第132話 『助けてほしい、でも救ってほしくない』
第132話 『助けてほしい、でも救ってほしくない』
2026年8月4日(火)——午前9時0分。
青山・リュミエール・アーツ——二階・待合室。
青山の朝は、いつもより人影が少なかった。火曜日だからかもしれない。あるいは、明け方から降り続く小雨のせいで、人々が外に出るのをためらっているからかもしれない。リュミエール・アーツのビルのガラス窓は灰色の空を映し、二階のロビーでは、自動販売機のコーヒーの香りが、部屋の隅で焚かれたアロマキャンドルの匂いと混ざり合っていた。
莉々香は薄いグレーの革張りソファに座り、半分冷めた紙コップを手に持っていた。白いシンプルなTシャツに、海色の軽いブレザー。いつもはきちんと整えている髪も、今日は後ろで適当に結わえているだけだった。机の上には、画面がついたままのタブレットがあり、リュミエール・アーツの最大手クライアントの一つ——二年間この事務所と仕事を続けてきた全国化粧品メーカー——からのメールが表示されていた。
樹は十分後に到着した。灰色のコートを着て、雨で少し濡れたままガラスの扉をくぐる。志織は後ろからついてきたが、ロビーで止まり、中には入らなかった。樹は近づき、小さなバッグを莉々香の隣の椅子に置き、何も言わずに座った。
莉々香は彼を見て、かすかに微笑んだ。「ちょうどいい時間に来たね。」
「待たせるのは好きじゃない。」樹は机の上のタブレットに目をやった。「クライアントからのメールか?」
「うん。」莉々香はタブレットを差し出した。「自分で読んで。」
樹はそれを受け取り、開かれているメールを読んだ。長くはないが、密度は濃い。クライアント側からの「公式な説明」の要求——莉々香とキサラギ・アセット・マネジメントの関係について、だ。理由は「透明でないビジネス関係は、今後の協力判断に影響を与えかねない」というものだった。
樹は読み終えると、タブレットを返した。「直接非難しているわけじゃない。外交的な言葉だ。」
「そう。」莉々香はタブレットを机に置いた。「でも翻訳すれば簡単よ。彼らは知りたいの——私がこのプロジェクトを得たのは、実力なのか、それともあなたとのコネなのかって。もし後者なら、協力を考え直すかもしれない。」
樹はソファに背をもたせた。「彼らには何と答えた?」
「まだ何も。」莉々香は正直な目で樹を見た。「答える前に、あなたと話したかったの。」
樹はすぐには答えなかった。しばらく莉々香を見つめ、それから静かな声で言った。「俺が君の代わりに答えることはできない。」
「わかってる。」莉々香は冷めたコーヒーを一口すし、また置いた。「でも意見が欲しいの。決断じゃなくて。」
樹はゆっくりと頷いた。「わかった。何を聞きたい?」
莉々香は真剣な目で彼を見た——カメラの前ではめったに見せない目だ。「樹、もし私がクライアントに正直に答えたら——私たちの関係はプライベートなことで、仕事とは何の関係もないって——それで十分だと思う?それとも、彼らはまだ私を疑い続ける?」
樹はしばらく考えた。「それは君の伝え方次第だ。もし防衛的に聞こえたら、彼らはもっと疑う。もし自信を持って聞こえたら、彼らは信じる。」
「それでも信じなかったら?」
「なら、それは君の問題じゃない。」樹は落ち着いた目で莉々香を見た。「君は他人の考えをコントロールできない、莉々香。コントロールできるのは、自分が何をして、どうやるかだけだ。」
莉々香はしばらく黙った。床を見つめ、そして顔を上げた。「私はここで働き続けたい。この事務所が好き。チームが好き。でも、同情で残りたくないし、あなたを恐れて残りたくもない。」
樹は頷いた。「なら、クライアントに正直に答えろ。君はプロとして契約に基づいて仕事をしている。プライベートな関係は仕事に影響しない。もしそれでも彼らが迷うなら、再プレゼンを提案しろ——君自身についてではなく、君が彼らに何を提供できるかについて。」
莉々香は瞬いた。「再プレゼン?」
「ああ。時には、自分がふさわしいと証明する最善の方法は、結果を見せることだ。認識について議論するより。」
莉々香はかすかに微笑んだ——さっきより心からの笑顔だ。「あなたはいつも、複雑な問題をシンプルに聞かせるのね。」
「外から見ているだけだ。」樹は立ち上がり、コートを整えた。「向き合うのは君だ。」
莉々香も立った。「樹。」
「うん?」
「もし私が本当にあなたの助けを必要としたら——お金とかじゃなくて、あなたがそこにいてくれるという意味で——来てくれる?」
樹は柔らかくも断固とした目で莉々香を見た。「君が本当に必要なら、行く。でも前には出ない。君の後ろに立つ——振り返れば見えるけど、歩みを妨げない場所に。」
莉々香は微笑んだ——意味に満ちた微笑みだ。「それで十分。」
---
午前10時30分——青山のカフェ——窓際の席。
リュミエール・アーツでの会合の後、莉々香は樹を通り角の小さなカフェに誘った——昨日と同じ店だが、今回は窓際の席に座り、朝の雨に濡れた木々を眺めている。
店員が二つのカップを運んできた——樹にはブラック、莉々香にはラテ。莉々香は両手でカップを包み、温かさを楽しみ、それから以前より落ち着いた目で樹を見た。
「決めた。」と彼女は言った。「今日の午後、リュミエール・アーツの経営陣と話す。全部説明する——仕事、契約、そしてあなたとの関係。プロとして支持してほしいと頼む。あなたのためじゃなく、私がふさわしいから。」
樹は頷いた。「いい決断だ。」
「でも一つだけ伝えたいことがある。」莉々香はカップを置いた。「怖いの、樹。」
樹は否定しなかった。「怖くない」とも「大丈夫」とも言わなかった。ただ静かに莉々香を見て、尋ねた。「何が怖い?」
莉々香は息を吐いた。「いつか、私が成し遂げた全て——努力も、練習に費やした夜も、疲れていてもこなした撮影も——あなたからの贈り物だと思われるのが怖い。私がふさわしいからじゃなく、あなたの近くにいるから。」
樹は遮らずに聞いた。
「間違ってるってわかってる。努力したこともわかってる。でも他人の認識は……私の手の届かないところにある。」莉々香は涙ぐんだ目で樹を見たが、涙は落ちなかった。「それが一番怖い。仕事を失うことじゃない。自分の闘いの意味を失うこと。」
樹はしばらく莉々香を見て、それから静かだがはっきりした声で言った。「君が常に正しく見られることは約束できない。世論は操作できない。君がふさわしいと無理に信じさせることもできない。」
莉々香は静かに頷いた。「わかってる。」
「でも一つだけ約束できる。」樹は正直な目で莉々香を見た。「俺は君の仕事を軽んじない。君のキャリアをお金で買えるものだと思ったことは一度もない。そしてもし誰かに聞かれたら、本当のことを言う——橘莉々香は俺が知る中で最もプロフェッショナルなモデルの一人で、彼女の成功は彼女自身の努力の結果だと。」
莉々香は長い間樹を見つめた。その目に何かが変わった——安堵でも喜びでもなく、美しいとは限らないが正直な真実を聞いた後の、ある種の静けさだった。
「ありがとう。」と彼女はようやく言った。「空約束よりずっといい。」
樹は頷いた。「空約束は好きじゃない。」
莉々香は微笑んだ——以前よりずっと心からの笑顔だ。「知ってる。」
---
午後1時0分——表参道——リュミエール・アーツ・ブティック。
昼食の後、莉々香は表参道のリュミエール・アーツ・ブティックへ向かった——普段、撮影のフィッティングを行う場所だ。今日は撮影はないが、長く一緒に働いてきたスタッフ数人に、経営陣と話す計画を伝えたかった。
ブティックはガラス張りのビルの二階にあり、大きな窓からは表参道の並木道が見える。中では、ドレスや服が木の棚にきちんと並べられ、部屋の隅ではスタッフが来週の撮影用の服を準備している。
莉々香が入ると、厚い眼鏡をかけた中年の女性——森、リュミエール・アーツで十二年働くシニアスタイリスト——が温かい笑顔で迎えた。「莉々香ちゃん、早いね。」
「森さん、話したいことがあるの。それに他のみんなにも。」
森は畳んでいた服を置いた。「どうしたの?真剣な顔して。」
莉々香は森と、もう二人のスタッフ——アシスタントスタイリストの坂本と、撮影コーディネーターの上田——をブティックの隅のソファに座らせた。そして状況を静かに説明した。クライアントからのメール、メディアの記事、そして経営陣と話す計画。
「みんなに知っておいてほしいの。私はその会合に樹の名前を持ち込まない。」と莉々香は言った。「私は橘莉々香として話す——この事務所で四年働いてきたモデルとして。マネジメントに支持を求めるのは、私がふさわしいからで、コネがあるからじゃない。」
森は静かに頷いた。「勇気ある決断ね。」
「愚かな決断?」
「いいえ。」森は鋭くも温かい目で莉々香を見た。「愚かなのは、黙って問題が消えるのを待つこと。あなたは向き合うことを選んだ。それは愚かじゃない。」
坂本が付け加えた。「私たちは応援します、莉々香さん。あなたがどう働いてきたか見てきました。特別扱いを求めたこともないし、誰よりも早く来ている。」
上田も頷いた。「マネジメントがそれを見られないなら、それは彼らの問題であって、あなたの問題じゃない。」
莉々香は微笑んだ——以前よりずっと安心した笑顔だ。「みんな、ありがとう。」
---
午後3時0分——リュミエール・アーツ——経営会議室。
莉々香は経営会議室に座った——長いテーブルと、青山を見渡す大きな窓のある部屋。向かいに三人の経営陣。リュミエール・アーツ執行役員の高木——芸能界で三十年働く男性——モデル部門長の西村、そして法務部長の小林。
「時間を取ってくれてありがとう。」莉々香は静かだが断固とした声で言った。「この事務所での自分の立場についていくつか話したいことがあります。」
高木は頷いた。「聞こう。」
莉々香はタブレットを開き、過去二年間に手がけたプロジェクトのリストを表示した——化粧品キャンペーン、編集撮影、スポーツウェアブランドとの契約。「これらのプロジェクトは全て通常の選考過程を経て獲得したものです。キャスティングを受け、オーディションを受け、プロとして契約しました。誰かとの私的な関係で得たものは一つもありません。」
西村はメモした。「私たちはそれを疑ったことはありません、橘さん。」
「でもクライアントは疑っています。メディアも疑っています。」莉々香は正直な目で高木を見た。「他人の考えはコントロールできません。できるのは、この事務所が私をプロとして支持すること——影響力のある誰かと近いからではなく、私がふさわしいからだと。」
高木はしばらく莉々香を見た。「私たちに何をしてほしい?」
「第一に、全ての私のプロジェクトが通常の過程で獲得されたという公式声明を出してほしい。第二に、説明を求めてきたクライアントとの契約を再検討してほしい——私のしてきたことを信じられないなら、この協力は続ける価値がないかもしれない。」
法務部の小林が手を挙げた。「それはリスクのある決断だ。そのクライアントは最大手の一つだ。」
「わかっています。」莉々香は静かに小林を見た。「でも、私の誠実さを疑うクライアントのために働きたくない。」
部屋は数秒間静まり返った。そして高木はかすかに微笑んだ——感銘を受けた笑みだ。
「わかった。公式声明を出す。そしてそのクライアントとの契約も再検討する。」
莉々香は頷いた。「ありがとうございます。」
---
午後6時0分——リュミエール・アーツの外——夕方。
莉々香がリュミエール・アーツのビルを出た時、太陽は西に傾き始めていた。青山の空はオレンジがかった金色に染まり、午後の雨の後の空気はより新鮮に感じられた。彼女は歩道に立ち、帰宅し始めた人々で賑わう通りを見つめた。
スマホが震えた——樹からのメッセージ。
「結果はどうだった?」
莉々香は微笑み、返信した。
「思ってたより良かった。今朝聞いてくれてありがとう。」
樹からの返信はすぐに来た。
「俺は何もしてない。君がやったんだ。」
莉々香はそのメッセージをしばらく見つめ、スマホを置いた。彼女は深く息を吸い込み、午後の空気を肺いっぱいに感じた。
「私がやったんだ。」と彼女は小声で呟いた。「後悔してない。」
---
午後8時0分——成城・キサラギ・プライベート・レジデンス——夕食。
樹が成城のマンションに着くと、夕食は既に準備できていた。千春がエプロン姿で玄関で迎え、温かい笑顔を浮かべた。「今日はちょうどいい時間に帰ってきたわね。」
「うん、母さん。急ぎの用事はなかった。」
食卓では、キサラギ家が既に集まっていた。正則は端で新聞を読み、留奈はノートパソコンで何かを美咲に見せており、小春はいつもの席に本を置いて座っている。樹が席に着くと、千春がスープを注いだ。
「お兄ちゃん、見てこれ!」留奈がノートパソコンを樹の方へ回した。「アプリの初版ができたよ!まだバグだらけだけど、動くの!」
樹は画面を見た——粗いが機能する、週間スケジュール表示のシンプルなアプリ。「よくやった、留奈。短期間でよく学んだな。」
留奈は誇らしげに微笑んだ。「オンラインチュートリアルで学んだの!それに実乃里さんもUIデザインの資料を送ってくれた!」
美咲が食事をしながら口を挟んだ。「昨夜は二時までやってたのよ。私が電気を消さなきゃ、ずっと続けてた。」
「だって夢中だったんだもん!」留奈は弁解した。
樹は微笑んだ。「夢中なのはいいけど、睡眠も大事だ。」
ずっと黙っていた小春が、静かな目で樹を見た。「お兄ちゃん、今日の仕事はどうだった?」
樹は末の妹の方を向いた。「うまくいったよ、小春。いくつか片付けることがあったけど、全部終わった。」
小春は頷き、それ以上は聞かなかった。だがその目は、いつものように、言葉にされない何かを読み取る注意深さで兄を見つめ続けていた。
---
午後10時0分——樹の部屋の中——夜。
樹は自室の窓際の椅子に座り、静かな成城の夜景を眺めていた。手には自分で淹れた緑茶のカップ。机の上では、まだ返信していないいくつかのメッセージがスマホに表示されている。
志織からのメッセージ:「如月さん、明日のスケジュールを準備しました。冴さんとの福岡プロジェクトの打ち合わせ、そしてレイナさんが投資に関するいくつかの件を話したいとのことです。詳細は明朝お送りします。」
冴からのメッセージ:「大阪プロジェクトの財務報告書が完成しました。全体として、プロジェクトは予定通り、予算内で進んでいます。」
そして莉々香からのメッセージ:「リュミエール・アーツの公式声明が出た。説明を求めてきたクライアントは事務所に連絡して謝罪した。彼らは協力を続けたいそう。前に出てこなかったことに感謝してる。」
樹は最後のメッセージをしばらく見つめ、スマホを置いた。茶を一口すし、喉から全身に広がる温かさを感じる。
今日は長い一日だった——そしておそらく最後の長い日ではない。まだ多くのことを片付け、多くの決断を下し、多くの人が彼に依存している。
しかし今夜だけは、休めた。
「……明日も忙しくなりそうだ。」
カップを置き、机の灯りを消し、ベッドに横たわる。窓の外では、成城の灯りが静かに瞬き、月が夜空に低く掛かっていた。
---
【次話 第133話——『ブランドと境界線』】
莉々香は、リュミエール・アーツから大型ブランドキャンペーンへの参加を求められたことで、利益相反に直面する。受ければ、世間は彼女と樹の関係をますます疑うだろう。断れば、キャリアにとって大きなチャンスを失うかもしれない。彼女は冴に意見を求めるが、冴は決断を与えない——選択は莉々香のものだと告げるだけだ。莉々香はキャンペーンを受け入れるが、明確なプロとしての線引きを設ける。樹はスポンサーにならない。
【第133話へ続く……】




