Scene-6 / 旅のはじまり
エルフと出会ったその夜、森の中で目覚めた日以来の深い眠りについた。
それでも、時折り私は目覚めた。
エレンディールは一晩中、治癒のために付き添っていてくれた。
時には、空いた手を動かし、何かを唱え、別の光の球体を作り出すこともあった。
よく見ると、光の文字と同じく、球体は単一の光ではなく、光の粒のようなものが内部で対流しているようにも見えた。また、球体の周りを囲んで文字や紋様のようなものが現れたりもしていた。
目覚めるたびに身体の痛みは薄らいでいた。
私はエレンディールに何度か話しかけた。
質問に答えないことも多かったが、私の身体が向かおうとしていた方角にはアルトリウスという街があること。そこにはかつて、私のような転位者が住んでいたと聞いたがあるということ、その街への行き方を教わった。
「ふい~。やっと解除できた。」
エレンディールは、足を投げ出して座り、私が理解できる言葉で声を発した。
私と思念を通じるなかで、言語を学習できたのだろうか。
少年の見た目通りに高い声で、頭の中に聞こえてきた老人のような声とはまるで違った。
薄暗い小屋では不確かだが、壁の隙間から漏れ入ってくる陽の光から、すでに夜は明け、昼近いと思われた。
私ができうる最上の表現で、例を述べた。
「いいよ、いいよ。気にしないで。
ちょっと用事を片付けるのに通りかかったら、精霊の知らせがあってさ、寄り道しちゃったんだよね。」
声の調子だけでなく、エレンディールの口調も少年のようだった。まるで昔からの友達かのように親しげに話しかけてくる。
「それと、しばらくは、この小屋で安静にするといいよ。肉体は回復してるけど、衰弱してるから、無理は禁物だよ。
数日分の水と食料は置いていくから。
いくつかは森の中で穫れる果実だから、同じものなら食べても大丈夫だよ。」
エレンディールは話しながら、腰に付けた革袋に手を入れた。
「あと、これね。」
そう言って、エレンディールは、光る石が吊るされた首飾りを私に差し出した。
エメラルドグリーンをした水晶のように見えた。複雑なカットが施してあり、革紐のようなもので、これもまた複雑に編み込まれていた。
「これさ、エルフの光っていうお守り。この先、森を抜けるまでの魔物除けになるから使ってよ。
あと、水を汲んだ時とか、こいつをこう翳すと、濁った水でも毒まみれの水でも綺麗な水になるから。便利だから。
使い方自体は、こいつに君が気に入られたら、この石が君に教えてくれるようになるから。」
私は頷いた。
エレンディールは私の手を取り、エルフの光を手のひらの上に置いた。
再度、私ができうる最上の表現で、例を述べた。
普通の人間なら、私の語彙力の素晴らしさに感動しただろう。しかし、相手がエルフであればそうもいかないらしい。
「ああ、いいから、いいから。そういうの要らないから。
でね。
魔物除けの結界を張るには、こう詠唱するんだ。続けて言ってみて。」
“薄明の子らよ、我が身を覆いて、静寂と平和のヴェールとなれ。灯火よ、闇を切り裂き、我らを見えざるものとせん。”
“エルフの光よ、守護と遮蔽の力をもたらさん。不見の結界を織り上げん。”
私はエレンディールに合わせて唱えた。
エルフの光が少し暖かくなったように思えた。
「うん。これで大丈夫。しばらくは効果は消えないから。
それと、この石は誰にも見せないようにしてね。この石が何かを知っている人が見たら、ちょっとびっくりしてしまうと思うから。」
私は頷いた。
エレンディールは、私にはわからない言語で詠唱を唱え、空中から食料と水を取り出してみせた。
じゃぁね、と一言だけを残して、エレンディールは小屋を出ていった。ちょっと散歩してくるとでも告げるかのような気軽な口調だった。一瞬にしてその場から居なくなった。別離に感傷は不要と考える性格なのかもしれない。
私はまた一人に戻った。
エレンディールが置いていった飲み物の中には、アルコールの小瓶が混じっていた。
瓶を開け、鼻を近づけると、スモークした樹木の甘い香りがした。一口飲むと、喉を焼きながら胃に届いた。
質の良い蒸留酒だった。
ワイバーン、眷属のブレス、親切なエルフ、そして上質な酒。
この世界も悪くはない。
――――――――
3日後の朝、私は小屋を出た。
数日あれば、街道にたどり着くということだった。
体調は、この世界で目覚めたなかで、最も良かった。身体が軽い。
小屋に向かう道中とは違って、森に拒絶されたような感覚は無かった。むしろ歓迎されているように感じる。
これまでは、生き物の気配を感じても、姿を目にすることが無かったが、今は様々な小動物に出会うことができた。
日差しは強すぎず、しかし、あたりを鮮明に映し出した。ゆるやかな風が常にある。歩き続けて身体が熱を持っても、ちょうどよく、汗がすぐに蒸発するのか、皮膚は湿ることはなかった。
注意深く周囲を見渡せば、エレンディールが残してくれた果実と同じものを見つけることができた。フルーツのように甘いものもあれば、油分の多いもの、塩分を感じるものもあった。
日に何度かは小川を見つけることも出来た。
よくわからないが、犬型の生き物の群れや、牛と象を合わせたような、しかし巨大な生き物の群れ、日光浴をしているのか、じっと動かない大きな爬虫類のような生き物など、さまざまなものに出会った。
しかし、それらは一様に、私に注意を向けることがなかった。
これが、エルフの光の力らしい。
このあたり一体には、獣は居ても、強力な魔物は少ないらしく、エルフの光の結界で十分だろうということだった。
一度、猪のような群れの一団 ― 数十匹はいただろうか ― が不意に茂みから現れ、川の流れのように突進してきた。しかし、まるでそにあたりに転がっている石や木と同じように見えるのか、私の立つ場所を自然と避けて通り過ぎた。まるで急流に打ち込まれた杭のように、静かに彼らが通り過ぎるのを待てばよかった。
2日目の夜からは焚き火をつくった。
炎から逃げる生き物もいれば、遠巻きにして休むものたちもいた。
私は炎を眺めながら、少しずつ蒸留酒を飲んだ。
空は明るく、青と紫に光る2つの月が見えた。
教えられたとおりに森と草原を抜け、丘陵地帯を過ぎると平原が拡がり始めた。
やがて、大きな大河が目の前に現れた。
「これがヴェロス大河だろう。なるほど、まるで湖のようだ。」誰にともなくそう呟いた。
水は透明度が高く、深い翡翠色をしている。流れは緩やかだった。
陽が反射しない角度から水面に意識を集中すると、魚なのか恐竜のようなものか、かなりの巨体の生き物が泳いでいるのがわかる。
私は肩をすくめ、進行方向を左に向けた。
ヴェロス大河沿いに、川岸を西へ進んでから4日が経った頃、遠くにいくつもの浮島のような中洲が見えはじめた。
そろそろ街道が近いはずだ。
歩調を変えることもなく、私は進んだ。
川岸は細かな砂利や、固い砂地でできていて、歩くのには苦労はしなかった。
いつぐらいだろうか、南から吹く風に何かの気配が混じっているような気がし始めていた。
私は背丈ほどの川岸を登り、南の方角を眺めた。
街道が見えた。
その街道は中洲の方角から南の森に続いている。見渡す丘陵地帯の起伏の陰から時折街道と思われる石畳のようなものが見える。
その街道が森に入るあたりに、何かが見えたような気がして、しばらく目を細めた。
大きななにかが、複数動いているように見えた。
はっきりとはわからないが、距離からして、人の背丈の4、5倍はありそうななにかだった。
南側の森は東に向かうにつれ、手前まで近づいており、川岸に迫るところもあった。
再び川岸に降り、大河に沿って来た方角を戻った。
目星を付けたあたりで川岸を登り、腰をかがめながら、周囲を見回した。
森の木々に隠れてしまい、先程は見えたなにか得体のしれないものの動きを見ることはできなかった。
目前まで迫っている森へ向かってかがみながら走った。
木々の間を縫うように歩いた。
相変わらず、森の生き物は私に気が付かないようだった。
リスのような小動物が、私の右肩に飛び乗り、頭によじ登り、左肩に移り、どこかへ飛び去った。私の頭が舞台だったとでもいうかのように、頭上でくるりと回転して飛び去ったようだ。
元気があってよろしい、と声にならない声で呟いた。
この森は茂みが多く、目的の場所に行くまでに手間取った。
そろそろ近くだろうというあたりから、風に乗って微かに人の血の匂いを感じたような気がした。
木の陰から、街道を覗いた。
街道が森に入ろうかという手前に、数十人の倒れている人間らしき姿が見て取れた。
この世界で目覚めて以来、初めての人間かもしれない。
しばらく森から出ずに、様子を眺めた。
先程は見えた巨大な陰は見当たらない。
しかし、あきらかに巨体であろうと思われる生き物、おそらく2本足だろう、大きな足跡が街道の石畳に濡れた跡として残っている。
おそらく人の血だろう。血が足跡を形作っている。
倒れた人間のほとんどが腹部から出血しており、欠損しているのがわかる。
巨体のそれに内蔵を食われたのかも知れない。
身体から離れてしまった首がいくつか転がっていた。
顔は原型を想像できない。鋭利な刃物というより、鉤爪のようなものが殴打されたはずみに、刈り取られてしまったようにも見える。
無意識に懐から、シガレットケースを取り出した。開けては閉めて、上着に戻した。