第89話 ー『遅すぎた父の気づき』
第89話 ー『遅すぎた父の気づき』
2026年6月21日(日)——午前8時0分。
世田谷·キサラギ家——正則の書斎。
キサラギ家の日曜日の朝は、いつもより静かだった。留奈はまだ寝ており、美咲は自分の部屋で本を読み、小春はリビングで膝の上に本を広げて座っている。千春は台所で朝食の準備に忙しい。樹が自分の部屋から降りてきた時、父の書斎の扉が開いているのを見た。週末には珍しいことだ。
正則は濃い色の木製の机の向こうの椅子に座り、長い間開けていなかったらしい書類をいくつか見つめていた。樹が戸口に立つのを見て、静かに頷いた。
「……樹、入って来い。話がある。」
樹は父の声の調子に何かが違うのを感じた。怒りでもなく、心配でもない——もっと深い何かだ。彼は足を踏み入れ、机の向かいの椅子に座った。
「……どうしたんだ、父さん?」
正則は手に持っていた書類を置き、読み解くのが難しい眼差しで樹を見た。数秒間、誰も口を開かなかった。ただ、部屋の隅の壁掛け時計が静かに時を刻む音だけが聞こえる。
「……樹、昨日、夏美が話してくれたことを全部聞いた。」
樹は頷いた。驚かなかった。「……うん。」
正則は長く重いため息をついた。「……俺は……お前がそんなにたくさんのことを一人で抱えていたとは、気づかなかった。」
樹は答えなかった。ただ父を見つめ、胸の中で何かが動くのを感じた。
「……お前が小さい頃。」正則はさらに静かな声で続けた。「……俺はいつもお前は強い子だと思っていた。決して文句を言わず、助けを求めず、大丈夫なんだと思っていた。」
樹はうつむき、使い古された木の机の表面に目を落とした。「……父さんの考えは間違ってなかった。俺は大丈夫だった。」
「……本当に大丈夫だったのか、樹?」
その問いが空気に浮かんだ。樹は顔を上げ、父を見つめた。そして初めて、正則の目に今まで見たことのないものを見た。後悔だ。
「……分からない、父さん。大丈夫だと思ってた。でも……」樹は言葉を止め、適切な言葉を探した。「……たぶん、ただそう言うのに慣れてただけかもしれない。」
正則は静かに頷いた。「……俺もそれを信じるのに慣れてた。」
彼らはしばらく沈黙した。外では鳥たちが木々の間でさえずり、朝の風が窓の隙間から優しく吹き込んでいる。
「……樹、大げさに謝るつもりはない。そんなことをしても何も変わらないからだ。」正則は正直な目で樹を見た。「……でも、もっと多くを尋ねなかったことを……後悔している。」
樹は胸に温かくも痛む何かを感じた。「……父さんはそんな——」
「……必要ないことは分かっている。」正則が優しく遮った。「……でも、これからは尋ねるつもりだということを知ってほしい。聞くつもりだ。そして……」彼は一旦止め、めったに見せない小さな微笑みを浮かべた。「……あまり多くを語りすぎないようにするつもりだ。」
樹は口元の小さな微笑みを抑えられなかった。「……父さんは元々あまり多くを語らない方だ。」
「……それが問題なんだ。」正則は小さく笑った。温かく、心からの笑い声だ。「……俺は沈黙しすぎる。そしてお前も沈黙しすぎる。だから二人とも本当の話をしたことがない。」
樹は答えなかったが、その微笑みは消えなかった。父の言う通りだ。長年、二人とも沈黙しすぎていた。それぞれの気持ちを守ることに忙しくて、本当に話すことを避けていた。
「……樹。」
「……うん、父さん?」
「……お前が仕事を失った時、俺は心配した。でも尋ねなかった。お前が助けを必要とすれば来ると思っていた。」正則は深い眼差しで樹を見た。「……でもお前は来なかった。そして俺は……どう尋ねればいいのか分からなかった。」
樹は息を吐いた。「……来なかったのは、父さんに心配をかけたくなかったからだ。父さんはもう十分に多くのものを背負っている。」
正則は頷いた。その答えを予想していたかのように。「……お前はいつも他人のことを考える、樹。それはお前の美徳だ。しかし……」彼は言葉を止め、適切な言葉を探した。「……時には、他人もお前の重荷を担いたいと思うものだ。」
樹は答えなかった。ただ父を見つめ、その言葉の真実を感じた。
---
午前9時0分——正則の書斎·会話は続く。
正則は机の引き出しを開け、古い写真アルバムを取り出した。机の上に広げると、樹は自分の子供時代の写真を見た。幼い頃、歩き始めた頃、初めて学校に行った頃の写真だ。
「……ずっと取ってあったんだ。」正則が静かな声で言った。「……お前に見せたことはなかった。興味がないと思ってたから。」
樹はそれらの写真を見つめ、言葉にできない郷愁を感じた。歯が抜けた頃の満面の笑顔の写真。大きすぎる制服を着た小学校の卒業写真。少し肩に合わないスーツを着た就職したての頃の写真。
「……この写真を覚えてる。」樹は就職したての頃の写真を指さした。「……この時、すごく大人になった気分だった。」
正則は小さく微笑んだ。「……まだ子供だったけどな。でも、大人に見えようと必死だった。」
樹は答えなかった。ただ写真を見つめ、過ぎ去った時間を感じていた。
「……樹。」
「……うん、父さん?」
「……お前は今、何を望んでいる?」
樹は顔を上げ、正直な目で父を見た。「……分からない、父さん。静かに暮らしたいと思ってた。でも……静かに暮らそうとすればするほど、色んなことが起きる。」
正則は頷いた。理解したかのように。「……人生は計画通りにはいかないものだ、樹。だが……お前は既に多くのことを成し遂げた。俺はお前を誇りに思う。」
樹は涙がこぼれそうになったが、こらえた。「……ありがとう、父さん。」
---
午前10時0分——裏庭·正則と樹。
彼らは裏庭へ歩き、千春が手入れする花々の間に立った。朝の風が吹き、土と木々の香りを運んでくる。遠くでは鳥たちが木々の間でさえずっている。
「……樹。」
「……うん、父さん?」
「……あの会社を続けるつもりか?」
樹はしばらく考えた。「……そうするつもりだと思う、父さん。何かを築いてきた。それを放っておくわけにはいかない。」
正則は頷いた。「……それは大きな責任だ。でも、お前ならやっていけると信じている。」
樹は心からの感謝の気持ちで父を見た。「……ありがとう、父さん。」
正則は微笑んだ。温かく、心からの笑顔だ。「……礼には及ばない、樹。ただ事実を言っただけだ。」
彼らはしばらく沈黙して立ち、美しい庭園の景色を楽しんだ。
「……樹。」
「……うん、父さん?」
「……お前は幸せか?」
樹は父を見つめ、その質問が表面的なものより深いことを感じた。正則はお金や成功について尋ねているのではなかった。幸福について尋ねていた。
「……幸せだ、父さん。想像していたよりもずっと。」
正則は頷き、その顔の微笑みがさらに深くなった。「……良かった。それが一番だ。」
---
午前11時0分——家の中·千春が見る。
千春は台所の戸口に立ち、裏庭で話す樹と正則を見つめていた。彼女は夫の顔に微笑みを見た。最近滅多に見ない微笑みだ。そして息子の目に静けさを見た。長い間失われていた静けさだ。
「……やっとだ。」
彼女は小声で呟き、説明できない安堵を感じた。
---
午後0時0分——食堂·家族での昼食。
全員が食卓に座った。千春、正則、樹、美咲、留奈、そして小春。雰囲気は温かく、笑い声が絶えない。留奈は大学の話をし、美咲は夏美のことで樹をからかい、小春は全てを聞いて小さく微笑んだ。
樹は家族を見渡した。愛する全ての人々。そして説明できない幸福感を覚えた。
「……何を考えてるの、お兄ちゃん?」小春が静かな声で尋ねた。
樹は末っ子の妹の方を向き、微笑んだ。「……みんながいてくれて、俺は幸せ者だって思ってた。」
小春は微笑んだ。心からの、温かな笑顔だ。「……私たちもお兄ちゃんがいて幸せだよ。」
---
【次話 第90話——『本当に築きたいもの』】
樹は正則の問いについて考え始める。システムがプロジェクトを提案する。ホテル、不動産、自動車、航空、ラグジュアリー。しかし樹は単に資産を集めるだけではないことに気づく。彼は価値のあるものを築きたいのだ。システムは新たなミッションを表示する。『自分の未来を定義せよ』。
【第90話へ続く……】




