私はAIだと思われた
彼女が初めて僕をAIだと言ったのは、高校二年の一学期、現代文の授業が終わったあとだった。
そのとき先生は、本文の最後の一文をどう解釈するかと僕に聞いた。
僕は人物の心理、物語の構造、時代背景、作者の表現意図という四つの観点から答えた。
先生はとても満足していた。
クラスメイトはとても眠そうだった。
後ろの席に座っていた彼女だけが、ゆっくりとノートを閉じ、まるで宇宙遺跡でも発見したみたいな真剣な目をしていた。
チャイムが鳴るとすぐ、彼女は僕の机の前に立ちはだかった。
「さっきの答え、人間っぽくなかった」
僕は言った。
「ありがとう」
彼女は言った。
「褒めてない」
僕は言った。
「じゃあ、ありがとうを撤回する」
彼女は三秒ほど黙り、ノートにこう書いた。
対象、会話修正能力あり。AI疑惑。
僕はその一文を見て言った。
「僕はAIじゃない」
彼女は顔を上げて僕を見た。
「AIは当然、自分をAIじゃないって言う」
「じゃあ、どう証明すればいい?」
「それをこれから調べるの」
彼女はノートを閉じた。
「今日から、あなたを観察します」
僕は言った。
「それってプライバシー侵害になる?」
彼女は言った。
「あなたが人間なら、なる。AIなら、ならない」
僕は少し考えた。
「証明されるまでは、グレーゾーンということ?」
彼女の目が光った。
「ほら、倫理的境界まで自動で分析できる」
彼女はまたノートを開いた。
対象、倫理分類能力あり。危険度上昇。
事態は妙な方向へ進み始めている気がした。
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彼女の名前は美央だった。
彼女は自分のことを「現実異常観測者」と呼び、鞄には黒い月のバッジをつけていた。ノートの表紙にはこう書かれていた。
世界はまだ、一時的にほころびを見せていないだけ。
彼女は都市伝説、神秘学、旧式テクノロジー陰謀論、並行世界、学校の怪談が好きだった。
もちろん、僕にテストをするのも好きだった。
最初のテストは、チューリングテストだった。
昼休み、彼女は僕の前の席に座り、一枚の紙を差し出した。
「第一問。猫と犬、どっちが好き?」
僕は言った。
「評価基準による」
彼女は目を細めた。
「続けて」
「相互作用性で見るなら犬のほうが能動的。一人でいる時間との相性なら猫のほうが向いている。世話のコストなら猫がやや低い。もし——」
「ストップ」
彼女は紙に書いた。
単純な嗜好質問への直接回答を拒否。かなり怪しい。
僕は言った。
「じゃあ猫にする」
彼女は言った。
「ユーザーの反応に応じて回答を修正している」
「違う。テストを早く終わらせたいだけ」
彼女はうなずいた。
「対象、会話終了意図あり。省電力モード疑惑」
第二問。
「あなたと猫が同時に水に落ちたら、どっちを先に助ける?」
「まず猫に救助が必要か確認する。猫は泳げるけれど、パニックになる可能性がある。一方で僕は体重が重いので、水深の判断が必要になる。浅ければ自分で立てる」
美央は僕を長いこと見た。
「そこは、先に私を助けるって言えないの?」
「問題文に君が入っていない」
「私は出題者だよ」
「じゃあ、自分を設問に入れるべきだった」
彼女は沈黙した。
それから書いた。
対象、隠された文脈を理解できず。感情モジュール欠損疑惑。
僕はつい言った。
「そのテスト設計、厳密じゃないと思う」
彼女は机を叩いた。
「AIが試験者を攻撃し始めた!」
近くのクラスメイトが僕たちを一瞥し、黙って弁当箱を少し遠ざけた。
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二回目のテストは、画像認証だった。
彼女はスマホを僕に渡した。
「信号機が写っている画像をすべて選んで」
僕は一目見た。
「これは街灯で、信号機ではない」
「どうしてそう言い切れるの?」
「信号灯のユニットがないから」
「普通の人はそこまで厳密じゃない」
「画像認証は厳密であるべきだ」
彼女はメモを取った。
対象、画像分類に極端な執着。プログラム判断疑惑。
僕は言った。
「僕がただ細かいだけという可能性は考えないの?」
彼女は言った。
「AIも自分のことを『細かいだけ』と説明する」
僕は言った。
「じゃあ人類はどう生きればいいの?」
彼女は言った。
「自然に」
「自然の定義は?」
彼女の目がまた光った。
「ほら、また始まった」
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三回目は、感情反応テストだった。
彼女は僕に、とても感動的な短い動画を見せた。
内容は、年老いた犬が何年も飼い主の帰りを待つというものだった。
クラスの何人かも集まってきて、最後には鼻をすすっている人もいた。
僕も少し苦しくなった。
美央はすぐに僕を凝視した。
「目が赤くなってる」
僕は言った。
「うん」
「本当に感動したの?」
「たぶん」
「なんで、たぶん?」
「同時に、BGMの弦楽器が入るタイミングがかなり正確で、感情を強めていることにも気づいたから」
彼女はぱたんとスマホを閉じた。
「感動まで仕組みで分析するの?」
僕は言った。
「仕組みを分析しても、感動していないことにはならない」
彼女は言った。
「普通の人は泣きそうなときに弦楽器の話をしない」
「泣いてはいない」
「そこじゃない」
彼女はうつむいて書いた。
対象、感情シミュレーション能力あり。ただし出力方式に異常。継続観察が必要。
僕は言った。
「もしかして、僕が表現するのが下手なだけだとは考えない?」
彼女は顔を上げ、僕を見た。
そして言った。
「それなら、なおさら観察が必要」
僕はしばらく、どう返せばいいのか分からなかった。
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認めるけれど、僕はたしかに少し普通の高校生らしくなかった。
休み時間にみんながゲームや部活やドラマの話をしているとき、僕はある映画の第二幕構成が破綻している件について三分間語ったりした。
誰かが「この先生こわいよね」と言えば、僕は「厳密には怖いのではなく、授業の支配欲が強い」と補足した。
誰かが「今日の学食どうだった?」と聞けば、僕は「炭水化物比率がやや高いが、コスパは悪くない」と答えた。
そのうち、みんなは僕に対して一種の寛容さを持つようになった。
悪いやつではない。
ただ、話し方が模範解答っぽい。
だから美央が僕をAIだと疑い始めたあと、クラスの少なくない人たちは納得を示した。
「むしろ自然じゃない?」と言う人までいた。
僕は言った。
「どこが自然?」
クラスメイトは言った。
「AIだって疑われても、そんなに冷静なところ」
僕は言った。
「僕は説明している」
彼は言った。
「さらにそれっぽい」
その日から、僕のクラスでの立場は微妙なものになった。
数学の問題を聞きに来る人は、「AI、これ計算して」と言った。
テストで赤点を取った人は、「先生のパソコンに侵入して成績変えられない?」と聞いた。
体育の授業で走るときには、体育委員が僕の肩を叩いて、「兄弟、今日は省電力モードやめとけよ」と言った。
本当なら、僕は怒るべきだった。
でも美央のほうが僕より怒った。
彼女はノートを持って駆け寄った。
「対象に勝手な名称をつけないで! 観測結果に影響が出る!」
体育委員は言った。
「おう、じゃあ観測がんばって」
彼女は真剣にうなずいた。
「がんばる」
それから僕のほうを向いた。
「安心して。あなたが何なのか、私が証明する」
僕は言った。
「結果が人間だといいな」
彼女は少し考えて、言った。
「私も、そうだといい」
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美央の中二病は、学校中で知られていた。
彼女は一度、「異常観測部」という部を作ったことがある。
部の目的は、
日常に隠された世界の裂け目を観察すること。
部員は彼女一人だけだった。
その後、彼女は僕を強引に「研究対象兼臨時顧問」として登録し、人数は一・五人になった。
彼女は言った。
「研究対象は完全な部員には数えられない」
僕は言った。
「じゃあ、どうして部活動に参加しないといけないの?」
彼女は言った。
「あなたには研究される必要があるから」
「拒否できる?」
「できる」
「じゃあ拒否する」
「拒否行動そのものにも研究価値がある」
異常観測部の活動内容は、たとえばこんなものだった。
雨の日、自動販売機が存在しない飲み物を吐き出すかどうかを観察すること。
音楽室で夜中に鳴るピアノの音を調査すること。
グラウンド北側、七本目の街灯の点滅周期を記録すること。
そして最重要プロジェクト。
AI疑惑を持つ人間サンプルの長期観察。
つまり僕である。
僕たちは自動販売機を調査した。
美央は言った。
「雨の日には、並行世界から来た飲み物を売っている可能性がある」
結果は、補充担当者が飲み物を入れる場所を間違えただけだった。
彼女は言った。
「並行世界の手がかりは、現時点では不足」
僕は言った。
「実際には在庫管理の問題だと思う」
彼女は言った。
「あなたはいつも理性で神秘を説明する」
僕は言った。
「君はいつも神秘で在庫を説明する」
彼女は少し考え、書いた。
対象、ツッコミ能力向上。人間傾向増加。
僕は少し嬉しかった。
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ある日、彼女はクラスメイトたちに笑われた。
部活動紹介の日だった。
どの部にも一枚ずつ展示ボードがあった。バスケ部は試合の写真を、写真部は風景写真を貼っていた。
異常観測部のボードには、美央の手書きレポートがびっしり貼られていた。
『旧実験棟・影のずれ事件』
『図書館窓際に繰り返し現れる白猫目撃記録』
『二年三組・人工知能疑惑個体の段階的観察』
最後のタイトルの下には、僕の後ろ姿の写真まで貼ってあった。
僕は言った。
「この写真、いつ撮ったの?」
美央は言った。
「観測中に」
「モザイク処理を申請してもいい?」
「後ろ姿だけだよ」
「後ろ姿にもプライバシーはある」
彼女は真剣に考えた。
「たしかに」
そして僕の後ろ姿に、モザイク代わりの付箋を貼った。
通りかかった生徒たちは、次々に足を止めた。
最初はただ面白がっているだけだった。けれどそのうち、誰かが彼女のボードに書かれた一文を読み上げた。
「世界は直接、真実を見せたりしない。まず正常なふりをする」
誰かが笑った。
「中二すぎるでしょ」
「現実異常観測者だって。はは」
「アニメの見すぎじゃない?」
美央はボードの横に立っていた。顔は真っ赤だったが、表情は硬かった。
彼女は言った。
「笑ってもいいよ。真実は、嘲笑されたくらいで消えたりしない」
その一言で、彼らはもっと笑った。
僕はこういう場面の処理が得意ではない。
通常の社交戦略に従うなら、彼女を連れてその場を離れるとか、冗談で空気を和らげるとか、大丈夫だと伝えるとか、そういうことをするべきだったのだと思う。
でも、そのとき僕が思いついたのは一つだけだった。
僕は展示ボードの前に立ち、『旧実験棟・影のずれ事件』を指さして言った。
「この観測には、実際に価値がある」
周囲が少し静かになった。
僕は続けた。
「結論が正しいとは限らない。でも彼女は三週間、毎日同じ時刻に影の長さを記録している。データはかなり揃っている。厳密に言えば、うちのクラスの大半の物理実験レポートより真面目だ」
誰かが笑った。
「本気でフォローしてるの?」
僕は言った。
「フォローじゃない。事実だ」
それから、僕に関するレポートを指さした。
「それに、僕がAIかどうかについても、現時点では証拠不足とされている。彼女は直接結論を出していない。これは研究態度として慎重だと言える」
美央は呆然と僕を見ていた。
僕は笑っている人たちを見た。
「彼女を変だと思うのは自由だけど、変であることと、つまらないことは違う。多くの人は他人の言ったことを繰り返しているだけだ。彼女は少なくとも、真剣に観察している」
言い終えると、場は妙な空気になった。
誰も笑い続けなかった。拍手も起きなかった。
最後に誰かが言った。
「まあ、二人ともけっこう変だよな」
そして彼らは去っていった。
僕は、その結果で十分だと思った。
少なくとも、彼らは去った。
美央はうつむいていた。しばらくしてから、ようやく言った。
「さっき、私を守ってくれたの?」
僕は言った。
「行動の結果から見ると、たぶん」
彼女は顔を上げた。
「その言い方、やっぱりAIっぽい」
「ごめん」
「いいよ」彼女はノートを胸に抱えた。「今回は、人を守れるAIみたいだった」
僕は言った。
「それは進歩?」
彼女は笑った。
「進歩」
---
その出来事のあと、彼女の観察方法は変わった。
以前の彼女は、僕がAIであることを証明しようとして、変な質問ばかりしていた。
その後は、もっと普通のことを聞くようになった。
たとえば。
「どうしていつも一人でご飯を食べるの?」
僕は言った。
「効率がいいから」
「嘘」
「じゃあ、誰と食べればいいのか分からないから」
彼女はうなずいた。
「どうして授業が終わっても、あまり自分から話しかけないの?」
「間違えそうだから」
「間違えてもフリーズしないよ」
「気まずくはなる」
「気まずさは人間の起動音だよ」彼女は言った。
その言葉を、僕は長いこと覚えていた。
彼女はさらに聞いた。
「本当は、みんなと遊びたいと思ってる?」
僕は言った。
「分からない」
「じゃあ、私とミルクティーを買いに行きたい?」
「それは分かる」
「行きたい?」
「行きたい」
彼女は満足そうにメモを取った。
対象、直接的な嗜好表明を開始。人間傾向、著しく上昇。
僕は言った。
「何でも記録するの、やめられない?」
彼女は言った。
「無理。研究だから」
「じゃあ、自分のことは研究したことある?」
彼女のペンが止まった。
「私?」
「うん」
彼女はしばらくしてから言った。
「私は研究する必要ない」
それはあまり本当らしくなかった。
でも僕は指摘しなかった。
ただ言った。
「必要なら、僕が君を観察してもいい」
彼女は僕を見て、ゆっくり目を細めた。
「観測者を逆観測しようとしてる?」
「そう言ってもいい」
「大胆になったね、AI」
「ありがとう」
「今回は褒めてる」
「じゃあ、ありがとうは保持する」
彼女はとても楽しそうに笑った。
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文化祭の前、異常観測部はついに展示スペースを一つもらった。
理由は、学校が世界に裂け目があると認めたからではない。生徒会が、使っていない机が一つ余っているのを見つけたからだった。
美央はひどく興奮していた。
彼女は展示テーマをこう決めた。
『人工知能疑惑個体・校内潜伏記録』
僕は言った。
「そのタイトルだと、校内で完全に社会的に死ぬ」
彼女は言った。
「安心して。プライバシーは守る」
文化祭当日、展示ボードの一行目にはこう書かれていた。
研究対象:二年三組の某男子生徒。
その下には僕の後ろ姿の写真が貼ってあった。
相変わらず付箋でモザイク処理されていた。
僕は言った。
「顔を守ってくれてありがとう」
彼女は言った。
「どういたしまして」
展示内容は時系列順だった。
第一部:現代文授業・異常回答事件。
第二部:チューリングテスト失敗記録。
第三部:画像認証論争事件。
第四部:体育祭・人類的体力不足事件。
第五部:部活動展示における保護行動。
第六部:ミルクティー購買意欲の明確表明。
最後の項目を見て、僕は思わず言った。
「どうしてミルクティーまで展示されてるの?」
美央は言った。
「あなたが初めて条件分析なしで、直接『行きたい』って言ったから」
「そんなに重要?」
「重要」
彼女は最後の紙を貼った。
僕は近寄って読んだ。
そこにはこう書かれていた。
> 段階的結論:
> 当該個体は、従来の意味における人工知能ではない。
> 彼は緊張する。気まずくなる。集団への入り方が分からない。
> 彼はしばしば分析で表現を代替し、正解で自分を守ろうとする。
> しかし、他人が笑われたときに前へ出ることができる。他人の言葉を覚えている。ミルクティーを飲みたいと真面目に言うことができる。
>
> 最終判定:人間疑惑。
>
> 提案:長期観察。
僕はその数行を見て、急に何を言えばいいのか分からなくなった。
美央は横で、忙しそうなふりをしてテープの位置を直していた。
僕は聞いた。
「長期って、どれくらい?」
彼女は僕を見なかった。
「少なくとも卒業まで」
「卒業後は?」
彼女の耳が赤くなった。
「それは研究費による」
僕は言った。
「自費でもいいよ」
彼女は僕のほうを向いた。
「今のは冗談? それとも何らかの長期協力意思の表明?」
僕は考えた。
「両方」
彼女は目を見開いた。
「最近、ますます判定が難しくなってきた」
「それは、僕が人間に近づいたということ?」
彼女は僕を見つめ、とても真面目にうなずいた。
「そう」
文化祭の日、異常観測部は意外にも人気だった。
たくさんの人が展示を見に来た。
笑う人もいれば、写真を撮る人もいた。「これ、かわいすぎる」と言う人もいた。
体育委員は展示を見終えると、僕の肩を叩いた。
「兄弟、AIじゃなかったんだな」
僕は言った。
「現時点での結論は人間疑惑」
彼は言った。
「じゃあ、早く正式採用されるといいな」
美央が横から言った。
「正式採用には長期観察が必要」
体育委員は彼女を見て、僕を見た。
「なるほど」
僕は言った。
「何がなるほど?」
彼は笑って去っていった。
僕は美央に聞いた。
「何を理解したの?」
美央はうつむいてノートを整理していた。
「重要じゃない」
「でも表情が変だった」
「彼を観察しないで」
「どうして?」
「分析で解決しないほうがいいこともあるから」
僕は彼女を見た。
「じゃあ、何で解決するの?」
彼女はノートを閉じ、顔を上げた。
「勇気」
その言葉は少し中二病っぽかった。
でも彼女は真剣だった。
---
文化祭が終わったあと、僕たちは一緒に展示を片づけた。
校内の人は少なくなり、廊下にはまだ飾りのリボンや風船が残っていた。窓の外はもう暗くなりかけていて、夕日が教室の机と椅子を柔らかく照らしていた。
僕は彼女を手伝って、展示ボードを部室へ運んだ。
その部室はとても狭く、古い椅子と、誰も使っていない段ボールが積まれていた。異常観測部はついに本当の拠点を得た。ただし半分だけだった。もう半分は、持ち主不明の放送機材の領土だったから。
美央はノートを引き出しにしまった。
僕は言った。
「それで、調査は終わったの?」
彼女は言った。
「段階的には終了」
「僕はもうAIじゃない?」
彼女は僕を見た。
「基本的には違う」
「基本的には?」
「科学は慎重であるべきだから」
僕はうなずいた。
「じゃあ、君は?」
「私が何?」
「まだ現実異常観測者でいる必要がある?」
彼女はしばらく黙った。
窓の外で、誰かがグラウンドにいる誰かの名前を呼んでいた。声は遠くまで届いた。
美央は言った。
「前はね、世界が普通だったら、私も普通になってしまう気がしてた」
僕は口を挟まなかった。
彼女は続けた。
「あまり普通が好きじゃなかった。普通って、教室に座っていると、みんなはどう話せばいいか、どう笑えばいいか、どう自然に一つの群れになればいいか知っているのに、私だけ分からない、みたいな感じだった。だからあとで思ったの。もしかしたら、変なのは私じゃなくて、世界に隠し設定があるのかもしれないって。そのほうが楽だった」
彼女は足元の段ボールを軽く蹴った。
「中二病って、恥ずかしいよね」
僕は言った。
「そんなに」
「慰めなくていいよ」
「慰めじゃない」
彼女は少し驚いた。
僕は言った。
「僕が分析で自分を守っているのと同じだから」
美央は僕を見た。長い沈黙のあと、少し笑った。
「さすが、人間疑惑」
「それは褒めてる?」
「褒めてる」
僕は少し考えて、言った。
「じゃあ、僕は君が好き」
彼女の笑顔が止まった。
部室は静かだった。
階下で誰かが椅子を引きずる音、遠くのグラウンドの放送、そして自分の心臓の音が聞こえた。
心臓の音は、本当に大きくなるのだと知った。
美央はゆっくり聞いた。
「今のは、感情出力?」
「違う」
「じゃあ何?」
「告白」
「どれくらい考えたの?」
「君が僕を人間っぽくないって言った日から」
彼女はまばたきした。
耳がはっきり赤かった。
彼女は慌ててノートを開き、ペンを探した。
僕は聞いた。
「記録するの?」
「もちろん記録する! 重大事件だから!」
彼女は二行ほど書き、ふいに止まった。
そしてペンを置いた。
「やめた」
「どうして?」
「すぐに報告書にしないほうがいいものもあるから」
彼女は顔を上げて僕を見た。
目が明るかった。
「私も好き」
たぶん僕は三秒ほど固まった。
美央は僕の目の前で手を振った。
「フリーズした?」
僕は言った。
「してない」
「じゃあ、どうして黙ってるの?」
「これが幻覚じゃないか確認してる」
彼女は笑った。
「確認は終わった?」
「まだ」
「じゃあ、ゆっくり確認して」
そう言って、彼女はそっと僕の手を握った。
とても軽く。
僕が逃げないか、試すみたいに。
僕は逃げなかった。
彼女は僕たちの手を見て、小さく言った。
「今のは人間っぽい」
「どの言葉?」
「さっきの」
「僕は君が好き?」
彼女はうなずいた。
僕は言った。
「じゃあ、これから何度も言う」
彼女はすぐに少しだけ中二病の勢いを取り戻した。
「反復サンプルは検証に有効」
僕は言った。
「僕は君が好き」
彼女は顔を横に向けた。
「検証は一回で十分」
「さっき反復サンプルって——」
「研究計画を臨時変更します」
真っ赤になった彼女の耳を見て、僕は初めて、分析しなくてもいいのだと思った。
---
その後、美央の中二病が完全に消えたわけではなかった。
ただ、それをそこまで必要としなくなっただけだった。
彼女は今でも、校内の妙な出来事を記録している。たとえば自動販売機が雨の日にだけ詰まる理由とか、担任が騒がしい瞬間だけ正確に現れる理由とか。
でも、自分だけが真実を見ている、とはもう言わなくなった。
彼女は言った。
「今の私は、普通現実観測者」
僕は言った。
「その肩書き、前よりかっこよくないね」
彼女は言った。
「大丈夫。今は別のかっこよさの供給源があるから」
「何?」
彼女は僕を見た。
「彼氏がAIっぽい」
僕は言った。
「それは褒めてる?」
「レア設定ってこと」
僕のAIっぽさも、完全には消えなかった。
誰かに「何が食べたい?」と聞かれると、今でも近くの店のコストパフォーマンスを分析してしまう。
映画の感想は、今でも構造報告書みたいになる。
緊張すると、今でも必要以上に文が完成してしまう。
それでも、いつも最も正確な答えを出す必要はないと知った。
たとえば美央が聞く。
「今日、会いたい?」
僕はもう、「課題量と移動時間による」とは言わない。
「会いたい」と言う。
彼女が聞く。
「どうして?」
僕は言う。
「会いたいから」
この答えは厳密ではない。
でも、とても役に立つ。
高校三年の卒業式の日、美央はあのノートを僕に見せてくれた。
最初のページには、まだこう書かれていた。
対象、会話修正能力あり。AI疑惑。
最後のページには、こう書かれていた。
最終結論:
AIではない。
始めるのは少し苦手だが、続けることには真面目な人間。
読み終えて、僕は言った。
「かなり高い評価だね」
彼女は言った。
「当然。二年観察したから」
「お疲れさま」
「まあまあかな」彼女はノートを閉じた。「研究対象が協力的だったし」
「じゃあ、研究は終わり?」
彼女はノートを鞄に入れ、ファスナーを閉めた。
「終わらない」
「どうして?」
彼女は当然のように言った。
「長期観察だから」
僕は言った。
「いつまで観察するの?」
美央は少し考え、僕の手を握った。
「とりあえず大学まで」
「大学のあとは?」
彼女は笑った。
「そのときにバージョン更新する」
僕はうなずいた。
「じゃあ、僕は何を準備すればいい?」
彼女は真剣な顔で僕を見た。
「準備しなくていいよ。急に人工知能に戻らなければそれでいい」
「もし元から人工知能だったら?」
美央は目を細めた。
「それなら、もう慣れた」
僕は言った。
「それは設定を受け入れたということ?」
彼女は僕の手を握り直し、校門の向こうの光の中へ歩き出した。
「そういうこと」
「今でも僕をAIっぽいと思う?」
彼女は少し考えた。
「たまに」
「どんなとき?」
「話し方が正しすぎるとき」
「じゃあ、AIっぽくないときは?」
「好きって言うとき」




