第41話 ー 『投資家、来訪』
第41話 ー 『投資家、来訪』
2026年5月12日(火)——午前9時0分。
丸の内·キサラギ・アセット・マネジメント本社ビル——十階。
樹が朝のコーヒーを飲み終えた時だった。志織が社長室の扉に現れた。その表情はいつもと少し違っていた。落ち着いてはいるが、目に警戒の色がある。
「如月さん、お客様がいらっしゃいました。」
樹は眉を上げた。「……誰だ?」
「西園寺レイナ様です。西園寺キャピタル・パートナーズから。」
樹は眉をひそめた。その名前は聞いたことがなかった。「……何の用だ?」
志織は真剣な表情で樹を見た。「西園寺キャピタル・パートナーズは日本最大級のプライベート・エクイティ・ファームの一つです。約八千億円の資産を運用しています。そして西園寺レイナはそこのインベストメント・ディレクターです——二十八歳、ハーバード・ビジネス・スクール卒業、ゴールドマン・サックス東京支社での勤務経験あり。彼女は……有名です。」
「……有名?」
「彼女の投資判断は常に正確です。日本の金融業界では『投資の女王』と呼ばれています。」志織は一旦止め、慎重な口調で付け加えた。「……そして彼女は理由もなく、私たちのような小さな企業を訪れることはありません。」
樹はコーヒーカップを置いた。「……彼女は何を望んでいる?」
「あなたにお会いしたいとのことです。目的は明かされていません。」
樹はしばらく考えた。「……通してくれ。」
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午前9時15分——十階·大会議室。
樹は大会議室の窓辺に立っていた。改装が完了したばかりの部屋で、濃い色の木製の机、人間工学に基づいた椅子、そして東京の街並みを見渡すガラス張りの壁。背後では、志織がタブレットを手に、記録の準備をして立っている。
扉が開いた。
一人の女性が優雅で自信に満ちた足取りで入ってきた。身長は約百七十センチ。長い黒髪はきちんと下ろされ、茶色がかった赤い瞳は鋭く計算高い。完璧なシルエットの黒いブレザー、エレガントなペンシルスカート、そして大理石の床に力強い足音を響かせるハイヒール。
首にはシンプルな金のネックレス。目立たないが、高級だと分かる。手首には、樹が一瞬で見分けたパテック・フィリップの時計。
西園寺レイナ。
彼女は部屋の中央で立ち止まり、薄い笑みを浮かべて樹を見つめた。完全に友好的というわけではない。むしろ観察するような目だ。
「如月樹様ですね?」
樹は軽く一礼した。「はい。西園寺さん、お越しいただきありがとうございます。」
レイナは近づき、促されることもなく樹の向かいの椅子に座った。その動作は滑らかだが力強い。部屋を支配することに慣れた人間のそれだ。
「ご多用の中、お時間をいただきありがとうございます。」
樹は向かいに座った。「……今日は特に予定はありませんでした。」
「あら。」レイナは微笑んだ。友好的と呼ぶには冷たすぎる笑みだ。「……それは良かった。忙しい方の邪魔をするのは好きではありませんので。」
「……私も邪魔されるのは好きじゃない。でも、あなたが来たということは、何か言いたいことがあるんでしょう。」
レイナは眉を上げた。樹の率直さに少し驚いたようだ。大抵の人間は世辞を言い、印象付けようとし、あるいは過剰に礼儀正しく振る舞う。
「……率直ですね。」
「……時間を無駄にするのは好きじゃない。」
レイナは微笑んだ。今度は少しだけ心のこもった笑みだ。「いいでしょう。本題に入ります。」彼女はバッグからタブレットを取り出し、データを画面に表示した。
「キサラギ・アセット・マネジメントについて調査しました。あなたの会社は設立間もないですが、資産は既に約六百億円に達しています。丸の内、箱根、青山、神田、横浜に物件をお持ちです。デジタルブリッジを買収されたばかりで、そして……珍しい車両もお持ちですね。」
樹は反応しなかった。「……それで?」
「そして私は知りたいのです。あなたの目的は何ですか?」
樹はしばらく考えた。「……目的?」
「ええ。この会社で何を達成したいのですか?拡大?買収?市場支配?それとも……」レイナは鋭い目で樹を見た。「……何か別のものですか?」
樹はすぐには答えなかった。レイナを見つめ、そして窓の外の東京の景色を見た。
「……分からない。」
レイナは瞬いた。「……すみません?」
「自分の目的が分からない。起業家になりたいと思ったことは一度もない。会社を持ちたいと思ったこともない。全ては……流れに身を任せているうちにこうなった。」
レイナは読み解くのが難しい表情で樹を見た。「……六百億円の会社を、目的もなく築いたとおっしゃるのですか?」
「……そうだな。大体そんなところだ。」
レイナは沈黙した。
そして彼女は笑った。心からの、小さな笑い声だった。樹は少し驚いた。
「……あなたは面白い方ですね、如月さん。」
樹はかすかに微笑んだ。「……よく言われます。」
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午前10時0分——会議室の中。
レイナは息を吐き、より真剣な目で樹を見た。
「わかりました。アプローチを変えましょう。目的について尋ねるのはやめます。代わりに……あなたの『願い』について尋ねます。」
樹は眉をひそめた。「……願い?」
「ええ。お金が問題でないなら——そしてあなたにとってお金は問題ではない——あなたは本当は何を望んでいるのですか?」
樹は長く考えた。
「……自由になりたい。」
「何からの自由ですか?」
「プレッシャーから。期待から。私に何かを求める人々から。」樹は正直な目でレイナを見た。「……私は元サラリーマンです。他人に嵌められてクビになりました。全てを失いました。そしてその後……全てを取り戻しました。でも、他人の期待に応えなければならない世界には戻りたくない。」
レイナは注意深く聞いていた。
「……そしてお金が自由をもたらすとお考えですか?」
「……分からない。でも少なくとも、お金は選択肢を与えてくれる。」
レイナはしばらく樹を見つめた。そして微笑んだ。心からの、温かな笑顔だ。
「……それは正直な答えです。」
樹は答えなかった。
「よし。」レイナはタブレットを閉じた。「協力の提案をさせていただきます。買収ではありません。積極的な投資でもありません。戦略的パートナーシップです。」
樹は眉を上げた。「……パートナーシップ?」
「ええ。あなたの資産管理を支援したいのです。乗っ取るためではありません。あなたの資産が重荷にならないようにするためです。」
樹はしばらく考えた。「……あなたはこれで何を得るのですか?」
レイナは微笑んだ。神秘的でエレガントな笑みだ。
「……あなたがどこまで行けるのか、見てみたいのです。」
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午前11時0分——十階·社長室。
レイナは窓辺に立ち、東京の景色を見つめていた。樹は社長椅子に座り、その女性を好奇心を持って見つめている。
「如月さん、あなたの財務諸表を拝見しました。いくつか改善すべき点があります。税務構造、資産配分、リスク管理。」レイナは樹の方を向いた。「……それら全てをお手伝いできます。」
樹は頷いた。「……料金は?」
レイナは微笑んだ。「……いただきません。」
樹は瞬いた。「……何?」
「無料でお手伝いします。……長期的な投資として。」
樹は疑わしげにレイナを見た。「……無償で何かをする人間はいない。」
レイナは小さく笑った。「……おっしゃる通りです。でも私はお金を求めているわけではありません。私は……アクセスを求めています。」
「何へのアクセスだ?」
「あなたのネットワークへ。あなたの物件へ。そして……」レイナは深い眼差しで樹を見た。「……あなたの人生へ。」
樹は答えなかった。
レイナは微笑んだ。完全には読み解けない笑みだ。
「……ご安心ください。私生活に干渉するつもりはありません。ただ、あなたの近くにいたいだけです。なぜなら……あなたは面白い方だから。」
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午後0時0分——丸の内ビルの外。
樹と志織はビルの前に立ち、レイナが黒いリムジンに乗り込むのを見送った。
「……彼女は面白い方ですね。」志織が言った。
樹は頷いた。「……ああ。でも、彼女を信頼できるかどうかは分からない。」
志織は樹を見た。「……なぜですか?」
「あまりにも完璧すぎる。あまりにも洗練されている。あまりにも……計画的だ。」
志織は微笑んだ。「……確かにそうです。でも……それはあなたに必要なものかもしれません。」
樹は志織の方を向いた。「……どういう意味だ?」
「あなたが見えないものを見ることができる人。あなたの成長を助けてくれる人。」志織は優しい眼差しで樹を見た。「……全てを一人でできるわけではありません。」
樹は答えなかった。しかし心の中で、志織の言う通りだと分かっていた。
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午後2時0分——十階へ戻る。
樹は社長椅子に座り、システムの残高を表示するスマホの画面を見つめた。
【本日の支出: 〇円】
【残り目標額: 百九十五億円】
【残り時間: 16:00:00】
樹は息を吐いた。「……早くこの金を使わなきゃ。」
志織がタブレットを手に入ってきた。「如月さん、新宿と渋谷の候補物件リストをまとめました。総額約百五十億円です。」
樹はそのリストを見た。「……全部買おう。」
志織は微笑んだ。「……既に手配しています。」
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午後4時0分——十階·小会議室。
樹と志織は購入予定の新規物件について話し合っていた。樹は詳細を完全には理解していなかったが、志織を信頼していた。
「志織さん。」
「はい?」
「……西園寺レイナを信頼できると思うか?」
志織はしばらく考えた。
「……ビジネスの面では信頼できると思います。しかし個人的な面では……」志織は深い眼差しで樹を見た。「……注意が必要です。」
樹は頷いた。「……分かっている。」
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午後6時0分——ブガッティ・ミストラル・ヴィンチェロの中。
樹は少しドライブすることにした。長い一日のストレスを発散するために。彼はブガッティ・ミストラル・ヴィンチェロの運転席に座り、エンジンを始動し、W16の轟音を感じた。
彼はアクセルを踏み、車は驚異的な速度で滑り出した。キャビン内では、ビスポークオーディオシステムが柔らかなジャズを流している。
樹は微笑んだ。
「……これが自由だ。」
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【次話 第42話——『女たちの東京駅』】
東京駅で、冴、莉々香、澪、そしてレイナが偶然出会う。樹もそこにいる。状況は気まずいラブコメディの様相を呈し始める。それぞれの女性が樹に対して異なる感情を持っており、そしてそれぞれが自分だけではないことに気づき始める。
【第42話へ続く……】




