第40話 ー『秘書の初仕事』
第40話 ー『秘書の初仕事』
2026年5月11日(月)——午前8時0分。
丸の内·キサラギ・アセット・マネジメント本社ビル——十階。
丸の内の月曜日の朝は、いつもと違う空気が流れていた。週末が終わったせいかもしれない。あるいは、志織がオフィスにいることで、樹がより自信を持てるようになったからかもしれない。彼はいつもより早く——七時四十五分に——到着し、志織が既に自分の机に座っているのを見つけた。タブレットを手に、コーヒーを脇に置き、真剣な表情で既に仕事を始めている。
「おはようございます、如月さん。」
樹は瞬いた。「……いつからここに?」
「六時三十分です。あなたが到着される前に全ての書類を確認したくて。」
樹は半ば感嘆しながら頷いた。「……本当に本気なんだな。」
志織は小さく微笑んだ。「仕事には真剣ですから。」
彼らは社長室へ入った。志織はタブレットを持ち、樹は奇妙な気分で椅子に座った。まるで新しい学校の初日のようだ。志織が彼の前に立ち、優しいプロフェッショナルな表情を浮かべている。
「如月さん、全ての書類と既存のシステムを確認しました。いくつか話し合うべき点があります。」
樹は眉を上げた。「……例えば?」
志織はタブレットのリストを開き、落ち着いた整然とした声で説明を始めた。
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午前8時15分——十階·社長室。
「まず、スケジュールについてです。」
樹は眉をひそめた。「……スケジュール?」
「ええ。現状、あなたには structured なスケジュールがありません。日次のアジェンダも、優先順位も、重要なタスクに割り当てられた時間もありません。これは——」志織は言葉を止め、適切な言葉を探した。「——混乱しています。」
樹は無表情で志織を見た。「……混乱?」
「混乱しています。」志織はその言葉を優しくしかしはっきりと強調した。「あなたは毎日違う時間にオフィスに来ます。タスクリストもありません。ミーティングを管理するシステムもありません。あなたは——」彼女は息を吐いた。「——まるで目的のない鳥のように日々を過ごしています。」
樹は沈黙した。反論できなかった。
「……考えたこともなかった。」
「だからこそ、私が必要なのです。」志織は小さく微笑んだ。「今週の初期スケジュールを組みました。午前中は管理業務、午後は会議と物件視察、夕方は評価と計画。そして——」彼女は鋭い目で樹を見た。「——毎日同じ時間に昼食をとります。」
樹は瞬いた。「……何?」
「昼食です。健康と生産性に重要です。食事なしでは働けません。」
樹は何と言えばいいのか分からなかった。ただ頷いた。
「……わかった。」
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午前8時45分——十階·社長室。
「次に、契約書です。」
樹は眉をひそめた。「……契約書?」
「ベンダー、サプライヤー、従業員、ビジネスパートナーとの契約書です。現状、ほとんどの契約書が適切に整っていません。いくつかはそもそも存在しません。」志織はタブレットの書類を開いた。「デジタルブリッジには従業員との正式な契約書がありません。神田の物件には明確な賃貸契約書がありません。青山のビルは——」
樹は手を挙げた。「……もういい。分かった。」
志織は眉を上げて彼を見た。「……お分かりになりました?」
「書類がないんだ。分かってる。」
「……では、なぜ何もしなかったのですか?」
樹は息を吐いた。「……どこから始めればいいのか分からなかったからだ。」
志織は沈黙した。そして微笑んだ。優しく、理解のある笑顔だ。
「……だからこそ、私が必要なのです。」
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午前9時0分——十階·社長室。
「次に、会社の口座です。」
樹は眉をひそめた。「……会社の口座?」
「ええ。現状、全ての取引があなたの個人口座で行われています。個人の財務と会社の財務が分離されていません。これは——」志織は言葉を止め、適切な言葉を探した。「——リスクがあります。税務、監査、財務管理の面で。」
樹は答えなかった。ただ少し申し訳なさそうな表情で志織を見つめた。
「……考えたこともなかった。」
「承知しています。」志織はタブレットを操作した。「銀行に連絡し、法人口座の開設手続きを進めました。完了までに約三日かかります。その後、全てのビジネストランザクションは会社の口座を通じて行われます。」
樹は頷いた。「……わかった。」
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午前9時30分——十階·社長室。
「次に、車両についてです。」
樹は眉を上げた。「……車両?」
「先日購入された業務用車両——トヨタ・センチュリー、レクサスLM、メルセデス・マイバッハ、トヨタ・ハイエース。これらはまだ業務用として登録されていません。」志織はメモを確認した。「保険代理店と運輸局に連絡しました。登録手続きは二日以内に完了します。」
樹は心からの感嘆の気持ちで志織を見つめた。
「……これを全部、二時間でやったのか?」
志織は小さく微笑んだ。「仕事は速い方ですので。」
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午前10時0分——十階·社長室。
「次に、会議についてです。」
樹は眉をひそめた。「……会議?」
「アジェンダのない会議。明確な目的のないミーティング。決断のない長引く議論。」志織は鋭い目で樹を見た。「これはビジネス界で最大の時間の無駄の一つです。」
樹は反論できなかった。東都リンクスでの会議を思い出した。何時間も話し合って結論が出ず、ただ会議のノルマを満たすだけの時間。
「……同意する。」
「結構です。今日から、全ての会議に明確なアジェンダ、定められた時間、測定可能な成果を設けます。全て私が準備します。」
樹は頷いた。「……わかった。」
志織はタブレットを閉じ、小さな微笑みを浮かべて樹を見た。
「……とりあえずは以上です。仕事を始めます。」
樹は感嘆と信じられなさが入り混じった表情で志織を見つめた。
「……志織さん。」
「はい?」
「……よくこれだけのことができるな。」
志織は微笑んだ。優しく、心からの笑顔だ。
「……プロフェッショナルですから、如月さん。そして、あなたを助けたいと思っています。」
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午前10時30分——九階·樹のプライベートスペース。
志織は迅速かつ効率的に仕事を始めた。銀行、保険代理店、業者、ITベンダー、そしてキサラギ・アセット・マネジメントの運営に関わる様々な関係者に連絡を取った。
樹は九階のプライベートスペースに座り、開いたガラスドア越しに志織が働く様子を見ていた。彼女が電話で落ち着いてプロフェッショナルに話す様子、タブレットに素早く入力する様子、机の上に書類をきちんと整理する様子。
「……本当にすごい人だ。」
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午前11時0分——十階·小会議室。
志織が樹を短いミーティングに呼んだ。樹は彼女の向かいに座り、まるで教師に呼ばれた生徒のような気分だった。
「如月さん、今週の優先順位リストをまとめました。」
樹はそのリストを見た。
1. 業務用車両の登録
2. 法人口座の開設
3. 雇用契約書の作成
4. 初期財務監査
5. 潜在的なパートナーとのミーティングスケジュール調整
6. 神田物件の視察
7. 青山プロジェクトの評価
8. 桜庭澪との会合の準備
樹はそのリストを読み、そして志織を見た。
「……これを三時間でやったのか?」
志織は微笑んだ。「……週末に計画していました。」
樹は息を吐き、そして微笑んだ。
「……君がいなければどうなっていたか分からない。」
「おそらくパニックになって不要なものを買っていたでしょうね。」
樹は笑った。心からの、温かい笑い声だ。
「……たぶんね。」
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午後0時30分——丸の内のレストラン。
樹と志織は駅近くの小さなレストランで昼食をとった。志織が作ったスケジュール通り、毎日同じ時間に食事をする——新しい習慣が心地よくなり始めている。
「志織さん。」
「はい?」
「俺は……良い経営者になれると思うか?」
志織は優しい眼差しで樹を見た。
「……もう良い経営者になっていると思います。」
樹は眉を上げた。「……どういう意味だ?」
「あなたにはビジョンがあります。従業員を大切にします。欲張りではありません。他人の話を聞きます。」志織は微笑んだ。「……それは大抵の経営者にはできないことです。」
樹は答えなかった。しかし心の中に、説明できない温かさが広がっていた。
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午後2時0分——十階へ戻る。
樹と志織はオフィスに戻った。志織はすぐに机に座り、新たな意気込みで仕事を続けた。
樹は社長椅子に座り、スマホに表示されたシステムからの通知を見つめた。
【スペシャルクエスト進捗 —— 28%】
【「ホストが全てを自分で管理しなくても機能する組織を築く」】
【進捗: プロフェッショナルな管理体制の構築 —— 28%】
樹はその数字を見つめ、そして微笑んだ。
「……二十八パーセントか。まだまだだな。」
しかし初めて、自分が正しい方向に進んでいると感じた。
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午後4時0分——五階·ワークエリア。
樹と志織は五階を歩き、オフィスインテリアの進捗を確認した。いくつかの机が既に設置され、最初の従業員——志織が採用した事務スタッフ——が働き始めている。
「こんにちは、如月様。こんにちは、志織さん。」
樹は頷いた。少し気まずそうに。「……こんにちは。」
志織は樹の表情を見て微笑んだ。
「……こういうふうに挨拶されるのに慣れていませんね。」
樹は息を吐いた。「……まだ慣れてる最中だ。」
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午後5時0分——九階·樹のプライベートスペース。
樹はプライベートスペースに座り、夕日で色が変わり始めた東京の街並みを眺めていた。志織がタブレットを手に入ってきた。
「如月さん、車両登録の書類が全て完了しました。銀行からは明日、法人口座について連絡が来る予定です。それから——」彼女は言葉を止め、微笑んだ。「——明日のスケジュールも整いました。」
樹は心からの感謝の気持ちで志織を見た。
「……ありがとう、志織さん。」
「お礼には及びません。ただ仕事をしたまでです。」
彼らは心地よい沈黙の中で立ち、夕方の景色を楽しんだ。
「……如月さん。」
「はい?」
「……あなたと一緒に働けて、私は本当に嬉しいです。」
樹は志織の方を向き、微笑んだ。
「……俺もだ。」
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【次話 第41話——『投資家、来訪』】
翌日、大手投資会社のインベストメント・ディレクター、西園寺レイナが樹との面会を求めてくる。レイナは鋭い財務質問で樹を試す——そして樹は「分からない」と正直に答える。レイナは最後に笑い、樹をこれまで出会った中で最も面白い人物だと判断する。
【第41話へ続く……】




