第九夜
宗右衛門の家の前に、放り出すように、秋刀魚を置いた。頭がぼんやりとして、何が何だか分からない。痛いような気もしたし、寒いような気もしたし、なんだかとても、……淋しかった。そして、とてもとても、ほっとした。
ちゃんと秋刀魚を届けられた。
これで宗右衛門はよくなる。
――――風邪。
幼狐の、せいだろうか。
仕事が終わる前、後、長いあいだ働く合間を幼狐に使わせていたのだとしたら、それはなんて、もったいないことをさせていたのだろう。
荒く息をつきながら、ぼんやりと幼狐は思う。
そのせいで体調を崩して、こんなことになったのだとしたら、一度でいい、遇っておくべきだった。
そうすれば宗右衛門ももうあの童を探すようなことはしない。
聞かれたら、貢ぎ物とは全く関係ないと言えばいい。ただの、人の子だと。それできっと、すべてが終わったのだ。
それでも、幼狐がそうしなかった理由。
(なんだ……)
幼狐は嗤った。嘲笑しくて、仕方がなかった。
あんな、ことを。
――――――あんなことをしでかしたのに、まだ自分は赦されたがっていたのか。
償っていたのは罪だった。でも、幼狐からのものだと通じない限り、永遠にそれは清算されはしないのに。
がら、と扉が引かれる音に、幼狐は背筋を強張らせた。
「…………きさん、」
落とされた声音が誰のものなのか、濁った眼で見えずとも幼狐は分かった。茫然と、見上げる。
宗右衛門。
この、姿を、
(……見られてはならない、)
自分であることが、ばれては。
気力を振り絞って、変化した。急いで。けれどもう遅い。そうえに分からないわけがない。
最後の最期、そうえを哀しませるわけにはいかなかったのに。
「…………そう、え」
途方に暮れた声が幼狐から漏れた。顔が上げられない。
ほたりと落ちたのは、汗か、それとも別のものだったのか。
昏くしか映さない視界の端の、鮮やかな銀色。
どっと、躯を突き抜けていった、重い衝撃があった。
地面に背中を打ちつけて、幼狐は痙攣する指先を腹部に持っていった。あっという間にてのひらは濡れる。
思わず目を伏せ唇を歪め、はは、と幼狐は嗤う。手を取り落とし、顔を逸らした。
「……なんの、つもりだ」
幼狐を地面に縫い付けて男は、低く言った。
躯を芯から震わせる、ぞっとする声音だった。
「からかって、楽しんでいたのか。……ふざけるのも、大概にしろよ」
「、っち、が……」
ごぷりと口から血が溢れた。喉に絡まってうまく喋れない。どうして人の姿を保っていられるのか、不思議なくらいだ。見られたくないのだ、あの狐の姿を。忌むべき記憶しかない、あの姿。
焦燥が心臓を満たしていって、命を削る速度で、全身に送られる。
「そー、えっ、おれ、は……っ」
何を、何を、言いたかったんだろう。
謝罪か、釈明か。
何か言う資格など、疾うにない。
それなのにこの口はまだ喋ろうとする。
「あの子が俺にくれていたものを、盗むつもりだったか?」
「――ッ!?」
ちらりと視線を置かれた秋刀魚に向けた宗右衛門が、怒りを抑えた声で訊く。腹への圧力が強くなる。
「そうまでして俺を蔑みたいか」
幼狐は息を呑んだ。見開き、ゆがんだ瞳から涙が幾筋も零れる。嗚咽を手の甲で抑えながら、首を振る。
まさか、――まさか。
幼狐がそんなことをすると。
そんな仔ではないことくらい、宗右衛門は知ってくれているはずだった。
そんな風に解釈されるなんて、思ってもみなかった。
けれどそんな信頼も、あの日すべて壊れてしまったのだ。
幼狐はわらうしかなかった。
この口はもう、血を吐きだすだけで、もういいのだ。
この躯はそうえの思うように甚振ってもらって構わないのだ。
……最初から、そうすればよかったのだ。
食べ物とか、そんなものよりも、幼狐がこうなることが男にとって最大の償いであったのに。目をそらし続けていた。
「……なぜ笑う」
「…………そーえが、うれしい、から……」
何も、伝わらなくていい。盗人なら、盗人のままで死んでいい。それが、罰だ。ふさわしい。
ごめんね、そうえ。
もう楽にさせて。
贖罪だけに生きるには、少しばかり覚悟が足りなかった。いまでも宗右衛門に情を望む、浅ましい自分がいることを自覚する。
恐いそうえは見たくないの。
「……なぜ、俺が嬉しいと思う」
「おれが、しぬ……。殺せて、うれしい……、違うか……っ?」
男は返答しなかった。それが、答えだと幼狐は悟った。引き攣った咳が喉から漏れる。
自分が放ったこと言葉のくせに、どうしようもなく痛かった。実際に負った傷よりも。
「あの童に、化けたのか。それともあれもきさんだったのか」
「りょ、ほ……おれ、だ……」
涙が零れて仕方がなかった。
こんな風に終わらなければいけない自分が悔しい。
何もなせなかった自分が。
「ずっと、……お前だったのか」
頷きひとつ。それが精一杯。
「なぜ、」
訊いてばかりだ、そうえは。
色を失った問いかけに、しかし幼狐はもう答えを返すことはできなかった。
寒い、これ以上は、もう、無理だ。
零れるのは喘鳴にしかならなかった。
「かこ、」
お前が、
幼狐は何とか唇を持ち上げて、笑おうとした。
そうだ、そうだよ、そうえ。おれなんだ……。
付けてもらった名前、大切な名前。覚えていてくれたの、あなたが、付けたの。
どうにかして、言葉を交わそうとした。
「そう、え」
おれが、あなたのもとに通っていたんだ。
「ごめ、
そうえ」
こんな気持ちで最後死んでいくことを、とても宗右衛門に、申し訳なく思った。
とても苦しんで、絶望して死ぬべき命なのに。
だからそんな、辛そうな顔をするの。おれの気持ちがわかってしまった? 甚振って甚振って、殺したかったろうに。いいんだよまだおれは生きてるよ、そうしてくれて、かまわない。
でも、最期にあんなふうに呼んでくれたりなどするから。幼狐だと、分かってくれたりなどするから。
「かこ、」
(おれはいま、とても、しあわせだ)
――――しあわせ、なんだ。
流れる涙は知らぬふり。
相反する気持ちなど知らないよ、けだものだから。
これでそうえが哀しみから解放されてくれたなら、おれはとても、うれしいんだ。
ほどけるように、変化は解けた。