1 断罪の夜会と、救済という名の誘拐
天井から無数の光の粒を降らせる王宮の大広間は、初夏の訪れを祝う貴族たちの熱気と、立ち上る香水の匂いで満ちていた。
弦楽四重奏が奏でる軽やかなロンドに合わせて、色とりどりの絹やレースを纏った貴婦人たちが軽やかにステップを踏んでいる。
壁際に並べられた長机には銀器に盛られた冷製肉や季節の果実、葡萄酒が惜しげもなく並べられ、夜会はまさに華やぎの頂点にあった。
その眩い光輪から完全に外れた柱の影に、エヴリン・クロウフォードは一人で立っていた。
「……三番街の穀物商への支払期限が今週末。本邸の使用人たちの給与台帳の締めが明後日。それから、父上が先週勝手に注文した外遊用の鞍の請求書が週明けに届くはずね」
エヴリンは手元に隠し持った小さな革表紙の手帳を微かに開き、頭の中で数字を弾いていた。
彼女の纏っているドレスは三年前の型遅れの夜会服。
深い藍色の生地は仕立てこそ悪くないものの、ところどころ擦れが見られ、襟元のレースは何度も洗い直されたせいでやや黄ばんでいる。
華やかな夜会にあって、宝石の一つすら身につけていない彼女の姿は、周囲の着飾った令嬢たちから見れば異様であり格好の嘲笑の対象だった。
クロウフォード伯爵家の長女でありながら、実母が病没した後に後妻として入ってきたドロテア夫人。そしてその娘である異母妹のコレットから、家庭内で徹底して冷遇されてきた結果がこの姿だ。
ドロテア夫人はエヴリンに新しいドレスを一切あてがわず、社交界に出るための支度金も渡さなかった。
その一方で、屋敷の帳簿付け、商会との支払い交渉、領地の小作人たちとの契約更新といった泥臭い実務のすべてを「長女の義務」と称してエヴリンの細い肩に押し付けていた。
もっとも、エヴリン自身は自分の境遇を嘆いて夜な夜な枕を濡らすような性格ではなかった。
ドレスが古いなら汚れても気兼ねなく動けるし、宝石がないなら盗まれる心配もない。
冷遇されている時間を使って家中の帳簿と契約書を徹底的に確かめ、誰がどこでいくら無駄遣いしているのかを把握することに全力を注いできた。
彼女にとって数字と法的文書こそが、唯一裏切らない盾であり武器だ。
その時、広間の楽団の演奏がふつりと途切れた。
ざわめきが静まり、人垣が波のように左右へと割れていく。大広間の中央から堂々たる足取りで歩み出てくる一組の男女があった。
男は見事な金髪をなでつけ、派手な金糸の刺繍が施された上着を着こなした青年――エヴリンの婚約者であるセドリック・ランベール子爵令息。
そしてその腕に、庇護を求める小鳥のように寄り添っているのは、淡い桃色の豪奢なシルクドレスに身を包んだ妹コレットだった。
コレットの胸元には大粒の真珠の首飾りが揺れ、その愛らしい瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。
二人の背後には憮然とした面持ちの父エドガー伯爵と、勝ち誇ったような笑みを浮かべた継母ドロテア夫人が控えていた。
「いたぞ。あの恥知らずが」
「妹の晴れ舞台に、あんなみすぼらしい格好で現れるなんて」
周囲の貴族たちから、あからさまな囁き声が漏れる。
セドリックは広間の中央で立ち止まると、芝居がかった仕草でエヴリンを指差す。
「エヴリン・クロウフォード! 貴様との婚約を、今この場をもって破棄する!」
その声は会場の隅々まで朗々と響き渡る。広間が静まり返り、次いで低いため息と嘲弄の混ざったざわめきが広がっていく。
王道にして典型的な夜会での公開婚約破棄。周囲の視線が一斉にエヴリンへと突き刺さる。
侮蔑、好奇、嘲笑、わずかな憐憫。
だが、当のエヴリンは眉毛一本動かさず、静かに手帳を閉じ姿勢を正して歩み出た。
「セドリック様。公の場で大声を張り上げるのは感心いたしませんが、婚約破棄の理由をお伺いしても?」
「とぼけるな、この悪女め!」
セドリックは激昂したように胸を張り、隣のコレットの肩を抱き寄せる。コレットはわざとらしく身を震わせて、セドリックの胸元に顔を埋めた。
「貴様の冷酷で嫉妬深い本性は、もはや覆い隠せん! 心清らかなコレットを日頃から虐げ、あまつさえ先週は、彼女が大切にしていた夜会用のドレスにわざと葡萄酒を注ぎ、破棄させようとしたそうだな! 妹の幸福を妬み陰湿な嫌がらせを繰り返すような女を、我がランベール家の妻として迎えるわけにはいかない!」
「まあ、なんて恐ろしい!」
「実の妹にそんな真似を……」
周囲の貴族たちが顔を見合わせ眉をひそめる。
ドロテア夫人が扇で口元を隠しながら、これ見よがしにため息をついた。
「本当に情けない子ですわ。私たちがどれほど愛情を注いで育ててきたかも知らず、妹への嫉妬で歪んでしまうなんて。母親が生きていればどれほど嘆いたことか」
父エドガーもまた、娘を庇うどころか自らの面目を保つために厳罰を科す父親のポーズを取って前に出た。
「エヴリン。我がクロウフォード家の名を汚す愚行、断じて許さん! セドリック殿への無礼、そしてコレットへの非道、すべてお前の責任だ!」
四方から浴びせられる非難の嵐。
通常の令嬢であれば、その場に泣き崩れるか恥辱に耐えかねて逃げ出すところだろう。しかし、エヴリンの瞳は氷のように冷え切っていた。
彼女は怯むどころか、すっと顎を引き、まっすぐにセドリックを見据える。
「言い分は、それで全部でいらっしゃいますか?」
「な、何だと……?」
「感情論と言いがかりは十分に拝聴いたしましたので、次は事実の確認をさせていただきます」
エヴリンは手元から、手帳とは別に忍ばせていた数枚の折りたたまれた羊皮紙を取り出す。
それを流れるような手つきで広げ、会場の誰にでも見えるように掲げた。
「まず、私がコレットのドレスを汚したという先週木曜日の午後です。私はその時刻、王都登記局において、クロウフォード伯爵領の境界確定に関する協議に立ち会っておりました。こちらが担当登記官の署名と公印が押された、午後三時十五分付の出頭記録です。王宮から登記局までは馬車で片道一刻。物理的に私が屋敷で葡萄酒を注ぐことは不可能です」
「う……そ、それは……」
セドリックがたじろぐ。コレットの顔から血の気が引いた。
だが、エヴリンの反撃はそこで終わらなかった。
彼女は二枚目の紙をめくる。
「次にコレットが本日お召しになっている、その美しい桃色のドレス。および胸元の真珠の首飾りについてです。セドリック様。あなたが『愛の証』として彼女に贈られたものだと伺っておりますが」
「そ、それがどうした! 私が誰に何を贈ろうと勝手だろう!」
「ええ、ご自身の資産から支払われているのであれば、何ら問題はございません。しかし、王都のリュミエール宝飾店および、ルブラン仕立て屋からの請求書控によれば、その代金合計四百二十万ゼルは、ランベール子爵家の口座ではなく、私個人名義の預託口座から無断で引き落とされておりました」
広間が水を打ったように静まり返る。
エヴリンは淡々とした、しかしよく通る明晰な声で言葉を続けた。
「セドリック様は先月、婚約者としての信用を悪用し、私の委任状を偽造して引き落としの承諾書を提出なさいましたね。こちらが為替商から取り寄せた引き落とし明細の原本、および専門家による筆跡鑑定書です。ついでに申し上げますと、あなたが一昨月に遊興費で負った借財の返済猶予を求める念書も、ここにございます」
「なっ……な、何を馬鹿なことを! でっち上げだ! そんなものは無効だ!」
セドリックの顔が真っ赤になり、次いで土気色に変わった。
広間のあちこちから、今度はセドリックとコレットに向けた冷ややかな視線と囁きが漏れ始める。
「他人の金で妹に貢いでいたのか」
「しかも婚約者の財産を無断で?」
「子爵家の跡取りが、借金の肩代わりを……」
コレットは震え上がり、セドリックの腕から手を離して後退りした。ドロテア夫人も扇を握りしめたまま硬直している。
エヴリンは容赦なく最後の一撃を放つ。
「妹のドレスを汚したなどという根拠のない捏造で私を断罪しようとしたのは、これらの不正引き出しと借財の返済を私から追及される前に、有責者として追い出して口封じをしたかったからですね? あまりにも杜撰で浅薄な計略ですね。セドリック様」
「き、貴様ぁぁっ……!」
セドリックが怒声を発しようとしたが、喉に何かが詰まったように声がかすれる。
大勢の前で具体的な証拠を突きつけられ反論の余地を失ったのだ。
だが、その鮮やかな反撃が逆にある人物の逆鱗に触れた。
父、エドガー伯爵である。エドガーにとって重要だったのは真実ではなく、貴族としての体面だった。
大貴族や有力者が集まる夜会の場で、身内の醜聞を白日の下に晒し、婚約者である子爵家の面目まで損なったエヴリンの行為は、伯爵の薄っぺらな自尊心を粉々に打ち砕いたのだ。
「ええい! 口を慎まんか、エヴリン!」
エドガーが激昂し、拳を振り上げてエヴリンに詰め寄る。
「親に向かって、婚約者に向かって何という思い上がった口を利くか! たとえ事実がどうであれ、場を弁えず家名を泥塗れにしおって! 情のかけらもない冷酷な娘め! 今日限りでお前を勘当する! クロウフォード家から即刻出て行け!」
エドガーの怒号が広間に木霊する。これでエヴリンは、完全に後ろ盾を失ったことになる。
住処も、家族の庇護もすべてを剥奪されたのだ。
周囲の貴族たちはさすがに哀れみの目を向けた。どれほど正論を吐こうと、勘当された令嬢の末路など知れたものだからだ。
しかし、エヴリンは取り乱すどころか、ほっと胸を撫で下ろすように息を吐く。
「ありがとうございます、父上――いえ、エドガー様」
「な……何だと?」
「公の場において、多数の証人の前で『勘当』の言質を明確にいただき、心より感謝申し上げます。これで今後、私がクロウフォード家の帳簿付けや契約書の精査、屋敷の雑多な事務処理を無償で引き受ける理由は完全になくなりました」
エヴリンは淑女らしく礼を取った。スカートの裾をわずかに持ち上げ、頭を下げるその姿には、微塵の屈辱も滲んでいない。
「なお、セドリック様。先ほど提示いたしました不正引き出し額四百二十万ゼルにつきましては、明日付で王都公証院を通じて正式な返還請求書を送付いたします。期日までに必ず全額をお返しくださいませ。それでは、皆様のご多幸をお祈り申し上げます」
顔を上げたエヴリンは、信じられないものを見る目で固まる父、継母、妹、そして元婚約者を一瞥すると踵を返す。
ざわめく人垣が自然と彼女のために道を開けていく。
背筋を真っ直ぐに伸ばし擦り切れたドレスを揺らしながら、エヴリンは大広間の大扉をくぐり、堂々とその場を後にした。
◇
王宮の外に出ると、ひんやりとした夜風が火照った頬を撫でた。石造りの大階段を降りながら、エヴリンは小さく息を吸い込む。
「ふう。少し言い過ぎたかしら……? いえ、先に手を出してきたのは向こうなのだから正当防衛の範囲内よ。甘い顔を見せれば、借金を全部私のせいにされ追い出されていたところだった」
エヴリンは自分の判断を頭の中で検証し、即座に肯定した。
足を踏まれたら踏み返す。それは彼女が生き抜くために身につけた絶対の処世術だ。
大門を出て、夜の王都の街並みへと歩みを進める。
見栄っ張りの父のことだから、今夜のうちに屋敷のエヴリンの部屋から私物を放り出すか、鍵を取り替える手配をするはずだ。
今さら屋敷に戻る気など毛頭ない。
「まずは、今夜泊まる宿を探さなくては。商業区の西通りなら、帳簿付けの仕事で付き合いのある堅実な宿屋があるはず。一泊銀貨三枚。手持ちの現金で二週間は保つわね。明日の朝一番で登記局へ行き、独立した平民としての身分登録手続きをして……」
頭の中で優先順位をつけ、無駄のない行動計画を組み立てていく。
住む家を失い、家族から縁を切られ、婚約者に裏切られたというのに、彼女の胸にあったのは絶望ではなく、厄介な無償労働をすべて投げ捨てたような奇妙な爽快感だった。
大通りへと抜ける薄暗い辻に差し掛かった時、規則正しい蹄の音が夜の静寂を破って響いてくる。
現れたのは漆黒の四頭立ての馬車。磨き上げられた黒檀の車体には、銀の塗料で繊細な紋章が描かれている。双頭の鷲と氷晶の盾――王国内でその紋章を知らぬ者はいない。
「……ヴァレンシュタイン公爵家の紋章?」
エヴリンが足を止め眉をひそめた瞬間、馬車は滑るように彼女のすぐ脇で停車した。
御者が飛び降りるよりも早く、馬車の扉が内側から勢いよく開かれる。車内から姿を現したのは一人の男だった。
夜の闇に溶け込むような深い濡れ羽色の黒髪。彫刻のように整った鼻梁と、氷を削り出したかのように鋭く冷徹な青灰色の瞳。
長身躯に纏った漆黒の軍礼服には、数々の武勲を示す勲章が鈍い光を放っていた。
オズワルド・ヴァレンシュタイン公爵。
王国の治安維持と北部辺境の軍権を一手に握る若き巨頭であり、隙のない采配と他者を寄せ付けぬ厳格さ。社交界でも浮いた噂が一切なく、女性嫌いとしても知られている存在だ。
(なぜ、こんな高位貴族がこんな場所に……?)
エヴリンが警戒して一歩後ずさると、オズワルドは長い脚で地面に降り立ち、彼女の前に音もなく立つ。
大柄な体躯から放たれる威圧感は凄まじく、並の人間なら息を呑んで平伏するところだ。
オズワルドは切れ長の瞳をわずかに細め、怜悧な面持ちのまま、しかし確信に満ちた重厚な声で言った。
「迎えに来た」
「…………」
夜風が二人の間を吹き抜けていく。
エヴリンは二度瞬きをし、周囲を見回した。
路地には自分と公爵、そして御者しかいない。どうやら自分に向かって言っているらしい。
「結構です」
エヴリンは即座に平坦な声で辞退した。
オズワルドの眉がピクリと動く。完璧な彫像のようだった彼の美貌に明らかな亀裂が入る。
「何……?」
「結構ですと申し上げました。人違いでいらっしゃいませんか? 私は先ほどクロウフォード家を勘当された身であり、公爵閣下にお迎えいただくような筋合いは一切ございません」
エヴリンは極めて丁寧に事務的に頭を下げ、公爵の脇を通り抜けようとした。
しかし、オズワルドの長い腕が伸びて彼女の進行方向を塞ぐ。
「人違いではない。エヴリン・クロウフォード、君だ。先ほどの夜会での一部始終を見ていた」
オズワルドの青灰色の瞳にどこか熱を帯びた、そして絶対的な正義感を宿した光が灯っている。
「見事な気概だった。だが、どれほど気丈に振る舞おうと、理不尽に家を追われ、傷つけられた令嬢をこのまま夜の街に放り出すわけにはいかない。君の孤独な戦いは終わった。これからは我がヴァレンシュタイン公爵家が君を保護する」
完璧な台詞だった。
絶望の淵に立たされた不遇の令嬢であれば涙を流してその胸に飛び込み、神の救済に感謝したかもしれない。
彼の眼差しには一点の邪心もなく、純度満点の善意と庇護欲に満ち満ちている。けれど、エヴリンの反応はそれらとは全く異なっていた。
「余計なお世話です」
「……よ、余計……?」
オズワルドが絶句する。
人生で一度も言われたことがない単語を聞いたかのように、青灰色の瞳が大きく見開かれる。
「私は自分で宿を取ります。手持ちの資金もありますし、明日の予定もすべて組んでおります。公爵閣下の保護を受ける理由がありません」
「理由はある。夜の王都は若い令嬢の一人歩きに適さない。治安の悪い場所に迷い込めば、どのような危険に遭うか分からん」
「治安の良い大通り沿いの宿を選びますし、私は自分の身を守る程度の警戒心は持ち合わせております。危険を口実に、見ず知らずの方の施しを受ける筋合いはありません」
「施しではない。正当な保護だ。理不尽に尊厳を踏みにじられた者を救うのは力ある者の義務だ」
「その『力ある者の義務』とやらに、私の合意は含まれているのでしょうか?」
エヴリンはすっと目を細め、公爵を見上げた。
「私は今、誰の助けも求めておりません。救済を望んでいない人間に無理やり手を差し伸べるのは、救済ではなく単なる自己満足の押し付けです。お引き取りください」
淀みない正論の連打。
オズワルドは完全に言葉を失い、口をわずかに開けたまま硬直した。
おそらく彼の二十四年の人生において、これほど真っ向から善意を拒絶された経験は皆無だったのだろう。
数秒の沈黙の後、オズワルドの表情が奇妙な方向へと歪む。
困惑を通り越し、何か強烈な使命感に火がついたような顔になったのだ。
「なるほど。長年の不当な扱いのせいで、他者を信じることができなくなっているのだな。頑なに心を閉ざし一人で張り詰めている……痛ましいことだ」
「は?」
エヴリンは思わず眉をひそめた。何をどう曲解すればその解釈に至るのか。
「君が強がっているのは分かっている。だが、限界まで張り詰めた糸は、いずれ切れる。今は私を拒絶しても構わない。君の安全を確保するのが先決だ」
「ちょっと、話を聞いていらっしゃいますか? 私は強がってなど――」
「乗れ」
「嫌です」
「乗るんだ」
「嫌だと申し上げております!」
エヴリンが身を引こうとした瞬間、オズワルドは一切の躊躇なく踏み込み、彼女の細い手首を掴んだ。乱暴ではないが絶対に解けない万力のような力だった。
「なっ……離しなさい!」
「暴れるな、怪我をする」
オズワルドはいとも容易くエヴリンの体を抱え上げると、抵抗する隙も与えずに馬車の車内へと押し込む。
羽毛のように柔らかな座席に放り出されたエヴリンが飛び起きようとした瞬間、オズワルド自身も素早く乗り込み、目の前の座席に腰を下ろしてバタンと重い扉を閉める。
「出せ!」
オズワルドが御者台に向かって短く鋭く命じた。鞭の鳴る音が響き、馬車が力強く発進し、車輪が石畳を転がる重厚な振動が伝わってくる。
「……っ!」
エヴリンは乱れた髪を払い、扉の取っ手に手をかける。しかし、内側からは厳重な金具で鍵がかけられており、容易には開きそうにない。
窓の外を見れば、夜の景色が凄まじい速度で後ろへと流れていく。飛び降りれば無傷では済まない速度だ。
エヴリンは大きく息を吸い込み、座席に向き直った。
目の前には、自らの完璧な判断と迅速な行動に微塵の疑いも抱いていない、涼しい顔をした『力のある者』様が優雅に足を組んで座っている。
エヴリンは冷徹な眼差しで、目の前の男を真っ直ぐに見据えた。
「公爵閣下。一つ確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「何だ? 気分でも悪いか? 毛布ならそこにある」
オズワルドは親切そうに座席の隅に畳まれた上質な布を指差した。どこまでも善意に満ちた、非の打ち所のない気遣いだった。
エヴリンは引き攣りそうになる頬の筋肉を必死で抑え、声音にありったけの冷気を込めて言い放つ。
「これは救出ではなく、明らかな誘拐では?」
「人聞きが悪いな。保護だ」
「同意のない身柄の拘束と連行を、世間一般では誘拐と呼ぶのです!」
「安全が確保されるまでの一時的な措置だ」
「それを誘拐と言うのです!」
豪奢な馬車の中にエヴリンの怒りの正論が虚しく響き渡る。
救済者を自負する公爵と、不本意極まりない連行に憤るエヴリン。
二人の噛み合わない夜を乗せて、馬車は公爵邸へとひた走っていった。




