第55話 ー『京都への逃避行』
第55話 ー『京都への逃避行』
2026年5月23日(土)——午前6時30分。
東京駅·丸の内口。
朝の東京駅はまだ静かだ。ホームにあふれ出る通勤客の群れはまだなく、早朝の観光客と駅員たちが忙しい一日の準備に動いている。高い天井の灯りが象徴的な赤レンガの壁を照らし、まだ灰色がかった朝の空の下に温かな雰囲気を作り出している。
樹は新幹線の改札口近くに立っていた。手には小さなバッグ一つ。着替えと必要なものだけを詰めている。京都に長く滞在するつもりはなかった。せいぜい一、二日。物件を見て、東京では見つけられない静けさを味わうのに十分な時間だ。
彼はカジュアルな服装をしていた。ロロ・ピアーナで買ったばかりの白いシャツ、薄いグレーのジャケット、コットンのパンツ、そして履き慣れたカジュアルシューズ。手首には、買ったばかりのヴァシュロン・コンスタンタン·パトリモニーが静かに時を刻んでいる。スーツもネクタイもない。ただ、自分らしくいられる服だけだ。
その隣で、志織が小さなトートバッグとタブレットを手に立っている。エレガントな白いブレザーにグレーのペンシルスカート、ローヒール。プロフェッショナルでありながらリラックスした装いだ。手首には、樹が贈ったジャガー・ルクルト·レベルソが朝の光にきらめいている。
「如月さん、列車は八時発です。よろしければ、駅で朝食をとる時間はあります。」
樹は頷いた。「……そうだな。腹が減った。」
彼らは駅構内の小さなカフェへ向かった。木製のテーブルと挽きたてのコーヒーの香りが漂う簡素な店だ。樹はブラックコーヒーとタマゴサンドを注文し、志織は緑茶とサラダを注文した。
彼らは窓際のテーブルに座り、静かに朝食を楽しんだ。外では電車が次々と到着し、駅は徐々に賑わい始めている。
「……一緒に来なくてもよかったんだぞ、志織さん。」
志織は優しい眼差しで樹を見た。「……分かっています。でも、来たかったんです。」
樹は瞬いた。「……どうして?」
「あなたはメディアから逃げている。そんな時、一人である必要はありません。」志織は微笑んだ。心からの、温かな笑顔だ。「……それに、京都の物件書類を確認する必要もありますし。」
樹は小さく笑った。「……いつも言い訳を考えてるんだな。」
「……それが私の仕事です。」
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午前7時45分——東京駅·新幹線ホーム。
彼らは改札をICカードで通り、新幹線のホームへ向かった。樹はデジタル表示板を見上げた。のぞみ7号、博多行き、八時発。
「志織さん、どの列車だ?」
「のぞみ七号。一号車です。」
樹は頷き、指定された車両へ向かった。彼はグリーン車の快適な座席を想像していた。普通車より広い座席、足元の広いスペース、そしてより良いサービス。以前一度グリーン車に乗ったことがあり、その経験は快適だった。
しかし一号車に到着すると、何かが違っていた。
その車両のドアには金色の文字で「グランクラス」と書かれている。ドアの横には小さな説明板があり、グランクラスの設備——完全にリクライニングするレザーシート、プレミアムな飲食物サービス、広い足元スペース、そして車掌によるパーソナルケア——が説明されていた。
樹は立ち止まった。
「……志織さん、これは?」
志織が小さな微笑みを浮かべて彼の隣に立った。「……チケットをグランクラスにアップグレードしました。」
樹は信じられないという表情で彼女を見た。「……グランクラス? グリーン車だと思ってた。」
「グリーン車ではあなたにふさわしくありません、如月さん。」志織は微笑んだ。樹が怒れないような笑顔だ。「……あなたは最高のものを受けるに値します。グランクラスは座席も快適ですし、食事も美味しく、プライバシーも確保できます。『逃避行』中のあなたにぴったりです。」
樹は長い息を吐いたが、口元の小さな微笑みは隠せなかった。
「……本当にいつも驚かせてくれるな、志織さん。」
「……それが私の仕事です。」
彼らはグランクラスの車両に入り、樹はすぐにその豪華さに圧倒された。内装はエレガントだ。クリーム色のレザーシートに柔らかいヘッドレスト、広い足元スペース、濃い色の木製の折りたたみテーブル。各座席にはエンターテインメント用のタッチパネルディスプレイがあり、その横には車掌を呼ぶボタンがある。
樹は座席に座り、柔らかな革が身体にフィットするのを感じた。肘掛けのボタンを押すと、シートが優しくリクライニングした。
「……すごいな。」
志織は隣の席に座り、樹の表情を見て微笑んだ。「……気に入っていただけて良かったです。」
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午前8時0分——新幹線のぞみ七号·グランクラス。
列車はスムーズに動き出した。ほとんど振動がない。グランクラス車内は、車輪がレールを走る音と、プレミアムスピーカーから流れる静かなクラシック音楽だけが聞こえる心地よい静けさに包まれている。
制服をきちんと着た車掌が、緑茶と上品な和菓子の乗ったトレイを持ってやってきた。
「おはようございます、お客様。京都産の選りすぐりの緑茶と和菓子でございます。どうぞごゆっくりお召し上がりください。」
樹はそのお茶を受け取り、手の中の温かさを感じた。ゆっくりと一口すする。柔らかく、爽やかな味わいだ。
「……とても良いお茶だ。」
車掌は微笑んだ。「……ありがとうございます。京都·宇治の茶園から取り寄せております。グランクラスのお客様にご提供することを誇りに思っております。」
樹は頷き、窓の外の景色を見た。列車は東京を離れ始め、高層ビルが徐々に住宅地に変わり、やがて遠くに田園と山々が見えてくる。
「……美しいな。」
志織が隣に座り、静かにお茶を楽しんでいる。「……ええ。京都への旅はいつも美しいです。特に春は。」
樹は志織を見た。「……よく京都に来るのか?」
「何度か。仕事と観光で。」志織は微笑んだ。「……でも、社長と一緒に京都に来るのは初めてです。」
樹は小さく笑った。「……俺は君の社長じゃない。」
「……あなたは私の雇い主です。」
「……でも、君の方が俺よりも指揮を執ってることが多いじゃないか。」
志織は微笑んだ。心からの、温かな笑顔だ。「……たぶん、何があなたにとって最善か、私の方がよく分かっているからです。」
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午前9時30分——新幹線·静岡県通過。
列車は静岡県を通過し、窓の外には富士山が遠くにそびえ立っていた。雪をかぶった頂上は、朝の日差しを浴びて輝いている。樹はその景色を感嘆の気持ちで見つめた。
「……富士山だ。」
志織が窓の外を見て、樹の表情を見て微笑んだ。「……いつ見ても素晴らしい景色ですね。」
樹は答えなかった。ただその山を見つめ、説明できない静けさを感じていた。心の中で、東京での全ての心配事——メディア、知名度、プレッシャー——を置き去りにし、別の世界に入っていくような感覚があった。
「……来て良かった。」
志織は優しい眼差しで樹を見た。「……私もです。」
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午前10時30分——新幹線·琵琶湖通過。
列車は琵琶湖を通過し始めた。日本最大の湖が日差しの下で輝いている。樹は静かな水面を見つめ、より深い安らぎを感じていた。
「……志織さん。」
「はい?」
「……なぜ俺と一緒に働こうと思ったんだ?」
志織はしばらく考えた。「……あなたが他の人と違うからです。」
樹は瞬いた。「……違う?」
「ええ。私は多くの富裕層と仕事をしてきました。実業家、投資家、有名人。彼らには皆、共通点があります。もっと欲しがる。もっとお金、もっと権力、もっと認められたいと。」志織は深い眼差しで樹を見た。「……でもあなたはそうじゃない。ただ静かに暮らしたいだけ。それが……私にあなたを助けたいと思わせました。」
樹は答えなかった。しかし心の中に、説明できない温かさが広がっていた。
「……ありがとう、志織さん。」
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午前11時0分——京都駅。
列車は定刻通りに京都駅に到着した。樹と志織はグランクラスを降り、壮大なホームを歩いた。京都駅は日本最大級の近代的な駅の一つで、高い天井とガラス張りの壁から日光がたっぷりと差し込んでいる。
樹は観光客と地元民の群れの中を歩き、東京とは違う雰囲気を感じた。ここの足音は東京ほど速くない。人々はよりリラックスして、より穏やかに見える。
「……京都は違うな。」
志織が彼の隣に立った。「……ええ。この街には独自のリズムがあります。」
彼らは駅の外へ出ると、正面には京都タワーが遠くにそびえていた。白い塔が後ろの緑の山々と対照をなしている。
「……見る物件はどこだ?」
「東山区です。京都の東側の歴史的地区。その旅館は清水寺の近くにあります。」
樹は頷いた。「……行こう。」
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午前11時30分——東山区へ向かうタクシー。
彼らは京都駅から東山区へ向けてタクシーに乗った。道すがら、樹は美しい京都の景色を眺めた。木々の間に佇む古い寺院、静かに流れる川、伝統的な店が並ぶ狭い通り。
「……この街はまるで時間が違う場所にいるようだ。」
志織が頷いた。「……ええ。京都は過去と現在が共存する場所です。」
タクシーは、繁る竹林に囲まれた緩やかな坂道の前に停まった。道の突き当たりには、瓦屋根の伝統的な木製の門が木々の間に見える。
「……着きました。」
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午後0時0分——東山区·歴史的旅館。
樹と志織は木製の門をくぐった。目の前には、歴史ある旅館が荘厳に立っている。二階建ての木造建築に濃い色の瓦屋根、手入れの行き届いた日本庭園、そして鯉が静かに泳ぐ小さな池。
旅館の女将——田中という年配の女性——が温かい笑顔で玄関で迎えた。
「こんにちは、如月様。旅館の主人の田中でございます。お越しいただきありがとうございます。」
樹は丁寧に一礼した。「……お会いできて光栄です、田中さん。」
田中は彼らを旅館の中へ案内した。畳の香りがする広間、庭園を望む客室、そして山々を望む温泉風呂。
「……この旅館は百二十年続いております。」田中が説明する。「私の家族が四代にわたって経営してまいりました。しかし……私も年を取り、子供たちは継ぎたがりません。」
樹は周囲を見渡した。この場所には静かな美しさがあった。東京では決して見つけられない何かだ。
「……買います。」
田中が瞬いた。「……お客様、もっとご覧になりませんか?」
「必要ありません。もう十分見ました。」
田中は微笑んだ。安堵と感謝の入り混じった笑顔だ。
「……ありがとうございます、如月様。」
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午後2時0分——旅館の庭園。
樹と志織は庭園に面した木製の縁側に座っていた。風が優しく吹き、花と木々の香りを運んでくる。遠くでは鳥たちが木々の間でさえずっている。
「……志織さん。」
「はい?」
「……ここにいると、落ち着くな。」
志織は微笑んだ。「……京都には魂を落ち着かせる力があるのです。」
樹は目の前の庭園を見つめた。小さな池、整然と配置された石、風にそよぐ木々。
「……もっと頻繁に来ようかな。」
志織は微笑んだ。心からの、温かな笑顔だ。
「……それは良い考えですね、如月さん。」
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【次話 第56話——『京都の夜』】
旅館での夜、樹は懐石料理、日本庭園、そして静かな夜の雰囲気を楽しむ。志織は初めて、仕事の話を一切しなかった。樹はなぜ志織が自分と働きたいのか尋ね、志織は答える。「あなたが私を品物として見たことがないからです。」
【第56話へ続く……】




