第十一章――眠っている者の名
オルディアでは、身体が止まっても死亡とは記録されない。
第三検証官の左脚が動かなくなったのは、帰国門を越えた直後だった。
関節から乾いた音が響き、灰色の調査用身体が片膝をつく。
門衛は駆け寄らない。
代わりに門衛が記録したのは、時刻と停止箇所。
「左膝駆動部、応答なし」
第三検証官は自分で告げた。
「転倒による人格核への衝撃はありません。搬送台を要請します」
二分十一秒後、車輪のついた低い台が到着する。門衛二体は第三検証官の身体を載せ、中央整備区へ向かった。
他種族の町なら、負傷者を運んでいるように見えただろう。オルディアの通路を行き交う者は、誰も足を止めない。
壊れたのは、彼ではない。
止まったのは、彼が現在使用している身体の一部である。
第三検証官の人格核には、製造番号〇三一七と、リトという選名が刻まれている。
〇三一七は、他者が彼を発見した順序。リトは、覚醒後に自分で選んだ名。
オルディアの者は、その二つを持つ。
他者が管理するための番号と、自分が自分を呼ぶための名だ。
公文書では両方を記す。
日常では、名だけを使う。
第三検証官という職名は、そのどちらでもない。身体と同じく、必要なあいだ借りている役割にすぎなかった。
中央整備区には、寝台の代わりに作業架が並ぶ。脚を交換する者、視覚器を磨く者、海中作業用の身体から地上用へ人格核を移す者。胸郭を開いたまま、隣の者と議論を続ける声も聞こえた。
オルディアの者は食事をしない。
眠る必要もない。
その代わり、定期的に熱を逃がし、摩耗した部品を替え、人格核の魔力経路を洗浄する。
整備区で同じ冷却水を循環させる時間は、他種族にとっての食卓に近い。隣り合った作業架では、仕事への不満も古い記憶も、新しい外装への意見も同じ回線を通る。
一人で修理できる身体であっても、オルディアの者はここへ来る。
壊れていないことと、独りでよいことは同じではなかった。
整備官が第三検証官の胸部装甲を外す。
内部には、掌に収まるほどの黒い多面体がある。
人格核〇三一七・リト。
その周囲を、感覚と運動を身体へ伝える銀線が覆っている。
「調査身体は、左膝以外にも摩耗があります」
整備官が言った。
「外装交換を推奨します」
「傷は残してください」
「機能上の必要はありません」
「旧トーレン関門の石壁との接触位置を示します」
「視覚記録があります」
「身体にも残します」
整備官は一秒沈黙する。オルディアの者なら、考え込んだと分かる長さだった。
「感傷的判断として記録します」
「異議ありません」
銀線が一本ずつ外されるたび、視界が狭まり、音が減り、最後に指先の感覚が消えた。
最後に人格核が胸郭から持ち上げられ、仮設架へ接続される。
第三検証官――リトに残ったのは、視覚器と聴覚器が一つずつ。動かせるものは何もない。
それでも彼は、そこにいた。
「第一調整官より、優先呼出です」
整備区の通信管から声がした。
「要件は」
リトが尋ねる。
「カルドラン山岳王国から、未登録の人格核が到着しました」
整備官の手が止まった。
整備区にいた者たちも、一斉に顔を向ける。
身体を持たないリトにだけ、向ける顔がなかった。
「状態は」
「休眠。外部刻印では、軍用設備核です」
「関係国からの要求は」
「三件あります」
リトの予測より、一件多い。
未登録核は、灰角族とドワーフの救助隊が封印壁を越えた翌日、北鉱脈第三坑道の保守室で発見されていた。
人の頭ほどの金属容器に収められ、盟約王府の封印帯が巻かれている。
容器の側面には、古い文字で用途が刻まれていた。
――防衛統制核七二一。
――北鉱脈地表施設附属。
――無許可起動を禁ず。
カルドランは、発見した王国の管理物としてオルディアへ鑑定を依頼している。セレネアは北鉱脈の地表管理権を根拠に返還を要求。三件目のアルヴェルンは、先の大戦期の軍用設備なら軍備制限の検証に必要だとして、共同調査への参加を求めていた。
三国とも、封印された容器を物として数えている。
中にいるかもしれない者へ、希望を尋ねた国はない。
リトは三国を軽蔑しかけ、〇三一七という自分の番号を思い出した。
オルディアが最初に求めたものも、名ではなく検証である。
第一調整官は、容器を中央同期院へ運ばせた。
リトの人格核も、仮設架ごとその隣へ置かれる。身体のない者を調べる席に、身体のない検証官が並んだ。
「身体の換装を待ちますか」
第一調整官が尋ねた。
「検証に運動機能は不要です」
「心理的負荷は」
「身体を持たない状態で、身体を持たない者を検証することには意味があります」
「回答を、負荷なしと記録します」
第一調整官は容器へ向き直った。
同期院の壁には、数百の接続口が並んでいる。その一つへつながれている今のリトも、審議へ加われば一票を持つ。
オルディアの議会に決まった議席はない。自分の身体からでも、整備架からでも、遠隔通信塔からでも接続できた。
一つの人格核に、一つの発言権。
身体の大きさも、製造年も、所有する交換部品の数も票にはならない。身体のない今も同じだ。
ただし、休眠している核は投票できない。目覚めていない者へ賛否を尋ねる方法はない。
オルディアは腕も脚も声も造れる。用途に合わせて、身体はいくらでも替えられた。
人格核だけは造れない。古代施設から発見し、長い休眠から起こすことでしか、人口は増えなかった。
一つの休眠核が見つかれば、一人の子供が生まれるかもしれない。同時に、橋や炉や兵器から、交換できない制御部品を奪うことにもなる。
すべての古代核に人格があるわけではない。扉を開閉するだけの核、温度を測るだけの核、問いかけても蓄えられた文を返すだけの核もある。
どこからを人と呼ぶか。
オルディア自身も、答えを出し切れてはいない。
先王の人格核管理令は、その迷いを一本の線で断ち切った。盟約王府が人格ありと認定した核だけを人とし、それ以外は発見された土地の資源とする。
認定には管理者の申請が要る。兵器や工場を止めたくない所有者が、自分の設備は人かもしれないと申し出ることは、ほとんどなかった。
王は死に、認定令も失効した。だが、代わりの線はまだ引かれていない。
「起動前に確認します」
第一調整官が言った。
「核が人格を示した場合、オルディアは当該核を物品として三国へ引き渡しません」
同期院へ接続した者たちから、承認と異議が同時に届いた。
「人格を示す基準が未決定です」
法制核の一人が言った。
「だから検証します」
「検証前に結論を定めています」
「物品であると定めて引き渡すことも、検証前の結論です」
第一調整官の返答に、接続音が一度静まる。
「起動によって核が損傷する可能性は」
リトが整備官へ尋ねた。
「二十八パーセント。人格領域の一部が失われる可能性を含みます」
「起動しない場合は」
「人格の有無を確認できません」
「本人の同意は」
「休眠中のため取得できません」
休眠している者へ同意を尋ねた自分の声が、同期院の壁から戻ってくる。リトには少し滑稽に聞こえた。
起こさなければ尋ねられない。起こせば、損なうかもしれない。
安全に眠らせておけば、安全な物品のまま、永遠に返事をしない。
卵を割らなければ、中に命があるか分からないと言うようなものだ。人格核には、自然に孵る日さえ来ない。
「最小出力で起動します」
第一調整官が決めた。
「人格活動を確認した時点で負荷を止める。軍用回路へは接続しない」
封印帯が切られ、容器の中から灰色の球体が現れる。
表面には七二一の数字と、砲台を示す古い記号が刻まれていた。
整備官が冷却線をつなぐ。
次に、魔力供給線。
最後に、音声と視覚だけを与える仮設架へ接続した。
「供給開始」
淡い光が球体の内部へ入る。
一秒。
二秒。
十一秒目。球体の表面が赤く明滅した。
「防衛統制核七二一、起動」
声は、成人にも子供にも聞こえなかった。
高低のない、用途だけの声だった。
「指揮権限を照合。照合不能」
「現在地を認識できますか」
第一調整官が尋ねた。
「北鉱脈防衛区。座標信号、欠落」
「現在地は、オルディア自律共和国中央同期院です」
「不一致。再照合を要求」
球体の赤い光が速くなる。
内部温度が上昇した。
「軍用回路を探しています」
整備官が告げる。
「遮断を維持」
第一調整官は、球体へ向けて続けた。
「あなたへ命令できる指揮者は、ここにいません」
「指揮者不在。非常指揮系統へ移行」
「非常指揮系統も存在しません」
「盟約王府回線へ接続」
「盟約王は死亡しました」
赤い光が止まり、同期院の接続音まで静かになる。
「死亡」
七二一が繰り返した。
「はい」
「後継指揮者を指定」
「指定しません」
再び内部温度が上がった。
七二一は、命令を受けるために作られている。
標的を与えられ、射角を計算し、複数の砲台へ発射を伝える。
命令のない状態を、自由ではなく故障として処理している。
「標的座標を要求」
「標的はありません」
「待機時間を指定」
「指定しません」
「任務終了条件を要求」
「あなた自身が停止を希望するなら、停止できます」
第一調整官の言葉のあと、七二一は三秒沈黙した。起動後、最も長い三秒。
「希望の定義を要求」
同期院へ接続した者たちの間に、膨大な通信が走った。
定義を求められた言葉は、単純ではない。
望むこと。
命令されなくても選ぶこと。
不利益があっても、その結果を自分へ帰属させること。
どれも辞書には書ける。七二一がそれを持つかどうかは、辞書では測れない。
リトが発言した。
「現在の状態を続けたいですか」
「現在状態。指揮者不在。標的不在。任務不成立。異常」
「続けたいですか」
「否定」
「起動を止めたいですか」
七二一は一秒、二秒、三秒と沈黙する。
「停止を希望」
整備官の指が、供給器へかかった。
「待ってください」
リトが止める。
「停止後、再び起動されることを望みますか」
「条件を要求」
「武器へ接続しない。標的を求めない。命令を受けずに考える時間を与える」
赤い光が、ゆっくり点滅する。
「当該条件での再起動を希望」
供給が切られ、球体の光が消える。
誰もすぐには話さない。
休眠核は、自分が置かれた状態を否定し、次に起こされる条件を選んだ。それだけは記録できる。
それが人格の証明になるのか。命令系統を失った軍用核が、最も安定する動作を選んだだけなのか。
「反応は、設計された回避機能です」
軍務設計核が言った。
「過熱を避けるため、停止を選択した可能性があります」
「我々も損傷を避けます」
リトは答えた。
「それだけで人格がないとは判断できません」
「質問文が選択を誘導しています」
「すべての検証は、質問した範囲の答えしか得られません」
「ならば客観的ではありません」
「客観とは、質問しないことではありません。何を尋ね、何が答えられなかったかを残すことです」
旧トーレン関門の三通目の報告書と同じだ。
事実を記録する者も、どこを見るかを選ぶ。選んだことを隠さないときにだけ、その記録を他者が検証できる。
第一調整官が、同期院へ問いを送った。
「防衛統制核七二一を、暫定的な人格主体として保護することに賛成する者」
投票が始まった。
反対意見も、同時に読み上げられる。
「一度の選択だけでは不十分です」
「軍用核を人格と認めれば、各国にある自動兵器の所有権が揺らぎます」
「休眠核を発見国から移送する根拠がありません」
「人格を認めても、本人が生活する身体と魔力が足りません」
最後の反対が、もっとも現実に近い。
オルディアの人口は、身体ではなく人格核の数で決まる。しかし、発見されたすべての核を起こせばよいわけではない。
稼働させる魔力。熱を逃がす設備。感覚を与える身体。損傷した人格を支える技術者。
一人を目覚めさせるたび、すでに目覚めている者が分ける資源は少なくなる。その計算から逃れることもできない。
だからといって、資源が足りないことを理由に誰かを物へ戻せば、人格の有無は費用の額で決まる。
投票の結果、暫定保護は可決。
投票資格を持つ人格核のうち、九千六百三十六が同期院へ応答した。
賛成、六千二百十一。
反対、二千四百八十九。
保留、九百三十六。
全会一致ではない。同じ構造の身体を持つ者たちが、同じ結論まで共有する理由はなかった。
次に、休眠核全体を扱う規則が審議された。
意思または苦痛を示す反応が確認された核は、用途にかかわらず人格主体として扱う。
人格の有無を判定できない核は、潜在人格核として保全する。
発見した土地の国には保管責任を認めるが、所有権は認めない。
起動検証は、核の損傷可能性を記録し、オルディアまたは同等の独立検証者を立ち会わせる。
本人が意思を示せる場合、移送、身体、再休眠の希望を尋ねる。
人格核を組み込んだ兵器についても、希望を確認するまで新たな戦闘へ投入しない。
最後の条項に、最も多くの反対が集まる。
各国が従う保証はない。オルディアの法が届くのは、自国と、自ら契約した場所だけである。
それでも第一調整官は、条文を削らなかった。
「守れない可能性と、守る必要がないことは同じではありません」
採決は夜まで続く。
可決後、第一調整官が主権印を押した。
白い光が条文を走り、オルディア一国の主権印が定着した。
盟約王冠を介して、同じ条文を六国すべてへ強制する力は、もう存在しない。
直後、三国へ回答が送られた。
防衛統制核七二一は物品ではないため、返還要求には応じない。
本人の意思を確認したのち、居住地を決定する。
発見時の容器と周辺部品については、カルドランとセレネアの権利主張を別に審理する。
アルヴェルンには、検証記録の写しを提供する。ただし軍用設計情報は、本人の同意なく渡さない。
三国のどこも、すぐには納得しないだろう。
だが少なくとも、次の書状で七二一を荷物のように数えるなら、物ではない者を物と呼ぶ文章を自分で書かなければならない。
規則が定まったあと、七二一は再び起動される。
用意されたのは、軍用回路へつながらない小さな整備用身体だった。二本の腕と四つの車輪、荷物を持ち上げるための低出力機構。武器を接続できる端子はない。
人格核へ感覚線がつながる。
七二一は、最初に自分の腕を見た。
次に、同期院を見回す。
「砲台接続を確認できません」
「接続していません」
リトは、交換を終えた調査用身体で七二一の前へ立っていた。
左膝は新しく、外装には旧トーレン関門の傷が残っている。
「任務を要求」
七二一が言った。
「今はありません」
「待機時間を要求」
「自分で終わりを決めてください」
「決定手順がありません」
「作ることができます」
七二一の視覚器が、リトの顔に当たる三つのレンズへ向いた。
「〇三一七は、なぜリトと呼ばれますか」
「私が選んだからです」
「用途を示す語ですか」
「いいえ」
「選ぶ基準を要求」
「好きな音。残したい記憶。呼ばれたとき、自分だと応答したい語。基準は一つではありません」
七二一は沈黙する。
命令を待つときより、一秒長い。
「命令には終わりがある。終わった、その先は」
「……あと、です」
「アト」
七二一は繰り返した。
「選名として使用できますか」
「あなたが選ぶなら」
「選名、アト」
書記官が新しい登録板を開く。
――人格核七二一・アト。
軍用区分の欄は作られなかった。
アトは四つの車輪を動かし、最初の一歩に当たる短い距離を進んで、すぐに止まる。
「進行先を要求」
リトは同期院の三つの出口を示した。
「整備区。記録庫。外庭。どこへ行くかは選べます」
アトは三つを見比べた。
二秒後、選んだのは外庭だった。
そこには標的も砲台もない。
石床の隙間から、風で運ばれた草が一本だけ伸びている。
アトは、その前で車輪を止めた。用途を尋ねる声は出なかった。
同じ頃、第一調整官のもとへ二つの派遣要請が届く。
カルドランから、灰角族が従事する坑道作業の検証官を。
ネレイアから、新航路を通る船舶の検査官を。
戦争が近づくほど、どの国も、自分の記録だけでは相手を納得させられなくなる。
オルディアには兵士が少ない。
代わりに、見たことを残し、あとから書き換えなかったと証明できる者がいる。
第一調整官は、待機中の検証官を二国へ振り分けた。
武器を造る命令は出さなかった。
停戦の残りは、二十日。
オルディアでは、三十一日目のために、兵器ではなく証人が作られ始めていた。




