戦国秦氏
兵児、というのは、薩摩の、十五歳から二十五歳の青年のことをいう。若者を、これだけ直截に「兵力」としてかぞえているのは、さすが薩摩というところだが、この兵児という言葉、兵児帯、ふんどしという意味のほかにも、なぜか、「いやしい」という意味もあるらしい。
不思議だ。薩摩隼人、島津家中というのは、剽悍獰猛のイメージがあり、およそ、「いやしい」という言葉にあてはまるものではない。ただ、幕末期に見られたように、当時の武士道徳からすれば、あぜんとするような腹黒い外交を水面下ですすめ、倒幕を狙いながら会津藩と手をむすび、京中から長州藩を追いはらう――その後も、謀議の結果、不倶戴天のはずの長州藩と手をむすび、今度は鳥羽伏見から会津戦争まで、徹底して幕府と会津をせめほろぼし、「薩賊」と呼ばれたとおりの悪辣さを見せている。これも、鎌倉武士の気風を保存する島津家のたまものであろう――つまり、こういうやり口が、鎌倉武士の峻烈さなのだ。これだけ腹黒く、まさに兵児、としかいいようのない世渡りをしながら、とうの薩摩人は陽性なイメージで、なんなら後世に好意的にむかえられている……強かな連中だ。ひとつには、彼らは、それこそ、理系の損得利害で進退し、政略という必要性でのみ行動して、へんに憎悪したりすることがすくなかったためであろう――苛烈で男性的、あっけらかんとした、やはり、中世人なのだ。
この、戦国末期から江戸明治をとおして、日本によき異風を通した一族は、惟宗氏――秦氏を祖としている。
九州の英雄として第一の声望を得ているのは島津だが、四国となれば、長宗我部家であろう。その祖は土佐にはいった長宗我部能俊で、これは、もともと秦能俊なのだという――おもしろいのは、これは自称であり、資料的なうらづけができないことだ。平安期には、秦氏は、むしろその氏姓をすて、こだわりなく源平藤橘に属している。それがここにきて、自称するにたる由緒として意識されている。ふしぎだ。ほんとうに、秦氏が祖なのか。
長宗我部氏自身も、たしかに、秦氏に似ているのだ。土佐という言ってはなんだが四国山地で隔絶されている風のある辺境で、中央情勢からほどとおい地盤だというのに、織田家包囲網にてこずっている段階の信長に、明智光秀を通じて接近している。天下人を嗅ぎつけるこの嗅覚は、たしかに、秦氏のお家芸だ。四国統一をなしとげたのは長宗我部元親だが、その正夫人は斎藤利三の姪――利三は光秀の側近で、元親と光秀の関係は濃やかなものだった。一説には、本能寺の変の背後には元親がいるともいわれている――まあ、やりかねないところではある。当時、「四国切取次第」と、元親の四国統一にお墨付きを与えたはずの信長が、にわかに土佐と阿波半国のみに限定するとはしごをはずしたかっこうになっていた。
必要があれば、やる。
これが、理系の冷徹さで、北条氏が、源姓の将軍たちを切り捨てた冷めた血潮が、この人物にもあったのかもしれない。
ただ、その後に織田家の番頭である羽柴秀吉が天下人として躍進しはじめた情勢があっては、たとえ密謀があったとしても闇に葬る以外にない。
元親も運がない。
四国統一をさまたげ、元親に圧迫をくわえていた信長がいなくなって早々、秀吉が興り、最終的には四国征伐でその軍門に降ることとなる――元親は、賤ヶ岳では柴田勝家方、小牧・長久手では織田・徳川方と、ことごとく反秀吉と同盟し、四国から外圧をくわえつづけた――おのれの非運をみとめたくないかなしさがある。
西国では秦氏や大神氏の声望を慕い、その末裔を名乗る大小名がいる。これにたいして東国ではその気分はなく、やはり、彼らの地盤は宇佐八幡宮であり、西方なのだというきがする。蒲生氏郷や内藤如安、内藤正成など、秀郷流、藤原千晴子孫だが、秦の血筋を口にしない――もっとも、あまり、自分が源氏だと主張したようにも思えないあたり、やはり、藤原千晴の母は秦氏だったのだろう。
これらひょうすべどもは、群雄割拠の戦国時代に、共通して、ひときわあざやかな異彩を縅している――俯瞰すれば、やはり、きらびやかだ。
異彩と触れることで、多彩は活きる――鬼島津や鳥なき島の蝙蝠(元親の異名)がいない戦国時代は、ずいぶんさびしいものになるだろう。




