第16話 ー『青山のモデル』
第16話 ー『青山のモデル』
2026年4月19日(日)——午前9時30分。
恵比寿のマンション。
樹はいつもより遅く起きた。午前九時三十分。罪悪感はなかった。待っている人もいない。埋めるべきスケジュールもない。ただ、晴れた日曜日と、窓の外に広がる青い空だけがある。
彼はシャワーを浴び、服を着替えた。白のカジュアルシャツ、明るいグレーの薄手のジャケット、コットンのパンツ、茶色のカジュアルシューズ。手首には、パテック・フィリップが静かに時を刻んでいる。
キッチンでコーヒーを淹れ、簡単な朝食をとる。トーストにジャム、ゆで卵。食べながらスマホを開き、冴からのメッセージを確認した。
「おはようございます、如月さん。週末はいかがお過ごしですか?」
樹は小さく微笑み、返信した。
「おはようございます、久遠さん。いいですね。今日は青山に行こうと思っています。行ってみたいカフェがあるんです。」
冴からの返信がすぐに届いた。
「青山ですか?あそこには素敵なカフェがたくさんありますね。良い日曜日をお過ごしください。」
「ありがとうございます、久遠さん。久遠さんも。」
樹はスマホを閉じ、朝食を食べ終え、地下駐車場へ向かった。
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午前10時15分——恵比寿の地下駐車場。
漆黒のロールス・ロイス・スペクターは、薄暗い駐車場の灯りに輝きながら、同じ場所に停まっていた。樹はドアを開け、ドライバーズシートに座る。柔らかな革が身体にフィットする。
スタートボタンを押す。電動モーターが、ほとんど神秘的な静けさで始動する。
「……青山。」
ダッシュボードのナビが最速ルートを表示する。樹はアクセルを踏み、車はスムーズに駐車場を出ていった。
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午前10時30分——青山へ向かう道。
車は混み始めた東京の街を走る。車内は快適な静けさだ。エンジン音も振動もなく、プレミアムスピーカーから流れる静かなクラシック音楽だけが聞こえる。
樹は片手でハンドルを握り、ゆったりと運転しながら、窓の外を流れる街並みを楽しむ。住宅地からオフィス街へ、そしてエレガントなショッピングエリアへと景色が変わっていく。
彼は青山エリアに入った。高級ブティックやおしゃれなカフェが立ち並び、街路樹の生い茂る道として知られている。
樹は駐車場を探し、目指すカフェの近くに一台分を見つけ、ロールス・ロイスを丁寧に停めた。
近くのバレットパーキングの係員が、目を丸くしてその車を見つめ、そして慌てて駆け寄ってきた。
「おはようございます、お客様!お車はお預かりいたします。」
樹はキーを渡し、軽く頷いてからカフェへと歩いていった。
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午前10時45分——表参道のカフェ。
そのカフェは小さくてエレガントだった。露出したレンガの壁、古びた木製のテーブル、暖かな雰囲気を醸し出す黄色い灯り。挽きたてのコーヒーの香りが、焼き立てのケーキの香りと混ざり合いながら店内に広がっている。
樹はブラックコーヒーとチーズケーキを注文し、窓際の席に座った。外では、表参道の通りが賑わい始めている。人々がゆったりと歩き、晴れた日曜日を楽しんでいる。
彼はコーヒーを一口すする。温かさと苦みが舌の上に広がる。目の前のチーズケーキは、つややかな表面が美しい。
フォークを取り、小さく切り分けて口に運ぶ。美味しい。甘すぎず、濃厚なチーズの風味が広がる。
樹は一瞬目を閉じ、その味を堪能した。
「……完璧な日曜日だ。」
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午前11時15分——カフェ店内。
カフェは次第に混み始めていた。数人の客が入ってくる。若いカップル、友人同士のグループ、手に本を持った年配の男性。低い会話の声が、コーヒーマシンの音やスピーカーから流れる静かなジャズと混ざり合っている。
樹がスマホで本を読んでいると、外から騒ぎが聞こえてきた。
速い足音。半ば叫ぶような女性の声。カメラのシャッター音——カチッ、カチッ、カチッ——まるで連続する銃声のように。
樹は窓の外を見た。
外では、一団の人間が歩道を走り抜けていた。大きなカメラを持ったカメラマン、黒いスーツを着た数人の男たち、そして必死に逃げようとしている若い女性。
その女性は明るい茶色の髪で、スラリとした長身、少しよれた白いワンピースを着ている。顔は慌てていて、目は隠れる場所を探している。
樹はカフェのドアを見た。
女性もそれを見た。
一瞬のうちに、女性はカフェのドアを開け、慌てて中に入ってきた。そして樹のテーブルに向かって走り、彼の前で息を切らしながら立ち止まった。
「助けて!隠して!」
樹は瞬いた。「……え?」
「お願い!あの人たちが——」女性は窓の外を指さした。カメラマンたちがカフェのドアに近づき始めている。「——追いかけてるの!もう無理で——」
樹は外のカメラマンたちを見た。彼らは攻撃的に見え、大きなカメラを構えて構えている。
彼は短く息を吐いた。
「……こっちだ。」
彼は立ち上がり、女性の手を掴んでカフェの奥へ進んだ。小さな厨房を通り抜け、裏口から建物の裏手の狭い路地へ出た。
女性は何も聞かずに彼についてきた。
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午前11時20分——カフェ裏の路地。
彼らは二つの建物の間の狭い路地に立っていた。正面には静かな小道。背後では、カフェから聞こえる騒ぎが遠ざかり始めている。
女性は身をかがめ、両手を膝に置き、大きく息を吸った。
「……はぁ……はぁ……ありがとう。」
樹は彼女の隣に立ち、両手をポケットに入れ、くつろいだ表情を浮かべている。「……あの人たちは?」
「カメラマン。やりたくもないイベントに無理やり出させようとするマネージャー。撮影から逃げてきたの。」女性は顔を上げ、樹を見つめた。「あなた、本当に私のこと知らないの?」
樹はその女性を見た。顔立ちは美しい。大きな瞳に長いまつげ、すべすべした肌。その表情には疲れと興奮が混ざっている。
「……知ってなきゃいけない?」
女性は信じられないという表情で彼を見つめた。
「……本当に知らないの?」
「すみません。芸能界にはあまり詳しくなくて。」
女性はしばらく沈黙した。そして笑った。鈴のような、軽やかな小さな笑い声だ。
「……あなた、変わった人ね。」
樹はかすかに微笑んだ。「よく言われます。」
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午前11時30分——青山の小道。
彼らは狭い路地を抜け、カフェの裏手の小さな通りへ出た。遠くではまだ騒ぎが聞こえるが、追ってくる気配はない。
女性は樹の隣を歩き、時折警戒して後ろを振り返った。
「私、橘莉々香。」
「如月樹。」
莉々香が振り返り、好奇心を込めて樹を見つめた。「……如月さん、本当に私のこと知らないの?」
「すみません。テレビはあまり見ないので。」
莉々香は息を吐いたが、その表情は怒っているわけではなかった。むしろ少し安心したようだ。
「……普通の人なら、私を見たらすぐにパニックになるのよ。でもあなたは……何も聞かずに助けてくれた。どうして?」
樹はしばらく考えた。「……あなたが助けを必要としているように見えたから。それだけだ。」
莉々香は立ち止まった。
彼女は樹を、読み解くのが難しい表情で見つめた。驚きと好奇心、そしてそれよりも深い何かが混ざった表情だ。
「……あなたは本当に変わってるわ、如月さん。」
「ただの普通の人間ですよ。」
「普通の人は、カメラマンに追われる見知らぬ女の子を、何も聞かずに助けたりしないわ。」
樹は答えなかった。ただ歩き続け、莉々香はそれに従った。
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午後0時0分——表参道の街路。
彼らは表参道の街路に立っていた。街路樹とエレガントな店々の間で。莉々香は少し落ち着いていた。顔にはもうパニックはなく、呼吸も整っている。
「さっきは本当にパニックだったの。」莉々香が言った。「マネージャーが急にスケジュールを変えてね。今日は休みのはずだったのに、急な撮影に行けって無理やり。それにカメラマンたちが……すごく攻撃的で。」
樹は頷いた。「……大変そうだね。」
「その半分も分かってないわよ。」莉々香は息を吐いた。「モデルって疲れるの。みんながあなたに何かを求めてる。いつもカメラがあって、いつも要求があって、いつも期待してる人がいる。」
樹は静かに聞いていた。
「……でも今日、私は逃げることにしたの。もう耐えられなかった。」莉々香は樹を見つめた。「そして、カフェであなたを見た時——静かに座って、コーヒーを飲んで、周りの世界に構わずに——あなたなら頼れる人だって直感したの。」
樹は小さく微笑んだ。「大したことはしてないよ。」
「十分にしてくれた。」莉々香は手を差し出した。「ありがとう、如月さん。」
樹はその手を握り返した。温かく、柔らかく、指先に微かな震えがあった。
「どういたしまして、橘さん。」
莉々香は樹を見つめた。その目は昼の日差しの下で輝いていた。
「……また会いたいわ。」
樹は瞬いた。「……どうして?」
「だってあなたは面白い人だから。私はあまり面白い人に出会わないの。」
樹は何と答えればいいのか分からなかった。
「……よく青山に来るよ。」彼はようやく言った。「また会えるかもしれないね。」
莉々香は微笑んだ。明るくて、心からの笑顔だ。
「探し出すから。」
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午後0時30分——カフェの前。
樹はカフェに戻り、テーブルに置き忘れた本を受け取った。外では、カメラマンの群れはもういなくなり、静かな午後の雰囲気に変わっていた。
彼は駐車場へ歩き、バレットからロールス・ロイスを受け取った。ドアを開けようとした時、後ろから声がした。
「如月さん!」
彼は振り返った。
莉々香が街路に立っていた。茶色い髪が日差しの下で輝いている。手には、画面の光ったスマホ。
「……番号、教えてくれない?」
樹は瞬いた。「……番号?」
「うん。ちゃんとお礼がしたいから。」
樹は少し考え、そしてスマホを取り出した。二人は素早く番号を交換した。
莉々香はスマホの画面を見て、微笑んだ。
「連絡するわ、如月さん。」
「……うん。」
莉々香は手を振り、そして振り返って歩き去った。遠くでは、一人の女性——おそらくマネージャーだろう——が慌てた表情で彼女に駆け寄っている。
樹は莉々香の後ろ姿を見送り、そして車に座った。
「……変な一日だ。」
彼はドアを閉め、エンジンをかけ、青山を後にする。
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【次話 第17話——『ルミエール・アーツ』】
スタジオに戻った莉々香は、樹のことを考えずにはいられなかった。彼女はマネージャーに、助けてくれた奇妙な青年について尋ねる。しかし誰も如月樹という人物を知らない。一方、樹はシステムから新たなクエストを受け取る。「不要なもの」に五億円を使えというものだ。そして樹は完璧なターゲットを見つける。青山の空きビル。
【第17話へ続く……】




