?」
“ゆるふわ”と“観察力”の融合。
徳川軍に、小さな“風穴”があいた瞬間だった。
信長は、マウンドの中央で静かに息を吐いた。
顔には汗、唇には乾いた笑み。
――その回もまた、武田軍は容赦なかった。
二死一・二塁のピンチ。
打席には、信玄に次ぐ強打者・山県昌景。
真紅のアンダーシャツが、炎のようにゆらめく。
家康が構えたインコース。
信長が振りかぶり、全身で投げ込む――!
ストレート、ズバンッ!
見逃し三振。
吼える信長。
「おぉおおおおっ!!」
球場に、その咆哮が響き渡った。
武田軍ベンチがわずかにたじろぐ。
“革命野球”――その名に恥じぬ魂の投球だった。
徳川軍の攻撃の回、観客のざわめきは、やがて大歓声へと変わる。
――そして打席には、キャッチャー・徳川家康。
普段は守備と采配に徹する男が、いま、自らバットを握る。
「……ここは俺が、信玄様の支配を切り裂く」
心の中でつぶやいた家康の目が、次第に鋭さを増す。
一球目――ファウル。
二球目――見送り、ストライク。
ツーストライクノーボール。
追い込まれても、表情は崩れない。
「……次は、内角に来る。信玄様ならそう読むはずだ」
家康はバットを軽く回し、打席の位置を一歩だけ下げた。
そして――
三球目。読み通りの内角シュート。
その瞬間、彼のバットが、迷いなく振り抜かれる。
カッキーン!
鋭く跳ねた打球は三塁線を襲い、ラインぎりぎりを抜ける。
レフト線を転々と転がり――ランナー二人がホームイン!
スタンドが沸き立つ。
徳川、反撃の二点タイムリー!
スコアは12-5。
なおも一死二・三塁。チャンスは続く。
家康は静かに塁上で拳を握り、武田ベンチを見やる。
その視線の先――信玄。
相変わらず腕を組み、泰然と構えていたが、そのまなざしに、ほんの僅かだが“警戒”の色が滲み始めていた。
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八回裏、再びピンチ。
今度はノーアウト満塁。
観客席が息を呑む。
家康がマスク越しに低く告げる。
「無理はしないで。失点は覚悟で、ここは割り切るのも――」
だが信長は首を横に振る。
「違う。革命とは、可能性を捨てないことだ」
次の瞬間――
スプリットで三振、内野ゴロ併殺でスリーアウトチェンジ!
再び吼える信長。
「まだだ! 負けはせん!!」
その背中を、家康は黙って見つめた。
(……それが、君の野球の本質なんだね)
最強を相手に、ここまで追い込まれてなお、“楽しんでいる”。
抑えるたびに高ぶり、逆境を越えるたびに歓喜する。
それは勝利よりも、もっと深いところにある「野球への愛」だった。
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一塁手・信盛も、グラブを握りながらぽつりと呟く。
「ふ~ん……信長さまって……」
「……あんなに楽しそうに野球することあるんだ~」
普段の彼からは想像もつかない、まるで少女のような無邪気な目。
打者と、野球そのものと、真っ向からぶつかり合っている。
それが、信盛の心に火を灯す。
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九回表――
徳川軍、意地の猛攻。
信盛のタイムリーに加え、忠勝のツーベース、家康の犠牲フライで3点を返す。
13-8。
ベンチが総立ち。
球場全体が、一発逆転を夢見る空気に包まれる。
だが、最後の打者はフライに倒れ、試合終了のサイレンが鳴り響いた。




