19話 パンは貰えない
年末年始でお仕事が...申し訳ありません。
「乾!書類はまだか!?今日中に仕上げてもらわないと困るぞ」
「もう少々時間をいただけますか?」
空が茜色に色付き始める時間。乾真一は最近の増えたヴィランの処理の弊害で溜まりに溜まっていた仕事の消化に追われていた。
街の平和の為ヒーローとして使い物にならなくなり掛けている体を引きずりながらヴィランと戦い続けている彼だったがそれだけでは生計を立てる事は叶わない。
よってこのように身を粉にして勤労に励む必要があるのだが...いやはや世の中とは世知辛い物だ。人の生活を守る為に戦っている彼の生活は保障されないのだから。
「全く、何度も言っていることだがね君はもっと社会人としての自覚を持つべきだ。勿論君がやっている事は上の人間から聞いてはいるがそれは仕事を疎かにしていい理由にはならないんだぞ」
「申し訳ありません」
普段から乾に目をつけ何かと説教をするこの男の言う通りヒーローとして登録している者の通う学校や会社にはヴィラン出現の際スムーズにその場を離れることが出来るように政府の方から説明と補助金が支払われるのだ。
「そんなに言ったら可哀想ですよ。街の為に戦うヒーローをお説教なんてしたらヴィランとして退治されちゃいますよ」
そんな風に冗談を口にしながら馴れ馴れしく乾の肩に腕をかけ嫌味っぽい笑みを浮かべているのは俺よりも2年ほど後に入社して来た年齢は25歳程の軽い感じの印象を受ける風貌した社員だった。
先程の政府からの説明の中にはヒーロー達の日常生活に影響が出ないよう情報端末での保存や拡散を規制やヒーローが所属する組織の一部の人間にしか正体を明かさない等彼等の個人情報を守る為の措置が取られているのだが、幾ら情報統制をしたところで人の口に戸は立てれれないと言うようにふとした拍子に秘密など簡単にバレてしまう物だ。
何より乾本人に正体を隠すという意識が薄い事やヴィランが出現した瞬間会社を早退する生活を10年近く続けている事を考えればこの軽薄そうな男が「乾真一はヒーロー」である事を知っていても不思議は無い。
ただ彼がヒーローという事を知っていてもそれが10年前に未曾有の危機を救った英雄という事までは知らないようで、乾を年甲斐も無く子供みたいな夢を見ている痛い男だと思っているこの社員に敬う心など存在せずここ数年嘲笑の言葉を口にして来た。
乾は始めこそ腹を立てた事はあったが今ではすっかり慣れてしまいその嘲りの言葉を右から左へと聞き流している。一々しょうもない事に腹を立てるのはエネルギーの無駄使いでしか無い事は28年間生きてきて既に学んだ事だ。
空返事を続ける乾に気づいた社員は憤慨したように捲し立て暫くするとドスドスと足音をふみ鳴らしながら去っていった。因みに乾はここまで彼の話を一切聞いていない。
彼の頭にあるのは今日は家に何時に帰宅できるのかそれだけであった。ただ彼の使っているロッカーの鍵穴にはア◯ンアルファが流し込まれている事だろう...勿論他意はない。
その場に残されたのは乾と話の途中だった上司の男のみ。仕方ないとばかりに息を吐きながら上司である男は口を開いた。
「...とにかく、君がそこまで仕事を溜め込んでしまったのはひとえに報連相の不足が大きな原因と言えるだろう」
「はい」
「仕事が滞りそうな際に私や同僚に相談する事は出来なかったの?そういう所が自覚が足りないって言ってるんだよ」
「はい、すいません」
「それに終わった書類を私の机に随時置いていくのはやめてくれ」
「...そう指示したのは男では」
「そんな事言ってないよ。叱られている立場なんだから口答えしないでくれるかな」
「...はい、申し訳ありません」
一通りのお叱りを受け終え自分の席に戻る乾であったがそこでふとある事に気付いた。
「あれ?...付箋が無い」
電子データ以外の書類をまとめる時に普段から使っている長方形の付箋が見当たらない。所在を知らないかと付近のデスクに座っている男性社員に声をかけると...。
「あー...部長が持って行って使ってましたよ」
「・・・・」
彼の言う通り上司のデスクを見てみると見覚えのある私物が使いかけの状態で無造作に置かれていた。
報告、連絡、相談はどうしたんですかね...。
上司が言っている事がコロコロ変わり発言が矛盾して不条理な事で叱られても立場の弱いこちら側が飲み込まなければならない。
社会にでて働いていれば当たり前のように遭遇する極々ありふれた出来事だ。こんな事で一々根を上げていたら社会でやっていけないと仰る人生の先輩方もいるだろう。
分かっている。頭では理解してはいるのだ。納得出来るかどうかは全く別の話だが。
「っ〜...、はあ。ん?」
スマートフォンの着信を確認した乾は作業に一旦区切りをつけヤニの補給をする事にし景色の良い屋上を目指してデスクを後にした。上司の視線が背中に突き刺さるがそれを無視して歩を進める。
社内の階段を登り屋上へ続く立て付けの悪い扉へ手をかけた。
錆のせいか何処か鈍い音を響かせる扉の様子から普段はあまり人の通りが無い事が分かる。だからこそ乾の息抜きの場に選ばれたのだが。
扉が開け放たれた瞬間乾の周囲を新鮮な風が駆け抜ける。
1つ深呼吸をして貯水タンクの横を通り過ぎて手すりのある屋上の端まで歩く乾の手には既に取り出したタバコが摘まれている。
彼がそれに火を点そうとした瞬間、先程閉めた扉から何かがぶつかった様な音が響いた。
乾がキョトンとしながらなんとなく扉に視線を向けているとギイ、ギイ、と錆が擦れる音を鳴らしながらゆっくりと扉が開かれた。
「はあ、はあ...先輩こんな所で何してるんですか」
「ん?あー、休憩?」
「なんで疑問形何ですか」
まったく...と文句を1つ吐き、開いた時と同じ労力を使い扉を閉めたその女性はともすれば高校生...下手をすれば中学生に見間違われそうな華奢な体躯を激しく動かしながら乾へと近づいてくる。
彼女の名前は後藤小麦、乾の変身に毎回一役かっているパン好きの後輩だ。入社してから何かと乾の世話になる事が多かった彼女は問題があるとこうして乾を探し声をかけてくる事がある。
「お前もうじき定時だろ?なんか問題でもあったのか?」
手に持っていたタバコを火を点けず口に咥えた乾は100円ライターを利き手で玩びながら尋ねた。
「部長から仕事押し付けられて残業確定になったことは問題といえば問題...ってそうではなくて。先輩の様子がいつもと違ったから...」
「へえ、麦ちゃん心配してくれたの?」
こじんまりした姿形に引っ張られているのかこの後輩の性格は割と幼い部分が目立つ。確か今年で24位にはなっていたと思うが目の前のからかえばからかっただけ面白い反応をしてくれる姿をみるとスーツも相まって学生にしか見えない。
「こんなチンチクリンに心配されてちゃあ俺も終わりかね...」
「酷すぎません!?」
憤慨する小麦をみてケタケタとひとしきり笑い満足した乾は口元の火の点いていないタバコを揺らしながら続ける。
「悪い悪い、代わりと言っちゃなんだけど麦ちゃんの仕事、俺が貰ってやるからちゃんと定時で帰りな」
乾の言葉に尖らせていった目を今度は驚きで見開く小麦であった。
「え...でも」
「悪もんは俺たちみたいな健全な労働者よりも働き者みたいだからさ」
キョトンとした小麦は乾の言葉を聞いて顔を青くする。
「これから...何ですか?」
「さっき連絡があってな今夜ヴィランの連中の活動が活発になるらしい」
だからお前はさっさと帰れと念を押し乾は小麦を少々強引に屋上からおいだした。
扉を閉める際の小麦の表情が妙に記憶に焼きついたが乾に思う事はなく再び手すりの所で空を見上げる。
暫くほうけていると乾は自分が何のため屋上に来たのかを思い出し口元の肺殺しに再び火種を近付けた。
『ルオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ』
何処か遠くで獣の咆哮の様な声が響いている。
「はあ、今夜って言う割に随分早く無いか...まだ夕方だぞ」
本当に悪者って働き者だよな、と呟きを残して彼は血の様に赤く染まる空へと消える。
そして彼がこの会社に戻る事はもう無かった。




