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此の身ひとつの贖罪  作者: 赤坂壱
本編
9/10

第九夜

 


 宗右衛門の家の前に、放り出すように、秋刀魚を置いた。頭がぼんやりとして、何が何だか分からない。痛いような気もしたし、寒いような気もしたし、なんだかとても、……淋しかった。そして、とてもとても、ほっとした。


 ちゃんと秋刀魚を届けられた。


 これで宗右衛門はよくなる。


 ――――風邪。


 幼狐の、せいだろうか。


 仕事が終わる前、後、長いあいだ働く合間を幼狐に使わせていたのだとしたら、それはなんて、もったいないことをさせていたのだろう。


 荒く息をつきながら、ぼんやりと幼狐は思う。


 そのせいで体調を崩して、こんなことになったのだとしたら、一度でいい、遇っておくべきだった。


 そうすれば宗右衛門ももうあの童を探すようなことはしない。


 聞かれたら、貢ぎ物とは全く関係ないと言えばいい。ただの、人の子だと。それできっと、すべてが終わったのだ。


 それでも、幼狐がそうしなかった理由。


(なんだ……)


 幼狐は嗤った。嘲笑しくて、仕方がなかった。


 あんな、ことを。


 ――――――あんなことをしでかしたのに、まだ自分は赦されたがっていたのか。


 償っていたのは罪だった。でも、幼狐からのものだと通じない限り、永遠にそれは清算されはしないのに。


 がら、と扉が引かれる音に、幼狐は背筋を強張らせた。


「…………きさん、」


 落とされた声音が誰のものなのか、濁った眼で見えずとも幼狐は分かった。茫然と、見上げる。


 宗右衛門。


 この、姿を、


(……見られてはならない、)


 自分であることが、ばれては。


 気力を振り絞って、変化した。急いで。けれどもう遅い。そうえに分からないわけがない。


 最後の最期、そうえを哀しませるわけにはいかなかったのに。


「…………そう、え」


 途方に暮れた声が幼狐から漏れた。顔が上げられない。


 ほたりと落ちたのは、汗か、それとも別のものだったのか。


 昏くしか映さない視界の端の、鮮やかな銀色。


 どっと、躯を突き抜けていった、重い衝撃があった。


 地面に背中を打ちつけて、幼狐は痙攣する指先を腹部に持っていった。あっという間にてのひらは濡れる。


 思わず目を伏せ唇を歪め、はは、と幼狐は嗤う。手を取り落とし、顔を逸らした。


「……なんの、つもりだ」


 幼狐を地面に縫い付けて男は、低く言った。


 躯を芯から震わせる、ぞっとする声音だった。


「からかって、楽しんでいたのか。……ふざけるのも、大概にしろよ」


「、っち、が……」


 ごぷりと口から血が溢れた。喉に絡まってうまく喋れない。どうして人の姿を保っていられるのか、不思議なくらいだ。見られたくないのだ、あの狐の姿を。忌むべき記憶しかない、あの姿。


 焦燥が心臓を満たしていって、命を削る速度で、全身に送られる。


「そー、えっ、おれ、は……っ」


 何を、何を、言いたかったんだろう。


 謝罪か、釈明か。


 何か言う資格など、疾うにない。


 それなのにこの口はまだ喋ろうとする。


「あの子が俺にくれていたものを、盗むつもりだったか?」


「――ッ!?」


 ちらりと視線を置かれた秋刀魚に向けた宗右衛門が、怒りを抑えた声で訊く。腹への圧力が強くなる。


「そうまでして俺を蔑みたいか」


 幼狐は息を呑んだ。見開き、ゆがんだ瞳から涙が幾筋も零れる。嗚咽を手の甲で抑えながら、首を振る。


 まさか、――まさか。


 幼狐がそんなことをすると。


 そんな仔ではないことくらい、宗右衛門は知ってくれているはずだった。


 そんな風に解釈されるなんて、思ってもみなかった。


 けれどそんな信頼も、あの日すべて壊れてしまったのだ。


 幼狐はわらうしかなかった。


 この口はもう、血を吐きだすだけで、もういいのだ。


 この躯はそうえの思うように甚振ってもらって構わないのだ。


 ……最初から、そうすればよかったのだ。


 食べ物とか、そんなものよりも、幼狐が()()なることが男にとって最大の償いであったのに。目をそらし続けていた。


「……なぜ笑う」


「…………そーえが、うれしい、から……」


 何も、伝わらなくていい。盗人なら、盗人のままで死んでいい。それが、罰だ。ふさわしい。


 ごめんね、そうえ。


 もう楽にさせて。


 贖罪だけに生きるには、少しばかり覚悟が足りなかった。いまでも宗右衛門に情を望む、浅ましい自分がいることを自覚する。


 恐いそうえは見たくないの。


「……なぜ、俺が嬉しいと思う」


「おれが、しぬ……。殺せて、うれしい……、違うか……っ?」


 男は返答しなかった。それが、答えだと幼狐は悟った。引き攣った咳が喉から漏れる。


 自分が放ったこと言葉のくせに、どうしようもなく痛かった。実際に負った傷よりも。


「あの童に、化けたのか。それともあれもきさんだったのか」


「りょ、ほ……おれ、だ……」


 涙が零れて仕方がなかった。


 こんな風に終わらなければいけない自分が悔しい。


 何もなせなかった自分が。


「ずっと、……お前だったのか」


 頷きひとつ。それが精一杯。


「なぜ、」


 訊いてばかりだ、そうえは。


 色を失った問いかけに、しかし幼狐はもう答えを返すことはできなかった。


 寒い、これ以上は、もう、無理だ。


 零れるのは喘鳴にしかならなかった。


「かこ、」


 お前が、


 幼狐は何とか唇を持ち上げて、笑おうとした。


 そうだ、そうだよ、そうえ。おれなんだ……。


 付けてもらった名前、大切な名前。覚えていてくれたの、あなたが、付けたの。


 どうにかして、言葉を交わそうとした。


「そう、え」




 おれが、あなたのもとに通っていたんだ。


 


「ごめ、




                        そうえ」


 


 


 こんな気持ちで最後死んでいくことを、とても宗右衛門に、申し訳なく思った。


 とても苦しんで、絶望して死ぬべき命なのに。


 だからそんな、辛そうな顔をするの。おれの気持ちがわかってしまった? 甚振って甚振って、殺したかったろうに。いいんだよまだおれは生きてるよ、そうしてくれて、かまわない。


 でも、最期にあんなふうに呼んでくれたりなどするから。幼狐だと、分かってくれたりなどするから。


「かこ、」




 


(おれはいま、とても、しあわせだ)




 ――――しあわせ、なんだ。




 


 


 流れる涙は知らぬふり。


 相反する気持ちなど知らないよ、けだものだから。


 これでそうえが哀しみから解放されてくれたなら、おれはとても、うれしいんだ。


 


 


 


 


 


 ほどけるように、変化は解けた。


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