鬼遣
初めて出逢ったときから、ぼんやりとした思慕と、恐怖があった。
その男の内面が、優しいということは知っていた。
それでも恐怖が拭えなかったのは、自分の前世を知っていたからだ。徐々に、染み出すように、思い出していった、それ。
男に対して、自分が何をしたか。男が自分に何を返したか。
こんな記憶を持って、この先生きていかなければならないのかと、恨んだ。
現世。
男は人間で、自分は狐のあやかしもの。
十四の年の差。
前世を少しずつ違えながら、それでもそれをなぞるように、生きた。
それは仔どもにとって、恐怖でしかなかった。前世は確かに自分だった。男のことは、大好きだった。かつても、今も、変わらず。けれど仲良してあってはいけないから、愛想よくもしなかった。なのによく、仔どもは男に構われた。親なし仔だったからかもしれない。
前世では些細なそれは、あやかしが人に交じり、人のふりをして生きる現代では、とても意味を持つことのようだった。
男が結婚したのは、仔どもが七つのときだった。彼の妻が死んだのは、それから二年後。結局、仔どもが男に同じ恨みを買った。病気がちの彼の妻。いつ死ぬかもわからない状態で、見舞いに行く男の方が先に死んでしまいそうなひどい面をしていた。
彼は自分の妻のことで頭がいっぱいで仔どもを顧みる余裕などなくなり、仔どもはそれを幸いと思えばよかったのになぜか。その日に限って男の前に飛び出してしまった。
こんなところで、男は死なない。前世の通りならば。でもそれでも男がいなくなる恐怖の方が優った。
幼狐のそんな愚かしい行動をしているあいだに、彼の細君は死んだ。また、仔どもが余計なことをしたせいで、臨終に間に合わせてあげられなかった。
同じことを繰り返すなら、この記憶に何の意味がある、と幼狐は嗤った。
それは今世での昔話。前世と同じく今でもひどく幼狐は男に恨まれていて、しかし現世では彼の視界に止まっても、仔どもが男から腹に大穴を開けられることはなかった。
それどころか時折声を掛けてきたりするのだから、まったく人間はわからない、と恐れとともに幼狐は思う。人
間のふりをして生きていても、少しも理解が及ばない。
今日もそうだった。
学校帰りの子どもの後ろ姿を認めて、わざわざ声をかけてくる。
「かこ!」
足音の段階で耳ざとい幼狐は気づいていたので早足で歩いていたのに、呼び止められてしまえば振り返るし
かない。
「……なに、そうえ」
スカートが足にまとわりつく感触が、不快だった。
長めのそれ、セーラー服。
仔どもは今年、中学二年になった。
宗右衛門との年の差が、十四なのだと、知った。
男は立ち止まった幼狐に追いついてきた。
そうすると、男の無表情がより一層目についた。
自衛隊所属を示す迷彩柄の作業服を着ていて、強面に拍車をかけている。
「愛想がないな、貴様。こんばんは、お久しぶり、くらい言えんのか」
宗右衛門には言われたくないな、と腹の中で仔どもは思ったが、もちろん口に出しはしない。そんなことを言える立場ではなく、幼狐は宗右衛門に対して負い目がある。
「こんばんは、お久しぶり」
男に要求されたことだけを反復すると、彼は眉間に皺を刻んだ。
「本当にかわいくないガキだな」
「可愛いと、思われたいわけではないからいいよ」
乱暴に頭を揺さぶられ、ぐわぐわと回る頭に喉声で威嚇する。すると宗右衛門は口端だけで嗤い、ぱ、と手を離した。
乱れた髪を押さえながら、幼狐は高い位置にある大人の顔を睨んだ。
「そもそも、なんの用だって、訊いてる。用事がないんだったら、さっさと帰って夕飯にでもしたらどうだ」
男やもめで料理をしない男の手にぶら下げられた、ビニール袋に幼狐は気づいていた。中身こそわからなかったが、食事が入っていないわけではないだろう。
「ん、ああ、そうだな」
いきなり腕を掴まれ、仔どもはつんのめった。
「一緒に食うか」「はっ、あああ!?」「恵方巻きを買ったんだ、付き合え」
ああ、そういえば今日は鬼遣だったか、冷静に呟く反面、幼狐はさらに喚く。
「意味がわからない、そうえはおれのことがだいっきらいで、顔も見たくないはずだろう! どうして構う、放っておけ!
わざわざまずい飯を食う必要がどこにある!」
楽しいから、と幼狐を引きずりながら宗右衛門はこともなげに言った。
「貴様の顔が歪むのを見るのは、楽しい」
は、と幼狐は息を止め、男が言うように自然と顔を歪めている自分がいるのを自覚した。男の目の前に立つと、罪悪感で胸が潰れそうになる。関わりたくない、過去の自分のように、贖罪に貢ぐことも殺されてやることもできない自分だから、せめてその目の届かぬところでひっそりと生きていようと思ったのに。
殺してやれないから、せめて甚振ろうというつもりなのかなぁ、と幼狐は考える。それは自分の胸を抉ることにも、
等しいことだろうに。
そういうつもりで、いつも幼狐を連れ回しているのだと思うと、淋しい気持ちになった。結局幼狐は宗右衛門に押
し切られてしまうと否やとは言えないわけで、重くなった足を引き摺りながら、男の下宿へと向かった。
寮で生活してくれていればよかったのに。わざわざ下宿なんかを作るから、容易に引っ張り込まれてしまう。
「そこらへんに、適当に座れ」
ちゃぶ台の上にビニール袋を置きながら、宗右衛門はまたとって返した。茶を淹れる、と言う。
「て、手伝おうか」
腰を浮かしつつ言うと、にべもなく断られる。
「いい、貴様は親御さんに、遅くなると連絡しておけ。スマホを貸してやる」
振り返らず後ろ手に投げられ、幼狐も慌ててひっくり返りながらそれを受け止める。落としたら、ねちねち文句を
言ってくるに違いないのだ。
ほう、と肩で息をつくと、仔どもの挙動を見下ろしていた男は、目だけで幼狐を馬鹿にした。
「……借りる」
「ああ、どうぞ」
幼狐は起き上がり、画面を操作する。幼狐の今の親は、里親だ。十のときに越してきた。それはちょうど宗右衛門の赴任先で、会えなくなってほっとしていたのに、また追いかけて都まで行ったときのように、出遭ってしまったのだった。
最早なにも男になすことのできない子どもと、大人。
電話をかけ終わってからも、幼狐はうつ、と考える。
宗右衛門がちゃぶ台の上に盆に乗せた湯呑みを置き、袋を漁りだしても幼狐はしばらく思考の中に沈んでいた。
「かこ、こっちを向け」
強い呼び声と同時、顎を掴まれた。ぐいと引き寄せられ、幼狐は目を見張る。足が崩れ、身体を支えようと仔ども
は宗右衛門の膝頭に手を付いた。
「なん、──っんぐ」
疑問は言い終わる前に封じられた。口に何かを突っ込まれたからだ。視界に映るそれで、幼狐はそれが恵方巻きだとわかった。
「丸ごと咥え込むわけにはいかないものだな。口が小さい」
ぐいぐいと押し込みながら、ちゃぶ台に片肘をついて、宗右衛門はつまらなさそうな顔をする。かじろうにも、口の
中がいっぱいでうまくいかない。
息が苦しく、涙目になりながらぱしぱしと宗右衛門の膝を叩いた。
「あァ、その顔は結構イイな」
「────、」
久々に見た宗右衛門の純粋な笑顔が、仔どもの泣きっ面を見てだというのだから、大概この男も歪んでいる。
「さっさと食え」
理不尽だと訴えたかったが、口の中がいっぱいで、まともな声にならない。少し出すなんて真似も汚くてしたくない
し、なんとか海苔を噛み切り、咀嚼して、更に突っ込んでこようとする男の手首を押さえ、慌てて阻止した。呼吸が持たない。
ムリ、と首を僅かに振ると、目に溜まった涙が落ちた。
それで、宗右衛門も虐めるのは満足したのだろう。そこまで鬼畜ではなかったということだ────、手を離す。
「西南西、庚はそのまま向いておけばいい、黙って食えよ」
幼狐の文句を先回りして止めてくるあたり、憎たらしい男だ。そうやって食べるのが、確かに正しいのだけど──、幼狐はやっと味がするようになった恵方巻きをもさもさと食べながら、自分用にももう一本取り出す男を見た。どうやら、
これは幼狐の分でいいらしい。
幼狐に向けられる、広い迷彩の背中。
この男とよりによって恵方巻きを食べるなんて。幸福なんて、どうやって祝えというんだろう。できるのは、どうか
この男に幸多かれと望むだけだ。
仔どもはごしごしと目元を拭った。
前世、死んだ年を大きく過ぎて────、今、この男とここにいる意味はなんだろう、と考える。
そんなの、わかりきっている。
「お前、遅いな、豆まきもするんだぞ」
さっさと食べ終わって幼狐を振り返り、宗右衛門は自分勝手に注文してくる。
一人のくせに、いちいち行事を踏襲する男に、面白くもあり、悲しくもあり。
残りを急いで食べ終えた。
待っていた、とばかりに幼狐の分の豆を渡してくる宗右衛門を黙って見つめ、かぶりを振って、仔どもは受け取りを拒む。眉を寄せる男に彼を見上げ、幼狐は口の端をひっそりと持ち上げた。
この男は、本当に他意なく自分を呼んだのか。彼と一緒にいることで、幼狐を傷つけること、以外には。そうなのだ
ろう、なにも、考えてはいないのだろう。
それでも。
皮肉だね、おれにはそうは思えないんだ。
ちゃぶ台に放置されていた、面がひとつ。ふさわしいのは翳してみせた、こちらの方。
「おれは鬼だよ、そうえ」
にっこりわらって、そう言った。
諦めを含んでわらっていた。
あなたにとって、祓うべき。
傍にいては、邪気を振りまく。
それでもここにいる、その理由。
生き殺してもらう、そのためだけに。




