第五十七章――停戦の値段
停戦を延ばす文書に、リュサを攻めるなと書いてある。
エリオス・アルヴァレインは、その一行を読んで顔を上げた。
「前の案には、なかったな」
「今回の返答で、アルヴェルンが加えてきました」
リシア・エルネスは卓の向かいに立ち、前の文案を開いた。黒髪を低く束ねた細い首が、紙へ傾く。眼鏡の奥の金色の瞳は、二つの文章を行き来している。
「延長期間中、リュサへの武力行使を停止する。ただし、帰属についての双方の主張には影響を与えない、とあります」
「我々の都市だと言い続けるのは構わないが、軍は向けるなということか」
「はい。独立承認までは求めていません」
エリオスの前には、修正を重ねた停戦文案が三つ並んでいた。国境部隊の扱いや軍用輸送の通知について、返答が来るたびに書き直してきたものだ。残る相違点をようやく絞れたところへ、都市の名が増えた。
停戦が終わるのは、今日である。
「アルヴェルンからの支援も止めるのか」
「この案では、止まりません」
「向こうは物を送り続け、我々は手を出せなくなる」
「その条件は、こちらに不利です。それでも、西方の停戦を延ばすために受け入れる余地はあると思います」
エリオスは背もたれへ身体を預けた。リシアは文案を閉じず、返答を待っている。
「私が再攻撃を命じていないからか」
「はい。今すぐ攻める予定がないのであれば、その間の不攻撃を約束して、西方でも兵を止められます」
「今は待つと、私が決めている。状況が変われば命令も変える。その判断まで縛られるのだぞ」
「縛られます。陛下が攻めるべきだとお考えになっても、期間中は攻められません」
リシアはそこで言葉を切った。
「ただ、その自由を残すために、西方の停戦を終わらせてよいのか。私は、まだ延ばす方がよいと考えています」
入口側で、地図を広げる音が止まる。
ヴァルド・レディオンが、配置図の端を台へ押さえていた。短い灰色の髪の下で顎を引き、二人の話が途切れるのを待っている。書類を抱えた職員が背後を通ろうとすると、広い肩を壁側へ寄せた。
「陛下。延長できなかった場合の命令は、先に届けておきたい」
「まだ返書を決めていない」
「満了まで待機させます。延長が成立すれば、そのまま動かさなければよい。ですが、決裂してから命令を出すのでは、現地が判断を待つ時間ができます」
エリオスは椅子を引いた。
執務卓から地図台までは、部屋の中央を通れば数歩で届く。リシアが文案をまとめて後へ続くと、ヴァルドは台の短辺へ回り、二人の場所を空けた。
窓の下では、枝廊下を荷車が渡っていた。向かいの棟へ入る曲がり角で車輪がつかえ、引いていた者がいったん押し戻している。執務室まで届く振動に、地図の端へ置いた紙片が小さく震えた。
「こちらの部隊を、ここまで進めます」
ヴァルドが示す線は、国内の街道に沿っている。後方の部隊を前方の守備拠点へ寄せる案だった。輸送と到着の予定は別紙に分かれ、すべてが同じ日に揃うわけではない。
「国境は越えないな」
「越えません。こちらの拠点を補強します」
エリオスはアルヴェルン側の札を指した。
「向こうは、まだここにいるのか」
「最後に確認できた位置です。新しい報告を待っています」
札の脇には、場所と時刻を書いた紙片が添えてある。街道ごとに報告の新しさが違い、図全体を同じ時刻へ揃えることはできなかった。
「荷車が増えたという知らせは来ています。交代のためか、増派の準備かは、まだ分かりません」
「こちらが前へ出れば、向こうも増派の理由に使います」
リシアが言うと、ヴァルドは頷いた。
「その危険はある。だから、進める場所を決めておきたい。相手の動きを見てから、現地で次々に部隊を寄せることにはしたくない」
「この配置まで進んだあと、相手がさらに兵を寄せたら?」
「改めて報告させる。追って前進させる命令にはしない」
リシアは図へ身を寄せた。眼鏡の細い縁が、目元に影を落とす。
「こちらが前へ出て、相手も兵を寄せれば、両軍の距離は縮まります。現地で何か起きたとき、王府へ判断を求める前に撃ち合いになる危険が増えます」
「分かっている」
ヴァルドの声が少し荒くなった。
「危険のない位置を訊かれても、出せん。後ろへ置けば、何か起きてから着くまでに時間が掛かる。そのどちらを取るかだ」
エリオスは二人の間に置かれた図を見た。
動かさなければ安全なのではない。動かせば安心できるわけでもない。ヴァルドが苛立っているのは、そのことを何度説明しても、最後には危険がないかと問われるからだろう。
「この配置案で準備を続けろ。実施するかは、返書を決めるまで待て」
ヴァルドは短く頷いた。
エリオスは地図棚の下段へ目を移す。西方の図とは別に、リュサの市街図が巻かれていた。
「リュサ方面の兵を使う案ではないな」
「別に編成しています。リュサ方面は現在の警戒を続けさせます」
「奪還計画は、どこまで進んでいる」
「組み直しています。兵と装備を増やすことはできますが、市外の陣地と、城外へ出てこられる兵の有無を確かめたい。以前の配置を前提にはできません」
「ネフティアの調査で確認するのだな」
「はい。合意した範囲に含まれます」
リシアが文案を地図台の空いた端へ置いた。
「その報告を待つ間だけでも、不攻撃を約束できませんか。期間を短くして、もう一度提案します」
「短くすれば、向こうは受けると言っているのか」
「まだ訊いていません。ですが、今の案をそのまま受けるか、すべて断るかの二つだけではないはずです」
「返答を待っている間に、期限が来る」
「ええ。ですから、今、送らせていただきたいのです」
エリオスは彼女を見た。
金の瞳がこちらを見返している。淡い紫の瞳を伏せまいとする自分に気づき、余計に動けなくなる。
「短くても、その条件は受けない」
リシアの口元が硬くなった。
「期間ではなく、リュサを条件に入れること自体を拒まれるのですね」
「そうだ」
「では、そこを外した案で返します。ただし、延長できない可能性は高くなります」
彼女が文案を持ち上げようとしたとき、エリオスは止めた。
まだ、なぜ拒むのかを言えていなかった。腹を立てた王が、気に入らない一行を消させただけで終わりたくはない。
「リュサへ軍を戻さないのは、取り戻す方法がまだ決まらないからだ。門を破れば済むと考えて送った軍に、その先まで引き受けさせることはできなかった。だから止めた。調査のあとも、待つ必要はあるかもしれん」
ヴァルドは市街図を取らずに聞いている。
「だが、アルヴェルンがあの都市を承認し、取引を始めたからといって、我々の軍を止める約束まで与えたくはない。次に別の都市が門を閉じれば、ハイン・ロートへ頼めばよいことになる。こちらが国内で何をするか、そのたびに西方の停戦と引き換えにされる」
「今回受けたからといって、次も受ける必要はありません」
リシアが言った。
「次に断るときも、今日と同じことを問われる。その都市のために、別の国境を危険にさらすのかとな」
「今日は、その問いに答えなければなりません」
エリオスは黙った。
リシアは未来の話を禁じているのではない。まだ起きていないことだけを理由に、目の前の危険を軽く扱わせまいとしている。
「私もリュサを取り戻したいと思っています」
彼女は続けた。
「アルヴェルンに守らせたいわけでもありません。それでも、今日この条件を受ければ、西方で避けられる危険があります。拒むなら、それも捨てることになります」
窓の外で荷車が動き出した。車輪が敷板を越える音が、二度、続く。
エリオスは西方の配置案を自分の前へ引いた。
「その条件では、延ばさない」
リシアは返さなかった。
「リュサの条項を除いた案を送れ。国境と軍用輸送については、引き続き協議する。延長に合意できなければ、この配置変更を満了後に実施する」
ヴァルドが命令案を取る。
「攻撃と越境は、引き続き禁じますか」
「禁じる。期限が切れたことだけで、撃ってよいとはさせない」
エリオスはリシアへ向き直った。
「私がこの条件を断ったことは、返書にも残せ。現地で何か起きたあとに、軍が望んだから停戦が終わったとは言わない」
「承知しました」
リシアは文案を綴じた。
返事は職務のものだった。王の選択を受け入れた顔ではない。それでも、もう一度賛成を求めることはしなかった。
彼女が部屋を出ると、ヴァルドは命令案を執務卓へ運ぶ。エリオスも椅子へ戻り、配置変更の開始条件を読み直した。
停戦満了後。
延長が成立した場合は、実施を留保する。
二つを確かめてから、署名した。
通信室へ着くと、リシアは奥の受信席に腰を下ろしていた。
壁に沿って並ぶ席と中央の長机の間を、職員が行き来している。曲がった壁に声が反響し、西方の部隊名を読み上げる声へ、港からの照会を確かめる声が重なった。
リシアは眼鏡を外し、鼻の付け根を押さえている。王に気づくと掛け直し、隣の椅子から文案の綴りを持ち上げた。
エリオスは座らず、椅子の背へ手を置く。
「返事は来たか」
「まだです。受信したことは確認できています」
黒髪の結び目が少し緩み、耳の後ろに細い毛が落ちていた。卓には書き直した文案の控えがある。その上には、飲み残した器を置いた丸い跡がついていた。
ヴァルドは西方の担当席へ向かった。大きな背中を避けて職員が通り、受領の印がついた紙を渡していく。
王の命令は届き始めていた。
応答のない部隊もある。命令そのものが届いていないのか、返答が遅れているだけなのかは、まだ区別できない。
対外通信の担当者が、新たな受信文をリシアへ差し出した。
彼女は数行を読むと、椅子を王の方へ向ける。
「アルヴェルンからです。リュサの条項を含まない案には同意できないと。ほかの相違点については、協議を続ける用意があるそうです」
エリオスは文書を受け取った。
短い返答だった。こちらが削った一行を戻せば、なお延長の交渉を続けられる。その余地だけは残してある。
「西方の部隊には、どこまで届いている」
王が尋ねると、ヴァルドが手元の受領報告を見直した。
「順に確認が取れています。まだ動いてはいません」
リシアは返書用の紙を机へ出し、筆を持たずに待っていた。
ここで条件を受けると返すこともできる。送った軍命令には、延長が成立した場合の留保を書き込んである。
エリオスは受信文を彼女へ返した。
「回答は変えない。協議には応じると伝えてくれ」
「はい」
今度は、問い直さなかった。
リシアが返書を作る間、エリオスは中央の長机へ寄った。ヴァルドが、同じ部隊から届いた報告を重ねている。新しい紙を置くたび、古い時刻が下へ隠れた。
時計の針が協定の満了時刻を指した。
リシアの筆は、まだ動いていた。
停戦期間が終わった。
通信官が時刻を確かめ、満了を告げる。隣の席では次の受信が始まり、入口から来た職員が長机へ書類を置く。誰も窓へ駆け寄らなかった。
エリオスだけが、遠くで何か鳴るのを待っていた。
国境はここから見えない。そこで何が変わったかは、これから順に届く。
リシアが返書を担当者へ渡し、長机まで来た。
「協議継続の返答を送ります。日程の調整も始めます」
「頼む。ネフティアには、調査を早く実施できるか確認してくれ。合意した範囲は変えない」
「奪還計画に使う報告を急いでほしいと伝えます」
「それでよい」
リシアは王の隣で控えを開いた。彼女が書き終える前に、ヴァルドが新しい報告を受け取る。
短い灰色の髪を片手で撫で、受信時刻と本文の時刻を比べていた。
「先行する部隊が、行軍を始めました」
エリオスは紙を受け取った。
西方全体ではない。命令を受け、準備を終えた一隊からの知らせである。その部隊が出発した時刻には、王はこの机の前で、まだ受領の印を見ていた。
「ほかは」
「準備中です。返事を待っている部隊もあります」
エリオスは報告を戻した。
リシアは王を見ていたが、今度は何も尋ねなかった。控えを閉じると、対外通信の席へ戻り、次の協議に使う文書を選び始める。
ヴァルドが長机の端を空けた。
そこへ、行軍を始めた部隊の報告が置かれる。次に届いた紙も、受領を知らせるだけの束ではなく、その隣へ並んだ。
エリオスは最初の一枚を読み直した。
到着までには、まだ時間がある。停止を命じれば、途中で届くかもしれない。
王は命令を変えず、次の報告を待った。




