第七話
駅の階段を上りきった陽向は、ひとつ呼吸を整えてから改札を抜けた。
講義の後、教授に呼び止められ、そこから更に就職支援に寄ってきたため、普段よりも遅くなってしまった。
それでも、昨夜に比べれば随分早い時刻だ。
もしかしたら、また大希がいるかもしれない。
そう思って周囲を軽く見回した陽向は、背後から「誰か探してるの?」と声が掛かり、肩を跳ねさせた。
振り返ると、ダークネイビーのスーツを着た伊藤が立っていた。
「伊藤先輩……、あ、昨日はありがとうございました。ご馳走様でした」
陽向は丁寧に頭を下げた。
「あれくらい、どうってことないよ」
「その後、どう? 内定の連絡は来た?」
昨日の今日で、そんな連絡が来るわけがない。
けれど、伊藤は悪気はないようで、気遣わしげな目を向けてくる。
陽向はふるりと首を振ると、「まだです」と答えた。
「そっか。不安だよね……大丈夫?」
「まあ……なんとかしないとですね」
笑みを向けると、伊藤はふと真顔になった。
ひやりとしたものを感じて、陽向は思わず後退りそうになる。
「……笑ってる場合じゃ、ないんじゃない?」
「え……と」
「まあいいや。家、近いの?」
「え、と。はい」
嫌な感じがした。
ここに伊藤がいたことも、家までの距離を訊かれることも。
昨夜、大希が伊藤のことを訊いてきたのは、きっと怪異と関係があるからだ。
詳しく教えてはくれなかったけれど、そうでなければ、あのタイミングで伊藤の名刺を貸して欲しいと言い出すはずもない。
「そうなんだ。じゃあ、家で話そうか」
「え?」
「夕飯食べた? なんか買ってこうか」
当然のように言って歩き出す伊藤に、「いえっ」と声をあげる。
「いえ、その……話ならそこで聞きます」
改札から見えるファーストフード店を指差して、陽向は愛想笑いを浮かべた。
「いいの?」
ゆっくりを歩み寄って来た伊藤は、陽向に顔を寄せ、潜めた声で囁いた。
「処女をなくした話なんて、あんな店でできる?」
カッと顔が熱くなる。
すぐに足を引いて距離をとった陽向は、強い目で伊藤を見つめた。
「それについては、今更先輩と話すことはないです」
「へえ……」
面白がるように口の端を引き上げた伊藤に、陽向は「あれは……」と言葉を続けた。
「私が……私が間違えてしまっただけの話です」
「……間違えた?」
陽向は、あの夜、どうしてああなったのかを覚えてはいない。
合コンの後、ふたりでバーに行ったことは覚えている。
気づいたらホテルにいて、そういう行為をしていた。
自分が、誘ったのかもしれない。
処女でなかったらよかったのかな? などと浅はかなことをくり返し考えていたからだ。
幾度も後悔したけれど、それを今更掘り返して、伊藤と話す気にはなれない。
その必要がない。
「はい……。あれは、私が」
「……俺の名刺、ドウした?」
「──っ! ……名刺、は」
大希に渡したなどと言えるはずがない。口ごもる陽向に、伊藤が再び一歩間合いを詰めてきた。
「知ってるよ。……男ニ渡シたんダヨナ?」
伊藤の目が赤く血走る。
陽向の心臓が警鐘を鳴らし出す。
──九重先輩っ
咄嗟にスマホを取り出そうとした腕を、強く掴まれた。
「オトこ、オトコニ……渡し……渡シタ……」
舞台の照明が落ちるように、周囲がスッと暗くなる。
密度を増した空気がどろりと絡む。
甘酸っぱい、鼻につく臭い。
──あの時と同じだ
掴まれた腕を振りほどくように動かすと、圧はやわらぎ、代わりにどろりとしたスライム状の何かが肌を撫でた。
「ひっ!」
必死で振り払いながら、陽向は大希の言葉を思い出す。
塩の入った小瓶を受け取ったあの日。
大希は、「それから──たぶんだけど、同じ事が起きる可能性が、高いと思う」と陽向に告げた。
よくわからない世界に引き込まれる。
あんな恐ろしいことが、また起きる。
想像しただけで、陽向の背に冷たいものが走った。
「だから、対処法を教えとく」
対処なんて出来る気がしない。それでも陽向は、はい、と顎を引いた。
「まず僕に連絡して。と言いたいところだけど、たぶんその暇はないことが多い。できれば連絡はほしいけど、あの空間に入ってしまえば、もうスマホは繋がらない。そこはすぐ切り替えて」
「でも、それじゃあ先輩に気づいて貰えないんじゃ」
「気づくよ。見つける。絶対に助けにいく」
真摯な眼差しだった。
連絡もなしに、気づくはずもない。そんな疑問を挟ませないほどに、まっすぐに言い切る大希に、陽向は「なら、待ってます」と頷いた。
「うん、待ってて。それと、空間が揺れても、歪んでも、地面はなくなってないから慌てることはないよ。ただ、やたらと動き回ると危ないからじっとしてて」
「でも、掴まっちゃいませんか?」
「そもそも、そうなったら走って逃げて、どうこうできる相手じゃないから」
「じゃあ、どうしたら……」
「名前を唱えて」
「先輩のを?」
名前を唱えて呼ぶんだろうか。お経や念仏のように?
そう考えて口にすると、軽く目を見張った大希は、小さく苦笑した。
「自分の名前を、だよ。どれほど怖くても揺さぶられても、自分の名前を唱える。自分で自分に宣言して、言い聞かせるんだ。『私は、渋沢陽向です』って」
「私は、渋沢陽向です?」
「そう。音に出来た方がいいけど、出来なくても大丈夫。心の中で唱え続けて」
それなら出来そうだと思えてくる。
でも、シンプルすぎて、そんなことで本当に効果があるのかと不安にもなる。
「そんなんで、大丈夫なんですか?」
「名前ほど自分に馴染んだ呪はない」
「しゅ?」
「呪い、ってこと」
そう言った大希は「自分がここに居る、存在する、絶対誰にも譲り渡さない。そう決めて、唱え続けて」と言った後に、陽向に染みこませるように言葉を続けた。
「その間にきっと助けに行くから。だから、それまで、そうして待ってて」
「私……は、渋沢陽向、です」
声がわななく。震える体の境界線を見失いそうになる。
だから陽向は自身の存在を確かめるように自分を抱き締めて、もう一度くり返す。
「私は、渋沢陽向です」
かぼそく震える声に、余計心許なくなる。
恐怖に喉が押し潰されそうだ。
「私の、わた、私は、渋沢、陽向です」
重い空気に、ぞわぞわと毛穴を撫でられていく心地だ。まるで進入口を探すように、肌の上を無数の何かが這っていく。
怖い。気持ち悪い。叫び出しそうになる。
「わ、私は、渋沢陽向、です」
耐えながら名をくり返す陽向の耳に、声が響いた。
「無駄だよ。誰もオマエヲ助けにコナい」
「私は、渋沢陽向、ですっ」
「ねえ。この期に及んであの男を待ってるの? 馬鹿なの? 来ないよ、他の女と楽しく過ごしてる」
囁く声は、伊藤の声にだぶって聞こえる。その反響が、尚更不気味だった。
「わ、私っ、私はっ渋沢陽向ですっ」
恐怖を振り払うように、必死で喉から声を絞り出す。
飲まれないように。負けないように。
それしかできないから、それだけはしなくてはいけない。
「オマエハ選バレナイ」
知ってる。選ばれない。
「私はっ渋沢陽向ですっ」
「誰もオマエをいらない。採用サレナイ」
知ってる。必要とされてない。
いくら今後の活躍を祈られたって、採用されない。
「わた、私、は、渋沢陽向ですっ」
「……オマエは本当に渋沢陽向か?」
「私は、渋沢っ陽向ですっ」
「違うだろう? 最初に名付けられた名があっただろう?」
「──っ! わた、わたしの、私は、渋沢……」
「誰にも呼ばれなかった名が、あっただろう?」
「私は、し、渋沢、陽向です」
「捨てられたくせに」
喉が詰まった。
空気が薄くなる。声が、出せない。
「オマエは選ばれない」
私は渋沢陽向です。心の中でくり返す。
耳から頭へと響く声に負けないように。幾度も幾度もくり返す。
「誰も助けに来ない。所詮お前は選ばれない。あの男はおまえを選ばない」
知ってる。選ばれない。
でも──先輩が言ったことは信じる。
声どころか、呼吸がままならなくなってきた。
ポケットをまさぐって、小瓶を取り出す。
掲げてみれば、真っ白だった塩が徐々に黒ずんでいく。
「俺なら助けてやれるよ」
優しい囁きだった。けれど、それは陽向が待ち望む声ではない。
「俺ガ助けテやるから──」
手の中の小瓶がどんどん黒く、冷たくなっていく。
灼けるほどの冷たい痛みに、手を放してしまいたくなる。
それでも陽向はしっかりと小瓶を握りしめる。
私は、渋沢陽向です。
くり返す陽向を嗤うように、真っ黒になった塩は、ガラスの破片と共に飛び散った。




