プロローグ その怪物は人を知る
『それ』は、遥か遠い宇宙から飛来した隕石に付着していた僅かばかりの血液だった。
地表へと落下したそれは分裂し、『それら』となった。血液でありながら自我を持ち、自在に動くそれらは、静かに地球での活動を開始した。
それらは、生物の肉体を意のままに操る能力を持っていた。野で活動する昆虫や獣を見つけてはその体の中へと入り込み、神経系を奪って自らの傀儡と変えたのだ。
そして、人間の集落を発見すると、その中の数人の体を奪って集団の中へと潜伏した。
目的は、この惑星の環境調査。
自らの「本体」の大願成就のために宇宙を探索するのがそれらの役目であったが、何分感情もろくに持たない液体の集まりがすることである。
ただそうすることが、それらにとっては本能だったというのが正しいだろう。
時はまだ、人類が文明の利器とは無縁ながらも、都市を築き、王を称え、以後数千年続くこととなる繁栄の基盤を作り上げた頃であった。
それらは宿主とした人間の記憶を読み取り、習性を模倣し、言葉を理解し、社会の中へと溶け込んでいった。そして賑やかな都市国家の中でいくばくかの時を過ごし、人類の営みを間近で観察し続けた。
そして、惨劇が始まった。
それらが下した結論は冷酷で無慈悲なものだったのだ。人類からは学ぶべき点が何も無い。ゆえに絶滅させてしまって構わない、と。
大都市の中で前触れもなく始まった殺戮に、人々は惑いながらも懸命に応戦した。
ごく少数の人間を宿主として操るそれらと、大多数の都市国家の人類。数で考えれば戦いにすらならないはずだったが、人類は太刀打ちする術もないままに次々と倒れていった。
それらは宿主の血液を自在に操り、人類の知る理を超える特別な力を行使していたのである。
死体の山が積み重なり、地面に血溜まりが広がる中を懸命に逃げ回る兄妹がいた。
まだ大人と呼ぶには早い年頃である。妹の方は傷を負って血を流し、既に意識も朦朧としていた。その手を引いて走る兄の前に、「それら」に寄生された人間が立ち塞がる。
異形。顔や身なりはよく見知った隣人のはずなのに、その両手首からは絶えず鮮血が吹き出し、それが鋭い鎌の形を取って体に繋がれていた。
「なんなんだよ、お前……」
兄が怯えた声で問いかけても返事は返ってこない。寄生された人間は、とうの昔に自意識など失っている。
「くそっ! 来るな、化け物!!」
兄は武器も持たない腕を懸命に振り回す。
しかし、虚勢を張れども怪物の足は止まらず、迷うことなく兄妹へと距離を詰めていく。兄の全身に震えが走る。本能が、絶え間なく死の危険を訴え続けている。
だが、兄には絶対に退けない理由があった。
「妹には……妹には手を出すな!!」
掴んでいた妹の手を離し、恐怖を振り切るように叫びながら怪物へと全力で突進していく。しかしその胸を、無情にも血の鎌がいとも容易く切り裂いた。
「ぐっ……く……そ……」
地面に倒れ伏す兄。それを確認してから、怪物は妹をも手にかけようと近寄っていく。しかし、その歩みが止まったのは、兄が最後の力を振り絞って怪物の足に掴みかかったからだ。
「俺は……俺はどうなってもいい。だけど、妹だけは……妹だけは絶対に死なせねぇ……!!」
即死しているはずだった。怪物は既に人体の構造を熟知しており、確実に急所を裂いたはずだったのだ。しかし現に、兄はあらん限りの力で怪物の動きを止めている。
『家族を守る』という絶対的な意志。
その尋常ではない眼光と気迫に、感情を持たぬはずの怪物が、確かに怯んだように見えた。
数秒か、数十秒か。やがて兄の体からは少しずつ力が失われていき、怪物に掴み掛ったまま静かに息を引き取った。
自身の行く手を阻むものが無くなっても、怪物はしばらく動かないままでいた。やがて奥から別の怪物が現れ、残った妹を始末しようと近づいていく。しかし妹は、傷口から血を流しすぎたために、兄を追うように既に息絶えていた。
『……お……い……』
兄を手にかけた方の怪物が……正確には、人間の体内に寄生した血液が、宿主の口を使って言葉を発した。
『その人間の中に……入れ。俺は……こいつに乗り換える……』
たった今死したばかりの兄妹の肉体を指しながら怪物は言った。指図されたもう一体の怪物は、何も言わずに佇んでいる。
『我々は……もう少し、人間という生命体を知るべきなのかもしれない……』
やがて二つの血液たちは、死した兄妹の体へとそれぞれ乗り移った。
冷たくなりつつあった体に、再び温かい血が通っていく。
二度と動くことの無いはずだったその指先が、確かに動いた。




